94 弟分の誓い
言葉を受けたグラツィアーノが、息を呑んだのをはっきりと感じる。
「出来る? グラツィアーノ」
「……俺が」
フランチェスカが微笑むと、グラツィアーノは俯いてからこう言った。
「お嬢の言い付けを守れなかったこと、ただの一度でもありました?」
「……グラツィアーノ」
素直ではないその返事に、フランチェスカはくすくす笑った。「そうだね」と答えそうになり、けれどもそこではっとする。
「……あるよ!? 普通にある、何回もある!! グラツィアーノ、私のお願いを聞いてくれないことも意外と多いよね!?」
「そりゃあまあ、当主の命令と矛盾したときはノーカンでしょ。お嬢が危険な目に遭いそうなときも同じくで」
「ぬぬぬ……!!」
フランチェスカのお世話係といえど、グラツィアーノの根幹は父の部下だ。当主の命令が最優先されることは当然なので、何も言い返せない。
「お嬢」
「ん?」
グラツィアーノは再び櫂に手を掛けると、岸に向かって漕ぎ始めながら言った。
「何年か前。俺を『正式に当主の養子にするかもしれない』って話が出たの、覚えてます?」
「うん! 覚えてるよ」
懐かしい出来事を思い出して、フランチェスカは頷く。
「グラツィアーノが『弟分』じゃなくて『義弟』になるかもしれないって聞いて、びっくりしたし嬉しかったなあ。もちろん今の『弟分』も、それはそれで特別なんだけど……いつのまにか無しになってて、理由は分からないけど残念だった」
あれは確か、五年くらい前の出来事だっただろうか。フランチェスカは少し駄々を捏ね、父を困らせてしまったのである。
「やっぱり聞かされてなかったんすね。養子の話が流れた理由」
「グラツィアーノは知ってるの?」
あのとき理由を聞かされなかったのは、フランチェスカが子供だからだと思っていた。けれどもひとつ年下であるグラツィアーノは、ちゃんと教わっていたようだ。
「……それはそうだよね、グラツィアーノ本人のことだもん。ちょっと寂しいけど、当たり前かあ」
「そうじゃなくて」
「ん?」
グラツィアーノは俯いて、いつも通りのクールな表情のままこう言った。
「……いつか、俺とお嬢が結婚するかもしれないから」
「――え!?」
フランチェスカの大声が、湖の向こう側まで響き渡る。
「そえっ、なななっ、なんでえ!?」
「お嬢とアルディーニの結婚が成立するなんて、当主も先輩たちも思ってなかったんでしょ。抗争が起きるなりアルディーニが死ぬなりして、婚約破棄になる可能性が高いって踏んでたらしいです」
「物騒だし物騒だし物騒! 私の婚約破棄に備えるよりも、今後の抗争を回避する方向で動いててほしかった……!!」
そんな目論見があったことを、フランチェスカは初めて知った。
「確かにグラツィアーノが養子になったら、法律上は私と結婚できなくなるけど。パパたちがそんな可能性を考慮してたなんて……」
「俺も当時は何回も、『お嬢と俺が結婚なんて有り得ない』って言ったんすけどね」
グラツィアーノは顔を上げ、ふっと遠い目をして言う。
「……あまりに『絶対無い』を連呼してたら、当主の機嫌がどんどん悪くなっていったんで。『フランチェスカの何処が不満だ?』って……」
「うううっ、パパが本当にごめんね……!」
当時のグラツィアーノの心労を思い、フランチェスカは両手で顔を覆った。父はグラツィアーノに目を掛けているが、その分色々と手厳しいのだ。
「……お嬢がいつか本当に、アルディーニの奴と結婚したら」
「?」
グラツィアーノがぽつりと言って、フランチェスカは顔を上げた。
「あるいは本当に、表の世界で生きていくことになったら。そのときこそ俺を養子にして、俺を次期当主になさるおつもりのようですよ」
「……そっか」
五大ファミリーの当主たちは、全員が初代当主の直系子孫となる。
けれどもそれはたまたまであり、この国の法律上の決まりでは、家の跡継ぎが血縁者でなければいけないという決まりは無い。
グラツィアーノが跡継ぎになってくれるのであれば、きっと全員が安心するだろう。
「そうなったら、俺はアルディーニと同じ立場で対峙しなきゃいけなくなる」
「!」
グラツィアーノがそんな将来を見据えていることを、フランチェスカは初めて聞かされた。
「俺は、あいつに負けるつもりはありません」
(グラツィアーノ……だからいつもレオナルドに、あんな風に対抗してたのかな?)
そのことに気が付いて、フランチェスカは微笑んだ。
「ふふ。私は出来ればふたりには、協力して調査して欲しいけどね」
「嫌ですね。根本的に人種として気が合いそうにないんで」
「そうかな? 案外上手くやれそうな気がするけど……」
「絶、対に、無いです」
(あ。いまの多分、私との結婚は有り得ないってパパに言ったときと同じ口調だったんだろうなあ)
くすくすと笑ってしまいそうになるのを、再び差した日傘で誤魔化す。グラツィアーノの漕ぐ舟は、それからしばらくして岸に戻ったのだった。
***
セラノーヴァ家の次期当主であるリカルドは、その美しい森を散策していた。
今日から数日間滞在する予定のこの森は、ラニエーリ家の管理下だ。娼館事業の要地ということもあり、初めて足を踏み入れるが、各所が入念に手入れされていた。
「ふむ。さすがは優美を信条とするラニエーリ家だな」
信条を貫くことは美徳である。細部まで徹底されている好ましさに、リカルドはしみじみと感じ入ってしまった。
一方で後ろを歩く人物は、まったく興味が無さそうだ。
「ふわあー……」
アルディーニ家の当主、レオナルド・ヴァレンティーノ・アルディーニは、両手をポケットに突っ込んだままあくびをしていた。