320 約束(第5部4章・完)
「街を歩き、父親の腕に抱えられた幼な子を見る度に、自分が背を向けた罪の大きさを知る。安心しきって身の力を抜き、親にすべてを委ねて眠る幸福を、赤子のお前から永劫に奪った」
レオナルドはゆっくりと腕を解き、フランチェスカを逃してやる。
フランチェスカと同じ色の瞳は、真っ直ぐに娘を見て告げた。
「……奪われた側であるはずのお前に、なんの罪があるものか」
「…………っ」
フランチェスカの周囲に、淡い光がふわりと滲む。何を意味するものか察したエヴァルトが、すぐさまフランチェスカに手を伸ばした。
「待て、フランチェスカ!」
「……嫌」
父のことを睨んだその顔は、やはり泣きそうな子供のようだ。
「……だって、私は……!!」
「…………!!」
エヴァルトの指が、空を切る。
転移の光に包まれて、フランチェスカは消えてしまった。それを確かめたレオナルドは、その場に片膝をついて息を吐く。
「……想定通りに、逃げられましたね」
「……アルディーニ……」
「収穫は、ありました」
頭の痛みに、レオナルドは眉根を寄せる。
本音を言えば、自分がまともに話せているのかも分からなかった。
「……洗脳を解くまでは辿り着けなくとも、フランチェスカの揺らぎを見付けた。彼女を守る結界のスキルがまだ保持されていることも、間近で確認、できましたし……」
頭が割れそうな感覚の中、言葉を継いだ。
「あの動揺を見るに、フランチェスカの洗脳を解くには、『母親の死に対する許し』が鍵となっているのかもしれない。……恐らくは、フランチェスカ自身が、彼女を許せなくては駄目なんだ」
「フランチェスカ……」
「それから」
レオナルドの吐き出した息が、白く染まる。
「……かつてセレーナ領だった、あの森」
「森、だと?」
エヴァルトの訝しげなその声に、やはり先ほど取り戻した記憶が、他人の記憶から消されている場所であることを確信する。
「王都から、さほど離れていません。使用人に馬車を出させるとはいえ、十四歳前後の貴族の子供が、自分たちだけで訪れることの出来る場所……」
「……それは」
レオナルドは、自身の額を左手で押さえた。
「フランチェスカは恐らく、あの屋敷にいます」
「クレスターニによって欠けた記憶が、戻ったのか?」
この感覚を、復元などと呼べるのだろうか。
戻ったというよりも、無理やりにこじ開けられたような気分だ。それでも、きっかけになった彼女の声を思い出して、レオナルドは心から微笑んだ。
「フランチェスカに呼ばれた名前が、俺の記憶の鍵になりました」
「…………」
その事実が示唆した『ある可能性』について、エヴァルトに告げる必要はない。
「今すぐ、彼女の所に向かいましょう。当家とカルヴィーノの総力をもって、フランチェスカを奪還する」
レオナルドは慎重に息を継いで、大切な女の子のことを考えた。
「あなたのもとに、帰してやらないと……」
「アルディーニ」
きっと彼女の眠った意識は、父に告げた言葉を後悔している。
たとえ洗脳によるものであり、フランチェスカ自身の意思ではなくとも、エヴァルトを傷付けたことを悲しんでいるはずだ。一刻も早く父親に会わせて、心配はないのだと教えてあげたい。
(大丈夫だよ、フランチェスカ。……俺が今すぐに、君を……)
レオナルドがフランチェスカの微笑みを見るのは、父親の後でだって構わなかった。
だが、肝心のエヴァルトはこちらを見下ろして、こんな質問をしてくるのだ。
「……地図を元に、座標を記せるか」
「……?」
頭痛に思考が押し潰されそうになりながら、レオナルドは答えた。
「もちろん。ですが、必要ない」
それよりも、転移で人員を配置した方が効率的だ。この国にいるすべての転移スキル所有者を、国王ルカの命令下で動かせばいい。
「行きましょう。番犬の転移スキルも使って……」
立ち上がったレオナルドの腕を、エヴァルトが掴んだ。
「……なんですか」
「立て直す。休息を取れ」
「は……?」
腑抜けた言葉を耳にして、レオナルドは素直に眉を顰める。取り繕う気分にすらなれず、エヴァルトのことを静かに睨んだ。
「この状況下で、冗談を言っている場合じゃないでしょう」
「私もお前も、既にスキルは使用できなくなっている。お前こそ、状況を正しく判断できていないようだな」
(……さっきまで、洗脳されたフランチェスカに動揺していた癖に……)
エヴァルトの言葉に、レオナルドは溜め息をついた。
「……そうですね。正常な思考を欠いていました」
「その顔では、心からの反省があるとは思えんな」
「反省していますよ。確かにまずは地図でも作って、他家にも要請をするべきだ」
カルロを呼び出して、薬を何本か追加してもらうことも計画に入れる。体力の消耗を誤魔化す薬と、鎮痛薬の強力なものが必要だ。
「三家に伝令を出しましょう。王室と、それから……」
「――フランチェスカの洗脳を解くために、足りない情報があるだろう」
「…………」
レオナルドは、ゆっくりと顔を上げてエヴァルトを睨んだ。
「これから当家の屋敷に向かう、私の監視下で休むように。……お前が正常に動けるようになったのちに、話してやる」
「何を、悠長なことを……」
支配のスキルを使用すれば、煩わしい指示など無視できる。
そんな考えを持つことを、エヴァルトは見抜いていたのだろう。だからこそ、こうした形で切り出した。
「私は、妻と娘のそれぞれと交わした約束を、お前に果たす必要がある」
「……やくそく……」
レオナルドは、仕方なく俯いて目を閉じる。
フランチェスカはレオナルドのすべてなのだ。彼女の願いのためならば、なんだって出来ると誓うほどに。
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第5部4章・完




