76 弟分の想い
四歳の頃に母を亡くしたグラツィアーノは、誰も頼る相手のいない中、たったひとりで生きてきた。
貧民街で生き延びるのは、幼い子供にとって大変なことだっただろう。それでもグラツィアーノは、自分と母を捨てた父を恨んだりしなかった。
懸命に育ててくれた母が、最期まで父のことを想っていたからだ。
『どうかそんな風に泣かないで、グラツィアーノ。……お母さんは幸せだったの。あの人に出会えて……だからあなたを産むことが出来て、本当に……』
ひとりぼっちになったグラツィアーノは、六歳になったときに、とある男性と擦れ違う。
自分と同じ茶の髪に赤い瞳。そして、母がとても大切にしていたブローチと揃いの意匠である、鳥の羽が彫られた瑠璃色のブローチ。
何よりも自分に似た面差しが、あれを父だと気付かせた。
『……おとうさん……』
小さなグラツィアーノは、父のことを必死に追い掛けた。
そのときは何も、父に助けて欲しかった訳ではない。家に連れて帰って欲しいとも、生きていくための金銭を渡せとも、食べ物を恵んで欲しいとも思わなかった。
ただ少しだけ、伝えたかったのである。
母が最期まで、父のことを大好きだったこと。出会えてよかったと言っていたこと。グラツィアーノも父がいてくれたお陰で、母の子供に生まれることが出来たのが嬉しいこと。
それさえ伝えられたのなら、グラツィアーノは他に何も望まなかった。
けれども上品な身なりの父は、最初は憐れむような目でグラツィアーノを見下ろした後、はっと息を呑んだのだ。
『お前は……』
その直後、穢らわしいゴミを見るような目でグラツィアーノを睨み付けると、傍に居た従者らしき男に叫んだ。
『この子供が、私の財布を盗もうとしたぞ!』
『え……』
小さなグラツィアーノは立ち尽くす。父の双眸に浮かんでいたのは、心底からグラツィアーノを疎む感情だった。
『我が屋敷の周辺に、こんな汚い子供がうろついているのは迷惑だ。――ラニエーリ家に遣いを出せ! 貴殿たちの縄張りで盗みを働いている孤児がいる、とな!』
『…………!』
グラツィアーノが住んでいた貧民街も、グラツィアーノの父が生活している場所も、五大ファミリーのひとつであるラニエーリ家の縄張りだ。
ラニエーリ家の構成員は、小さなグラツィアーノを容赦なく折檻した。
グラツィアーノは殺されかけ、命からがらカルヴィーノ家の縄張りまで逃げ出してきたところを、フランチェスカの父に拾われる。
(ここにいるグラツィアーノの口から、全部を詳しく説明された訳じゃないけど……ゲームでグラツィアーノと絆を深めると、イベントでこのことが明かされる。だから、何があったのかは分かってる)
フランチェスカは振り返りたいのを我慢して、代わりに父の背中を見た。
(パパもルカさまも知ってること。だからふたりはこの暗殺予告の調査担当として、グラツィアーノを任命する……)
この点は、ゲームと同じ流れだった。
(ゲーム第二章。グラツィアーノのお父さんの暗殺事件を防ぐために、グラツィアーノと主人公が一緒に行動するエピソードだけど……)
フランチェスカは、ちらりと斜め前の人物を見遣る。
(私とグラツィアーノが幼馴染になっちゃっていることの次に、『ゲームと決定的に違うこと』のふたつ目。……この場にレオナルドがいること、なんだよね……)
そんなことを考えるのと同時に、当のレオナルドが笑って言った。
「ご質問をよろしいですか? ルカさま」
(レオナルド)
国王を相手にまったく緊張していない、自然な振る舞いだ。
フランチェスカは小さな頃から、父に連れられてルカに会いに来ていた。
けれども恐らくレオナルドは、当主を継いだ十歳以降、きっとひとりでルカの前に立っていたのだろう。重圧が間違いなくあったはずなのに、そんなことは微塵も感じさせない。
「この件でラニエーリ家をお呼びで無い理由については、構成員であるはずの番犬がこの場にいる時点で察しているのですが……」
(レオナルドは気が付いてるんだ。グラツィアーノが呼ばれた理由が、狙われている侯爵の隠し子だからだってことに……)
とんでもない洞察力に驚くが、レオナルドはなんでもない顔で笑って言う。
「俺もお呼び立ていただいた理由はいかようなもので? もしや……」
「うむ」
国王ルカは微笑んで、こちらに告げた。
「この度の暗殺騒動。カルヴィーノ家とアルディーニ家による、合同での調査を命じる」
(うちの家と、レオナルドの家で!?)
