317 剣を砕く
(……怪我は無い)
彼女を視界に入れた瞬間、レオナルドが真っ先に確認を始めたのは、その事実だ。
(顔色も良い。俺の結界も、確実に維持できている)
白い雪景色の中、彼女が纏った黒のドレスだけでは、きっと凍えてしまうことが心配だった。
それでも、フランチェスカは無事でいる。倒れ込んだ人間たちの中で、顔色すら変える様子がなくとも、確かにレオナルドたちの前に存在していた。
(……ここで、息をしている)
フランチェスカは、足元の神父たちを見下ろして、邪魔そうにドレスの裾を摘む。
「もう、地面に転んで汚いなあ。クレスターニさまの人形が、無様に負けるなんて」
そのくちびるが、色めいた呟きを漏らす。
「……悪い子」
レオナルドはそんな彼女に向けて、迷わずスキルの一撃を放った。
「!」
フランチェスカが目を見開く。
彼女を絡め取る無数の蔦も、拘束するための氷の蛇も、フランチェスカに触れることなく弾き飛ばされた。レオナルドの拘束を拒んだのは、レオナルドが施した結界だ。
あの結界は、フランチェスカが拒んだスキルや、彼女の害になるものだけを弾く。
「きゃあ、怖い! ……なあんて、ふふ」
「…………」
「こんなに無駄なことを繰り返すなんて、愚かで可愛いレオナルド。そんなに私と遊びたいの?」
冗談めかして笑うフランチェスカを、レオナルドは静かに見詰めた。
(そもそもクレスターニの転移がある以上、物理拘束は無意味だ。……分かっていても、判断が揺らぐな)
自分にもそんな甘さが残っていることを、他人事のように可笑しく思う。
「『フランチェスカ』。こうして敵として現れるのが、洗脳状態のお前でよかった」
転がってきた氷の破片を、革靴の先でこつんと蹴飛ばす。
「本物のフランチェスカが差し出されていたら、俺も正気では居られなかったかもしれない」
「ひどいなあ、レオナルドったら! 私は正真正銘、フランチェスカ・アメリア・カルヴィーノだよ?」
フランチェスカは柔らかく目を細め、幸福そうに首を傾げた。
「ほら。その証拠に……」
白い指先が、ひとりの男をゆっくりと示す。
「パパはちゃあんと、『私』だって分かってくれてるもの」
「――――……」
娘を前にしたエヴァルトが、振り絞るように名前を呼んだ。
「……フランチェスカ……」
レオナルドは、少しだけ目を伏せる。
(さすがに、無理もないか)
娘が洗脳されたと知ってからも、エヴァルトは常に冷静であることを貫き、平常心であろうとしてきた。それがいま、崩れ去ろうとしているのだ。
「ねえパパ、お願い」
フランチェスカが愛らしくしゃがみこみ、倒れた神父の肩に触れる。
「……私、大人になってもパパの傍にずうっと居たいの」
気を失っているはずの神父が、操り人形のようにぎこちなく身を起こした。
「戦闘を仕掛けてきます」
レオナルドは、エヴァルトの背に向けて告げる。
「応戦を」
「分かっている。……だが」
「だから、パパも一緒に……」
剣の柄を握り込んだエヴァルトに、フランチェスカが微笑み掛ける。
「クレスターニさまと、世界をぐちゃぐちゃにしよう?」
「…………っ」
その瞬間、フランチェスカの放った光が、神父の体を取り巻いた。
(――フランチェスカの強化スキル)
すぐ頭上に、無数の槍が生み出される。それが身構える暇もなく、一斉にこちらへと襲い掛かった。
(スキルが使えないはずの制限時間が、強化と共にリセットされる。……敵に回すと、こうなるのか)
レオナルドが生み出した氷の壁が、すべての槍を防いで割れる。
その死角から殴り掛かってきた神父の目は、集団洗脳で混乱した人間のものだった。鞘をつけたままのエヴァルトの剣が、それを再び石畳へと沈める。
「ふふっ。……ふふふ、あははは!」
