70 愛すべきもの
【エピローグ】
この世界での六月は、やっぱりしみじみと雨天が多い。
屋敷での一件があってからの一週間も、王都には雨が降り続いていた。それでも六月の末に差し掛かり、ようやく空が晴れ渡った土曜日のこと。
少しだけおめかししたフランチェスカは、お菓子と花の入ったバスケットを手に提げて、とある屋敷を訪れていた。
「レオナルド、こんにちは!」
樫で出来ている重厚な扉は、ノックをすると良い音が響く。
アルディーニ家のお屋敷は、数年以内に建て替えられたばかりだそうで真新しい。屋敷の最上階である四階に位置するここは、レオナルドの過ごしている部屋なのだそうだ。
きっとここは、彼が当主としての仕事をするための書斎か何かなのだろう。
そんなことを思いながらも、中にいるはずの彼に声を掛けた。
「フランチェスカです。お見舞いに来たよ、開けてもいい?」
「――……」
そうすると、ややあって扉が内側に開く。
姿を見せたレオナルドは、胸元を開けた黒いシャツ姿だ。少し驚いた顔をしながら、フランチェスカを見詰めている。
「フランチェスカ。……どうしてこの部屋に?」
「『お見舞いをしたいんです』って構成員さんに言ったら、この扉の前まで案内されたの。レオナルドの居る部屋だからって教えてもらって、あとはご自由にって」
「あいつら……」
「?」
額を押さえたレオナルドは、彼にしては珍しく苦い顔をしていた。いつも余裕のある笑みばかり浮かべているから、眉根を寄せた表情は新鮮だ。
「そんなことよりレオナルド、ちゃんと休んでないんじゃない? 寝てなきゃ駄目だよ。うちのパパもそうだけど、いっぱい血を流した後なのに全然ゆっくりしてくれないんだもん」
「はは。君に心配されるのは気分が良い。それは俺へのお土産?」
「そう。クッキー焼いたの、一緒に食べよう!」
するとレオナルドは、フランチェスカを招き入れるように扉を開ける。
「どうぞ中へ。ゆっくりしていってくれ」
「お邪魔します! ちょっと緊張するなあ。パパ以外の人の書斎に入るのって、初め――……て……」
「『書斎』?」
くすっと笑ったレオナルドは、どこか揶揄うようなまなざしを向けてきた。
フランチェスカは固まってしまう。
何の疑問も持たずに入ったその部屋が、どう考えても書斎ではなかったからだ。
「っ、ここは……」
シックな木目の床の上には、紺色のカウチソファーが置かれている。
寝転がって寛ぐための物らしく、いくつかのクッションが並べられていて、ソファと同じ色調が大人っぽい。
たくさんある窓のうち、いくつかはカーテンが閉められたままになっており、室内は落ち着いた薄暗さに保たれている。ローテーブルへ無造作に置かれているのは、ゲーム用のカードだろう。
そんな中、フランチェスカが息を呑む要因になったのは、その部屋の奥にある寝台だ。
重厚な黒色の天蓋は、今はしっかりと開けられている。
結果として、寝乱れたシーツや上掛けが目に入り、フランチェスカの頬がぼっと熱くなった。
「書斎じゃなくて、寝室では!?」
「っ、ふ」
レオナルドは、ボタンを鎖骨の下まで外した無防備なシャツ姿で、フランチェスカを見下ろして目を眇める。
レオナルドのその様子に、どうしてか壮絶な色気を感じる羽目になり、フランチェスカは息を呑むのだった。
「俺も、この部屋に他人を入れるのは初めてで緊張する」
(『緊張する』は絶対嘘だ……!!)
友達が相手なのだから、こんな風にどきどきする必要はない。そう自分に言い聞かせ、フランチェスカは急ぎ足で中に入る。
「ここ! 座るね!!」
「ははっ。どうぞゆっくり寛いでくれ」
ふうっと息をつきながら、額の汗を手の甲で拭った。隣に座ったレオナルドを見上げると、その顔色は随分と良さそうだ。
(あれから色々と大変だったけれど、みんなの体調が回復していってて本当によかった……)
一週間前、セラノーヴァ家の当主であるジェラルドとの一件が起きたあとに、五大ファミリーは大混乱に陥ることになった。
五つの家の当主のうち、三人が生死に関わる怪我を負って、ひとりは血の署名に背いていたのだ。
この状況は前代未聞な上、残り二家がこの隙に他家を潰すような動きに出ていてもおかしくなかった。
そんな事態を防ぐことが出来たのは、王家の介入があったからだと聞いている。
***
『各家の当主に向けて、陛下からのお達しがあったんだ』
フランチェスカの父は、病院での治療を終えたあと、入院の病床でこんな風に教えてくれた。
『セラノーヴァが屋敷に銃を持ち込んだのは、やはり管理人が買収されていたからだったと分かったらしい。陛下はひどくお心を痛め、少なくともセラノーヴァの次期当主が就任するまでは、どの家も大きな動きを取らないようにと仰った』
『よかった……パパやレオナルドも、血が足りない状態でたくさん働かずに済むんだね。――それに、おじさまも』
『セラノーヴァは、拘束スキルを持った人間によって投獄されているそうだ。国王陛下に仕える医者がスキルを使い、生死の境を彷徨うようなことはなくなったらしい。……この先は、奴を洗脳した人間が誰かを暴く段階に入ってくる』
フランチェスカが俯いて頷くと、父は小さく息をついた。
『……セラノーヴァは、責任感の強すぎる男だった。それが、得体の知れない人間に付け込まれ洗脳され、血の署名を破ることになるとはな』
