96 瑠璃色の記憶
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『あなたのお父さまはね。あなたと同じ琥珀色の髪と、赤い薔薇のような瞳を持っているの』
グラツィアーノの最も古い記憶は、そう言って微笑む母の姿だった。
傷だらけでも優しい母の手が、グラツィアーノの頬を両手でくるむ。その胸元に輝くのは、深い青色を持つラピスラズリのブローチだ。
『おかあさん……。おかあさんのブローチ、傷を付けちゃってごめんなさい』
『グラツィアーノ、転んだ所はもう痛くない? あなたに怪我がなくて、本当によかった……』
『よくないよ……! だってこれ、おかあさんの宝物の、おとうさんとお揃いのブローチなんでしょ……?』
幼いグラツィアーノが泣きじゃくりながら言うと、母はそっと首を横に振る。
『そんなに泣かないで。お母さんには、もっと大切な宝物があるわ』
『……?』
『大事な大事なグラツィアーノ。お母さまとお父さまの、可愛い宝物……』
母はぎゅっとグラツィアーノを抱き締め、あやすように言ったのだ。その体がどんどん痩せていくことに、グラツィアーノも気が付いていた。
『きっとおとうさんが、おかあさんを迎えにきてくれる。おかあさんを治してくれる。そうだよね……?』
『……ええ。グラツィアーノ』
今よりずっと浅慮だったグラツィアーノは、愚かにもそんな未来を信じていた。
母の胸元から青いラピスラズリの飾りが無くなったときも、『お父さまに手紙を出したのよ。お母さまからだという証明のために、あのブローチも同封したの』という言葉を真に受けた。
父はきっとその手紙を受け取り、母を治すための薬を手にして駆け付けてくれるのだと、それだけをよすがにしていたのだ。
『おかあさん。泣かないで、こわくないよ』
起き上がれなくなった母の手を握り、グラツィアーノは必死に叫んだ。
『おとうさんが、もうすぐくるから。おれたちを迎えにきてくれる、ぜったいに』
『……グラツィアーノ』
『おかあさんのブローチ、ちゃんと受けとってる。びょうきも治してくれるから、もうすこしだから、がんばっ……』
『…………』
くちびるを微笑ませた美しい母は、その痩せ細った手で力なくシーツを探ると、取り出した金貨をグラツィアーノに握らせた。
『……おかあさん……?』
これが『お金』であることを、グラツィアーノは知っている。母がまだ元気だったころ、連れられて行った市場などで、母に使い方を教わった。
『……ごめんね。この金貨と一緒にあなたを託せるような相手を、私は見付けることが出来なかった……』
『おかあさん、また咳がでるよ。もうしゃべらないで、ねえ』
『使い方、分かる? ……大丈夫よね。あなたはお父さまに似て、賢い子だもの……』
力無く笑った母に向けて、グラツィアーノは泣きながら頷いた。
本当は嫌だと言いたかったのだ。
ひとりで生きていく方法なんて、身に付けられなくてもいい。母に生きていてほしい。
けれどもそれを口にすると、母を悲しませると分かっていた。
『……大丈夫。ひとりでごはんも食べられるし、夜だってちゃんと、ひとりで寝られる』
『いい子』
母の僅かに安堵した声に、嘘をついて良かったと心から思う。
『どうかこれだけは覚えていて。……お願い。お願いよ』
『おかあさ……』
『私は』
最後に伸ばされた母の手が、グラツィアーノの頭を撫でた。
『私はね。……あの人に出会えて、幸せだったの……』
『……っ』
『だからこそあなたに出会えたわ。グラツィアーノ、お母さまとお父さまの、可愛い宝物……』
『お母さん……!!』
今にして振り返ってみればよく分かる。
恐らく母は、大切にしていた青いラピスラズリのブローチを、父のもとに送ったりはしていなかった。
父との思い出を金貨に変え、それを渡したのが死の直前だったのは、グラツィアーノが母の薬を買いに走らないためだったのだろう。
あのとき母の残してくれた金貨が無ければ、盗みの方法を覚えるまでの冬に、グラツィアーノは容易く命を落としていたはずだ。
『私はね。あの人に出会えて、幸せだったの』
母が最期に遺した言葉を、グラツィアーノは忘れなかった。
手足の感覚が無くなるほど寒くて眠れない夜も、空腹なのに飲み水すら手に入らないような酷暑の日も、お守りのように母の言葉を思い出した。
『大事な大事なグラツィアーノ。お母さまとお父さまの、可愛い宝物』
母の死から二年が経ったあの日、偶然見付けた父を追い掛けたのは、その境遇から救ってほしかった訳ではない。
父が自分と母を拒んでいたことは、子供ながらに察していた。だからただ一言だけ、母が言っていたあの言葉だけを、父に伝えて終わるつもりだった。
けれども父は、グラツィアーノの姿を見ると言ったのだ。
『我が屋敷の周辺に、こんな汚い子供がうろついているのは迷惑だ』
グラツィアーノは目を見開いた。父はグラツィアーノを睨み付け、恐ろしい形相でこう叫ぶ。
『――ラニエーリ家に遣いを出せ! 貴殿たちの縄張りで盗みを働いている孤児がいる、とな!』
『…………!』
***
「…………」
自分に割り当てられたその部屋の一室で、グラツィアーノは目を覚ました。
ラニエーリ家の別荘では、グラツィアーノもこの森への客人として扱われている。
ただの構成員に割り当てられる部屋としては、いささか豪勢すぎる部屋だ。すでに何日もここに泊まっているものの、未だに慣れなくて落ち着かない。
(……最悪だな……)
昔の夢などを見てしまったのは、ベッドが寝慣れない広さだからだろうか。
いつも朝に弱いグラツィアーノだが、この森に滞在しているここ数日は夜に『仕事』もない。早くに眠りに就いている所為か、グラツィアーノにしては寝起きが良かった。
起き上がり、軽く身支度をして部屋から出ると、黒髪の男と鉢合わせた。
「げ……」
「おっと。お目覚めか番犬」
同じく部屋から出てきたのは、アルディーニ家の当主であるレオナルド・ヴァレンティーノ・アルディーニだ。