328 氷と薔薇
※昨日も更新しています。前話をお読みでない方は、ひとつ前のお話からご覧ください。
聡明なるクレスターニは、ルチアーノにも読めないほどの深い思慮を持って、赤い薔薇の少女を洗脳した。
『……本当に、「フランチェスカ」を?』
『ああ』
眠る少女を横抱きにしたクレスターニは、彼女の顔を見下ろして笑う。自然な振る舞いでありながらも、絵画からそのまま抜け出したような光景だ。
『彼女はきっと、俺たちの「良い友人」になってくれる。彼女の部屋を用意しよう、俺もしばらくはここに住むよ。よろしくな、ルチアーノ』
『クレスターニさまとご一緒できるのは、喜ばしいですが……』
無防備に目を閉じたフランチェスカを見て、ルチアーノは思わず顔を顰めた。
『……厄介な虫がついています。それに、侯爵令嬢とは思えない騒がしさですよ? クレスターニさまのお手を、煩わせることになるかと』
『ははっ』
クレスターニはフランチェスカを横抱きにしたまま、機嫌が良さそうな様子で言う。
『「賢者の書架」で、フランチェスカとレオナルドが話していた様子を教えてくれたのは、ルチアーノじゃないか』
『…………』
ルチアーノが持つ盗聴のスキルは、遠く離れた場所の音も集めることが出来る。
留学生としてロンバルディ家に身を寄せていた際、賢者の書架にも出入りする機会があり、その際にスキルを仕掛けていた。
もうすぐ効力は切れてしまうだろうが、確かにルチアーノも聞いている。
『……洗脳された彼女の人格は、かなり変わっていたようでした』
『ああ。どうやら俺のスキルが変容して、面白い効果が働いたようだ。――それが覚めたとしても、学院生は元気過ぎるくらいでちょうどいい』
『…………』
頭の奥に、小さな痛みを覚えた気がする。
額の辺りを押さえたルチアーノに、クレスターニは歩きながらこう続けた。
『ああ、着替えの用意も必要か。手伝いはメイドに命じておくとして……これくらいの年齢の女の子って、リボンやレースが好きだよな?』
『……はい、恐らくは』
『それ以外の監視は、ティーノにでも任せるさ。――だが、心配してくれてありがとうな』
振り返ったクレスターニが紡ぐのは、微笑みと同じくらいの優しい声音だ。
『本当に信頼できるのは、お前だけだ』
『…………!』
この人の傍に居られるのは、一体なんという僥倖だろう。
『勿体無いお言葉……!!』
『ははっ』
ルチアーノは改めて背筋を正し、彼に対する忠誠を示す。けれども一方で、その腕に抱えられた少女のことが、どうしても気に掛かってしまうのだった。
(君はまだ知らないんだ、『フランチェスカ』。君が並べる理想の全てが、どれほどの甘い綺麗事か……)
ぎゅっとくちびるを結んだあと、思い切ってルチアーノは進言する。
『クレスターニさま。恐れながら、僕からのご提案が』
『もちろんだ、ルチアーノ。俺とお前の仲じゃないか、言ってみろ』
『……その少女の監視をする、その役目』
それは、のちの後悔に繋がる提案だったとも言えた。
『どうか、僕にお任せいただけませんか?』
『……へえ』
どうしてあんなことを願い出たのか、自分でも分からない。
けれどもクレスターニはいつだって、ルチアーノの望みを叶えてくれる。そしてルチアーノは、彼女の監視を務めることになったのだ。
(賢者の書架で見せたのが、この子の洗脳人格なら。……あんまり、好きじゃないな)
奔放で、無邪気に振る舞う様子がありながら、どこか妖艶でもあった。
ルチアーノが見た『フランチェスカ』とは、何もかもが違った人間のようだ。
(あの子の人格が壊れていて、この先ずっとあんな性格だったとしたら? ……なんなんだよ。なんでこんなに、苛々する……)
だから、数日経ってようやく目を覚ましたフランチェスカがいつも通りだった際、なんだか拍子抜けをした気持ちにもなった。
『……君、戻ったんだ』
『もどった? あ……もしかして、自分の意思が? 戻ったよ、戻った! ほら』
そう言って明るく笑い、両手を握り込んで見せたフランチェスカの姿に、不思議な感覚になったことを思い出す。
(だけど分かった。たとえクレスターニさまの素晴らしき洗脳下にあったとしても、この子は僕たちの敵だ)
何しろフランチェスカは、クレスターニに平気で不敬を働く。
その意向に背き、逆らうような振る舞いをして、挙句に賭けなどを提案するのだ。
屋敷の中を歩き回る権利を得てからは、ルチアーノが懇切丁寧に教えてやっても言うことを聞かず、何度も『罰則』を受けていた。
『ちょっと君、そっちに行ったら倒れ……ああもう!! やっぱり気絶してる!!』
その度に彼女をなんとか背負い、部屋まで連れ戻す羽目になる。
『ほんっとに……! どうしてこうも馬鹿な訳? 気が知れない。どうかしてる。そろそろ放置して……』
階段を四階まで登りながら、息が切れて死にそうだった。
背負った瞬間は驚くほど軽く感じるのに、どんどん鉛を背負わされている気分になってくるのは、ルチアーノの筋力の問題なのだろう。
(くそ…………身体、少し鍛えた方が、いいのかな……)
そう思わされることすら不本意に感じていると、気を失ったフランチェスカが背中で呟いた。
『……レオナルド……』




