85 大事なもののため
侯爵は顔を顰めると、低い声音を絞り出した。
「何故、お前がこのような場所にいる?」
「……」
グラツィアーノの瞳が、父を見据えてほんの僅かに揺れる。
「……俺は……」
(グラツィアーノ)
その揺らぎを見付けたフランチェスカは、すぐさまふたりの間に歩み出た。
ふわりとドレスの裾を翻し、グラツィアーノの方に背を向けて立つと、侯爵を見上げて澱みなく告げる。
「お初にお目に掛かります。サヴィーニ侯爵閣下」
「!」
グラツィアーノが息を呑んだが、彼の父も目を丸くしている。
そのあとに怪訝そうに眉根を寄せた表情は、グラツィアーノにはちっとも似ていない。
「……お嬢さん。何故私の名を?」
「ラピスラズリのカフスボタンに、サヴィーニ侯爵家の家紋を刻んでいらっしゃいますもの。サヴィーニ侯爵家のご当主さまは、ラピスラズリの石を身に付けておいでだとお聞きしました」
グラツィアーノが話した訳ではないということを、そうやって言外に主張しておく。サヴィーニ家では正装の装飾品に、瑠璃色に輝く石を用いるのだ。
これはゲームでの知識というだけではなく、社交界では知られていることだった。
「わたくしは、フランチェスカ・アメリア・カルヴィーノと申します」
「……」
フランチェスカはドレスの裾を摘み、礼儀正しく挨拶をする。続いて顔を上げると、『カルヴィーノ』の名前に反応した侯爵を再び見上げた。
「……」
フランチェスカの真っ直ぐなまなざしを受けて、侯爵が僅かにたじろいだのが分かる。
(私が牽制していることくらい、侯爵はすぐに察するよね)
フランチェスカはすべて承知の上で、侯爵に向けてにこりと笑った。
「彼は私の従者です! 夏休みにお友達と川遊びをしたかったので、そのために同行してもらいました」
「従者……と?」
侯爵は相変わらず渋面を作ったままだ。あまり信じていない様子であることが窺えて、フランチェスカは言葉を重ねる。
「幼い頃からそうなのです。私がどうしても行きたい所があると我が儘を言えば、父は『グラツィアーノが一緒なら構わない』と。彼はとても気配りが出来ますし、頼んだ仕事は確実にこなしてくれるので、ついつい連れ回してしまって」
そう説明しながらも、心の中ではむかむかと怒りが収まらなかった。
(きっと侯爵はグラツィアーノのことを、いまも貧民街の片隅で荒くれ者として生きているか、すでに死んでしまっている存在だって思ってたんだ)
けれどフランチェスカの弟分は、しっかりと強く生き抜いてきたのだ。
「小さい頃に我が家にやってきたのですが、いまや当家に所属する大人たちからも一目置かれているんですよ。とてもやさしくてしっかり者で、私にとっては弟のような存在です」
フランチェスカは振り返ると、グラツィアーノを見上げて微笑んだ。
「ね? グラツィアーノ!」
「……お嬢」
いつもはグラツィアーノの方が、フランチェスカを守ってくれる。
けれどもフランチェスカだって、この弟分を守るべきなのだ。
フランチェスカは前を向き、侯爵に告げる。
「何故グラツィアーノがここにいるかのご質問には、私が答えさせていただきました。さらに申し上げますと、グラツィアーノは私の命令でこちらの女性を助けたのです」
「……」
侯爵がぴくりと眉を動かす。
「地面で寝ている男の方。――サヴィーニ侯爵閣下の、お知り合いですか?」
「……それは……」
知り合いどころか、この男は侯爵の部下にあたるのだ。
男が女性を強引に連れて行こうとしたのは、侯爵の指示によるものだった。侯爵は近日行われる大口な接待のために、美しい女性を使おうとしているのだ。
娼婦を管理するラニエーリ家を通してしまうと、使う側にとっては余計な手間や費用も多い。だからこそ侯爵は部下を使い、ラニエーリ家を出し抜こうとしたのだろう。
侯爵は僅かに言い淀んだものの、深呼吸をしてから口を開く。
「あなたには関係のないことですよ。お嬢さん」
(むむ……)
そして地面に倒れ込んでいる男を見下ろすと、これみよがしな溜め息をついた。
「この男は私の部下ですが、随分と勝手な真似をしてくれたようだ。目を覚ましたら厳重に罰さねばなりませんね」
(部下が勝手にやったことなら、侯爵がわざわざ森の奥まで来る理由なんてないのに)
恐らくは、女性を連れ出すのに失敗したと知って様子を見に来たのだろう。
(侯爵がゲームと違う動きをしたのは、私たちがバーベキューをしたからかな? 構成員のみんなが大勢でかまどを作っているところが、森の向こうからでも見えたからなのかも……)
「――フランチェスカ」
「ん? どうしたの、レオナル……」
呼ばれて後ろを振り返ったフランチェスカは、レオナルドの名前を呼び終える前に絶句した。
「……え!?」
見れば、レオナルドはにこやかな笑顔を浮かべている。
その微笑みは完璧で、クラスの女子たちが見れば悲鳴を上げそうなほどの美しさだ。けれどもその笑みは完全に、獲物を狩ろうとする『悪党』のそれだった。
「フランチェスカの行動を尊重し、黙って成り行きを見守っていたが。……この男が君に礼を欠くのであれば、俺が容赦する理由はないよな?」
「だっ! 駄目だよレオナルドどうしたの!?」
男を起こそうとしている侯爵を尻目に、フランチェスカはレオナルドの両肩を掴む。ひそひそと小声で尋ねると、レオナルドは軽い調子でこう答えた。
「どうしたもこうしたもない。フランチェスカを侮辱するものは、この世界から排除して構わないものだろう?」
「すっごく良い笑顔で変なこと言わないの!」