フランチェスカは無邪気に笑いながら、神父たちに強化のスキルを施し、レオナルドたちへの攻撃を命じ続けた。
そのさまはまるで、風に攫われた薔薇の花びらが、木々の間を舞い遊んでいるかのようだ。
(――鍵を探れ)
襲い来る神父たちのスキルに応戦しながら、レオナルドはフランチェスカを注視した。
(クレスターニによる洗脳を突き崩すのは、俺の言葉。その一方で……)
頭の奥に埋められた痛みの塊が、どくどくと脈を打っている。
(俺からもまだ、いくつかの記憶が欠けている)
ダヴィードのスキルによって、この教会がセレーナの屋敷の跡地であった記憶を、負荷と引き換えに修復した。
しかし、それでも足りないのだ。『ゲームのシナリオ』に添わされる運命において、現在のシナリオを終局に導く舞台装置は、この教会ではないことを知っている。
(『ゲームの大枠に抗えない』というフランチェスカの言葉は、全て正しい。俺の記憶の欠如が、その証明だ)
酷い痛みに苛まれながら、レオナルドは炎のスキルを放った。
(五章のシナリオの結末は、屋敷を中心にした抗争。……だから)
神父たちの足止めをはかり、エヴァルトの剣戟を支援する一方で、レオナルドの氷の使用可能時間が切れる。
以降は一定の時間が経過するか、フランチェスカによる強化を受けてリセットしなければ、再び氷を使うことは出来ない。
(クレスターニが、意図して俺の記憶から消した『あの』屋敷。そこが、フランチェスカの監禁場所だ)
一方で、フランチェスカがこの場に現れた理由についても、おおよその推測が立てられた。
(洗脳されたフランチェスカからも、クレスターニの求める記憶が欠けている。……だからこそ、洗脳を解き得る俺に近付けてでも、俺からその鍵を得ようとしている)
現在のフランチェスカの状況は、クレスターニにとって不本意なものなのだ。
洗脳される直前のフランチェスカが、クレスターニのスキルを『変化』させたお陰だろう。フランチェスカはそうやって自分自身を守り、最善の選択をし続けている。
「――あれ」
神父に触れたフランチェスカが、きょとんと瞬きを二つ重ねた。
「この人はもう強化したんだっけ? ひとりに対して一回しか使えないなんて、すごく不便……」
拗ねたような言い方は、普段よりも何処か幼く見える。かと思えばすぐに大人びたまなざしで、神父に告げた。
「じゃあ、あなたはもういらないや」
背中をとんっと優しく押して、神父を再び倒れ込ませる。その無慈悲な光景にエヴァルトが息を詰める中、レオナルドは思考を巡らせた。
(……やはり、この状態のフランチェスカからは、『ゲーム』の記憶が欠けている)
賢者の書架で対峙したときから、フランチェスカはそうだった。
『スキルレベルを3以上に強化するには、素材を使うの。変化スキルの場合は、一回目から必要で……』
かつてのフランチェスカは、レオナルドに説明してくれたのだ。
『素材を消費するような強化のときは、使用の前に「ワンクッション」が入るんだよ。ゲームだと、「本当に素材を使いますか?」って聞かれるの』
『へえ。だが、この世界ではそうもいかないだろう?』
『うん。選択肢が出ない代わりに、すごく強い気持ちでスキルを使わないと駄目で……』
これまでのフランチェスカは、そうした決断を迷わずに下してきたのだ。
洗脳されたフランチェスカには、ゲームに基付く知識がない。そしてクレスターニの欲しいものは、今のフランチェスカが持たない部分にあるのだろう。
(洗脳されたフランチェスカを通して、敵の目的が見えてくる。やはり、クレスターニは……)
「……フランチェスカ」
剣を握り込んだエヴァルトが、痛切な声音で娘を呼んだ。
「もう、やめてくれ」




