95 『怪しい人影』
森の中に差し込む陽射しは、夕刻が近付いていてもまだ眩い。夏は陽が落ちるのが遅いため、もうしばらくは明るいだろう。
蝉の声が響く森で、咽せ返るような暑気の中にあっても、この黒髪の男は涼しい顔をしている。
「おい、アルディーニ」
「ん?」
リカルドが彼の家名を呼ぶと、アルディーニは気怠そうにこちらを見遣った。
「ん? ではない。今回の件は国王陛下より、お前とグラツィアーノが命を受けたのだろう? 俺も協力は惜しまないつもりだが、お前も真面目に調査をするべきだ」
「調査?」
「先ほどお前が言ったんだろう。『別荘の周囲に怪しい影を見付けたが、フランチェスカを心配させたくない。部下たちに仕事の指示をするふりをして出掛け、俺たちふたりだけで対処しよう』と」
フランチェスカに聞こえないよう耳打ちされて、リカルドは承知し頷いた。だからこそ宿泊先の別荘を出て、森を調べて回っているのである。
「サヴィーニ侯爵閣下を狙う殺し屋が、いよいよ行動に移した可能性がある。しかし、今この森は平穏そのものだ」
「……あー」
「お前の見た怪しい影とやらは、相当な実力者のものなのだろう。俺たちで手分けして探さねば、みすみす逃してしまうことに……」
「平穏なのは当然だ」
「?」
アルディーニはリカルドを見て、へらっと軽い笑みを浮かべる。
「なにせ、怪しい人影なんて嘘だからな」
「な……っ!?」
あまりにも軽薄な物言いに、リカルドは目を見開いた。このアルディーニという男は、他人を振り回す天性の才能を持っているのだ。
「どういうつもりだアルディーニ! フランチェスカを心配させないためだというからこそ、俺はお前に合わせて嘘をついたんだぞ!」
「そう怒るなって。男ふたりの虚しい外出が、フランチェスカの為なのは本当だ」
「なんだと?」
まったく意味が分からなかったので、率直に怪訝な顔をした。アルディーニはどうやら森の向こう側にある、湖の方角に目を遣ったようだ。
「フランチェスカが、あの番犬とふたりっきりで話したがっていそうだったからな。とはいえ彼女の性格上、俺たちを遠ざけるのに気を遣うだろう?」
「……サヴィーニ侯爵閣下と、グラツィアーノの件でか……」
「ははっ」
肩を竦めて笑うアルディーニは、心の底から可笑しそうだった。
「あそこに父子関係があるってことくらい、リカルドすら一目で分かってるのにな。バレないようにって動いてるのは、フランチェスカと侯爵くらいのものだ」
「笑い事ではないぞ。侯爵閣下とグラツィアーノの間には、何やら確執がある様子だった」
「知ったことではないかな。何しろフランチェスカが特別扱いする人間は、総じて俺の敵だから」
「アルディーニ」
「嘘だよ」
リカルドが彼を窘めると、アルディーニは柔らかく目を伏せる。
「……フランチェスカを大切にするためには、彼女の大切なものを尊重する必要がある」
「……」
その言葉に思い出したのは、先日リカルドの父が起こした一件だ。
あのときのことを振り返るだけでも、凄まじい罪悪感と焦燥に苛まれる。
洗脳されていたとはいえ、父がこの国に禁じられた薬物をばら撒き、証拠隠滅のために大勢を殺そうとした。
そのうちのひとりこそ、フランチェスカの父であるカルヴィーノ家の当主だった。父とカルヴィーノは同窓で、旧知の仲と言える相手だ。
(アルディーニが何らかのスキルを使い、カルヴィーノ殿を治癒したとだけ聞いている。この男が対処していなければ、命があったかどうか危ういと)
アルディーニがフランチェスカの父を治癒するなど、きっと誰もが想像していなかっただろう。
けれどアルディーニは行動した。その上に詳細は分からないものの、アルディーニ自身も命を落としかけたのだという。
(すべてはフランチェスカのため、か)
リカルドは眉間の皺を指で押さえ、はーっと深く溜め息をついた。
「……お前がフランチェスカを案じるつもりならば、この森はやはり入念に調べておくべきではないのか?」
「ははは、何を言ってるんだ? フランチェスカの居ないところで、やる気を出して頑張る意味が無い」
「おい、不真面目だぞアルディーニ!!」
「それに」
湖の方から視線を外したアルディーニが、今度は来た道を振り返った。
「優先順位は付けておく必要がある。……彼女が大切にしている人間であろうと、傍に居させることで危険な目に遭うのであれば、切り捨てることも必要だ」
「……」
リカルドもそこで気配を感じ、木々の合間を睨み付ける。
「……アルディーニ家の当主、レオナルド・ヴァレンティーノ・アルディーニ殿とお見受けする」
森の中から現れたのは、茶色の髪に赤い瞳を持つ、グラツィアーノとよく似た面差しの男性だ。
「こんにちは、サヴィーニ侯爵閣下」
「…………」
この場の雰囲気に不釣り合いなほどの軽やかな声で、アルディーニは笑う。
(一体なぜ、侯爵がここに……?)
リカルドは息を飲み、そこで気が付いた。
恐らくは、『怪しい人影なんて嘘だ』と言ったアルディーニのあの言葉こそが、堂々とした嘘だったのだ。
(アルディーニは、この侯爵閣下の接触を想定して……)
これから起き得ることの予想が出来ず、リカルドは身構えたのだった。
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