父とジェラルドは、学生時代の同級生なのだ。
その話を詳しく聞かせてもらったことはないから、ふたりがどんな学院生活を送っていたのかは分からない。仲が良かったのかもしれないし、悪かったのかもしれない。
けれど、窓の外に目を遣った父の横顔は、どこか寂しそうにも見えたのだった。
『……馬鹿な奴だ』
『……』
掛ける言葉が見付けられないでいると、父はもう普段通りの無表情で、フランチェスカにこう告げてくる。
『とはいえ、倅の教育には成功したらしい。セラノーヴァは奴の息子が、次の当主として立て直すだろう』
『……私もそう信じる。リカルドなら、きっと伝統の信条を守りながら、ファミリーを盛り立てていくことが出来るはずだもん』
先日リカルドに会ったとき、フランチェスカが心配すると、彼ははっきりと言って見せたのだ。
『伝統ある、誇り高きセラノーヴァ家の人間として。父の罪を償いながら、自分に何が出来るかを考える』と。
『お前の婚約者……アルディーニの若造にも、これで借りが出来た。あの若造は、私の銃創を自分の身に移した上で、お前を守るためにセラノーヴァと対峙したのだからな』
『……うん……』
あのときは、とても怖かった。
けれど、そのお陰で父もこうして助かったことを思い、フランチェスカは複雑な気持ちで微笑む。
『私もパパも、レオナルドに助けられちゃったね』
『いささか癪ではあるが。……私も覚悟を決めたから、あいつに伝えておいてくれ』
『覚悟?』
父は、その大きな手でフランチェスカの頭を撫でてくれる。
『――娘を頼む、と』
『……パパ……』
小さなころは、よくこんな風にしてくれた。
けれども最近では、こうして頭を撫でられることも少なくなっていたのだ。
おかげで、なんだか懐かしくて泣きそうになってしまった。
『っ、もうパパ! 私は大丈夫だよ。誰に頼らなくても生きていけるように、立派に育ってみせるんだから!』
『そうだな。楽しみにしている』
目元を拭ったフランチェスカを見守るまなざしは、幼いころから変わらない。
そして父は、ふと思い出したように口にした。
『……それにしても。あの若造のスキルが、あいつの父と同じ回復のスキルだとはな』
(そのことなら。きっと、レオナルドのスキルはそうじゃなくて……)
***
「――死んだ人間が持っていたスキルのうち、ひとつを奪って俺の物にする力なんだ」
「…………」
彼の寝室のソファに座って、フランチェスカはぎゅっとくちびるを結ぶ。
チョコレートクッキーをかじったレオナルドは、フランチェスカの尋ねたことに対して、いとも呆気なくそう答えた。
「いくつかの条件が存在していて、どんな人間からでも奪えるわけじゃない。『対象は生前に親しかった死人であること』。『奪う際には死体に触れること』と、『誰の死体か、目視で識別できる状態であること』かな」
三本の指を立てた彼が、フランチェスカにも分かるように噛み砕いた説明をしてくれる。
「つまり、その死体の顔が目で見て分かるうちに触っておいて、スキルを発動させないと奪えない」
「……しかも、生前にレオナルドと仲が良かった人じゃないといけないんだね」
「そう。そいつとどれくらい親しかったのかによって、奪えるスキルの強さが変わってくる。親しい相手に使うと、そいつの持つスキルの中で一番強力なものを奪い、最大の威力でそれを発揮できるが……」
レオナルドは、あくまで平然とこう続ける。
「会話を何回かしたことがある程度の人間から奪ってみたスキルなんて、ほとんど役に立たない威力ばかりだったな」
「…………」
なんでもないことのように語られた言葉に、フランチェスカは胸が痛んだ。
「それじゃあ反対に、すごく強かった炎や氷のスキルは……」
レオナルドとはそれなりに親しかった人のもの、ということになるのだろう。
俯いたフランチェスカを見て、レオナルドは仕方なさそうに笑う。
「別に、フランチェスカがそんな顔をする必要はない」
「でも。レオナルドが、仲良しだった人を亡くしたってことなんだよね?」
「それは違うさ。そもそも俺が色んな連中と適当につるんで、それなりの関係を作っている理由は、いつかそいつが死んだときにスキルを奪えるようにするためだからな」
「……」
レオナルドは、フランチェスカの焼いたクッキーをもう一枚手に取ると、穏やかな微笑みのまま言った。
「……いまの俺にとって、本当に愛すべき人間は、この世界でただひとり君だけだ」
「…………」
冗談めかした口ぶりでも、本心であることはなんとなく分かる。
レオナルドにとって、フランチェスカが特別な友達であることは嬉しい。
けれど、レオナルドがどこか孤独であることに思いを馳せると、とても寂しい気持ちになるのだった。
「そんな顔をしないでくれ、フランチェスカ」
レオナルドがくすっと微笑んだので、フランチェスカは自分の焼いたクッキーをかじる。さくっとした食感と共に、バターの風味と香ばしい甘さが広がった。
しかめっ面をしながらも、さくさくとクッキーを頬張ってゆくと、レオナルドはこう呟く。
「……俺の大切なものは、君だけだが」
愛おしいものを見守るかのような、そんなまなざしだ。
「君の大切なものを守れたことには、存外満足しているんだ」
「……」
そう言ったレオナルドの表情は、本当に機嫌が良さそうなものだった。