その言葉に、フランチェスカは目を丸くした。
(ゲームではこんな話になったりしない。だってシナリオ上は、この暗殺だってレオナルドが黒幕っていうことにされていて……)
本当はそうではないことを、いまのフランチェスカは知っている。
とはいえ、ここから先のエピソードに『レオナルドとの合同調査』が加わった場合、どんな展開になるのか想像が付かなかった。
「ご命令、謹んでお受けいたします」
レオナルドはその言葉を受け、フランチェスカの父を見遣る。
「カルヴィーノ家の考えもあるでしょうが。そちらも問題はありませんか?」
「……お前は以前まで、私にそのような言葉遣いをしていなかったと思うが」
「いやあ、未来の義父に対しては猫被っておくべきかなと。それに、あなたにある程度の敬意は払う方針にしたんです」
不機嫌そうな父の声に対し、レオナルドの返答は軽やかだ。その上で彼は、フランチェスカのことを振り返る。
「……愛しい婚約者の大切なものは、俺も大切にすることにしたので」
「っ、レオナルド……!」
その微笑みがあまりにも穏やかで、フランチェスカはこくりと息を呑んだ。
(確かにパパやグラツィアーノの前では、最初から契約で決まっている『婚約者』の関係を強調していくことになってるけれど……!)
フランチェスカとレオナルドは友達だ。
けれども父にとっては、『娘の政略結婚相手』よりも『娘が自分の意思で選んだ男友達』の方が許せない存在らしく、フランチェスカはレオナルドが男友達であることを隠している。
「未来の奥さんに良い所を見せる機会とあれば、張り切らない訳にはいかない。アルディーニ家の総力を持って、ルカさまのご命令を遂行いたします」
「はははっ、頼もしいなアルディーニ。お前の本気が見られるのは珍しい、期待しているぞ」
「――お待ちください」
そのとき声を発したのは、フランチェスカの後ろでずっと口を噤んでいたグラツィアーノだった。
(グラツィアーノ……やっぱり、複雑だよね)
ゲームのシナリオでも、グラツィアーノはこうした形で自分の父と関わることや、父を守らなくてはならないことに葛藤を抱えていた。
ルカたちは、その葛藤こそがグラツィアーノの成長に必要なことだと判断したのだろう。しかし姉代わりのフランチェスカにとっては、どうしても胸が痛んでしまう。
(この件に抵抗があるようなら、無理しなくていいって伝えてあげたい。本当はこんなこと後で言うべきなんだろうけど、無理にこの場で頷かせるのは駄目だ)
フランチェスカは振り返ると、ごくごく小さな声で呼び掛ける。
「グラツィアーノ。あのね、嫌だったら……」
「……ルカさま、当主、ひとつだけご相談をよろしいですか」
「む?」
申してみよ、とルカが頷いた。グラツィアーノはそれに礼を述べると、はっきりとした声で言う。
「アルディーニ家と、『合同調査』とのお言葉ではありますが。俺は……」
グラツィアーノの双眸が、真っ直ぐにレオナルドを睨み付けた。
「――お嬢の婚約者と協力するよりも、敵対して勝負したいです」
「……えっ!?」
「へえ?」
王の御前だというのに、フランチェスカは素っ頓狂な声を出してしまう。




