315 記憶の地図
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五歳のレオナルドに向けて、父がこう言ったことがある。
『お前の婚約者に、会ってみたいかい? レオナルド』
『…………』
あの頃のレオナルドは、フランチェスカという名の少女こそが、世界で一番愛おしい女の子であることをまだ知らない。
だから、本当に心から興味を抱かず、父と乗った馬車の中でこう答えた。
『いらないよ。だって、あう意味がない』
『どうして? フランチェスカ嬢は、お前の花嫁さんになる相手だ。それに、一度会ってみた上で……』
父は、領民たちに慕われる優しい微笑みを浮かべ、レオナルドの頭をそっと撫でる。
『お前が結婚を望まないのなら、やめてしまっても構わないんだよ』
『…………』
人の良い父は、嘘を吐くのがとても下手だ。
(おれはもう、ちゃんと知っているのに)
祖父同士が交わした婚約は、血の署名と呼ばれる厳密な契約によって交わされ、それに背くのは難しいこと。
この約束を破る場合は、カルヴィーノ家と抗争になってもおかしくないこと。
それでも父は、レオナルドの望む未来のために、そんな提案をしてくれたのだ。
『けっこんする。両方の家にとって、良いことしかないだろ?』
『……レオナルド』
(おれが、その女の子とけっこんしたら)
カルヴィーノ家の女の子には、他に兄弟が居ないらしい。
だから彼女と結婚した場合、レオナルドはアルディーニの姓は名乗らず、カルヴィーノ家に入ることになる。その時点では、そうした話になっていたのだ。
(そうやって、他の家のにんげんになれば)
ゆっくりと馬車が止まり、屋敷の前に到着する。
庭先で遊んでいた兄が、それに気が付いて顔を上げた。
一緒にいるのは、兄と同じ年頃の少年だ。誰と過ごしていようとも、兄は必ずレオナルドに手を振ってくれる。
(おれが、この家からいなくなれば……)
レオナルドは、自分と同じ金色の瞳を遠くに見詰めて、ぼんやりと考えた。
(――にいさんが、間違いなくこの家の当主だ)
そのとき、父はレオナルドと同じように庭先を見遣り、微笑ましそうに目を眇めてこう言った。
『おや。……セレーナのひとり息子が、遊びに来ているな』
***
脳の中に流れ込んできた記憶の所為で、レオナルドはひどい気分だった。
(……本当に、頭が壊れてしまいそうだな)
率直な感想が浮かび上がり、いっそ可笑しくなってくる。
それでも態度に出すことはなく、至っていつも通りの振る舞いに徹した。夕刻の王都を歩きながら、後ろを歩いてもらっていた人物を振り返る。
「どうですか? おとーさま」
レオナルドはくすっと笑いながら、敢えてこんな風に尋ねるのだ。
「俺とあなたの相性は、意外と良いと思うんですよね」
「…………」
赤い外套を纏ったエヴァルトは、右手に煙草を預けたまま、不機嫌そうに煙を吐き出した。
「無駄口を叩いている場合か? アルディーニ」
「そんなに『無駄』とも言い切れないでしょう。フランチェスカと俺が結婚した後は、どうあっても義理の親子ですし……」
頭の奥に、鉛玉を埋め込まれたような痛みがある。
(昔のことを思い出す度に、記憶の枷が軋むな。……まったく、上手く出来た『洗脳』だ)
呼吸を乱さないよう、その痛みが悟られないようにしながら、レオナルドは再び雪道を歩き始めた。
「……あなたも覚えているでしょう。そもそも俺は当初、フランチェスカと婚姻を結ぶ場合は、カルヴィーノ家の婿養子に入るはずだった」
「…………」
「そうなれば俺は今よりもっと、あなたから多くを教わったのでしょうね」
父と兄が居なくなった現在は、婿入りの話も消えている。
レオナルドがアルディーニ家の当主となり、カルヴィーノ家と最初に交わした『会合』は、レオナルドとフランチェスカの婚約に関する協議だったのだ。
「アルディーニ家が俺ひとりになってしまった結果、結婚に関する契約の内容は、フランチェスカが俺に嫁ぐ形で結び直されました。……ですがそもそも、あのとき」
十歳の頃を思い出して、レオナルドはエヴァルトをもう一度振り返る。
「俺とフランチェスカの婚約を、どうして無理やり破棄させなかったのですか?」
「…………」
エヴァルトは煙草を口元にやりながら、分かりきった回答を返してきた。
「それが、血の署名における契約だからだ」
(……七年前は既に、前世の記憶を取り戻したフランチェスカが、父親との和解を終えていた時期だが)
フランチェスカを溺愛する父親が、なんの後ろ盾もないレオナルドとの婚約を解消させることは、そう難しくなかった。それなのに、エヴァルトはそうしなかったのだ。
「フランチェスカが持つ選択肢を、ひとつでも増やすためですか?」
すると、エヴァルトが意外そうな顔をした。
「なんです、その顔」
「……周囲を利用することしか考えていなかったあの子供が、そうした想像を巡らせられるようになったとはな」
「はは! ……それは我ながら、そう思いますけど」
「最優先事項は、フランチェスカだ」
その言葉だけを聞いていれば、エヴァルトこそ『娘のことしか考えていない父親』だ。
だが、そこには含みがあるように感じられる。
(まあいい。どんな思惑があろうとも、この男がフランチェスカを大切にしていることだけは、絶対的だ)
レオナルドは俯いて目を閉じると、雪の積もった石畳の上を歩きながら、ゆっくりと呼吸を整えた。
(……フランチェスカ)
彼女が存在する場所だけを、世界と呼ぶことが出来る。
(君の強さを、俺は知っている。誇り高く、どんな危機にも立ち向かう力と、真っ直ぐな明るさを持った俺の赤薔薇……)
どんな状況にあったとしても、フランチェスカが絶望することはないだろう。
(だが)
痛みに焼き切れそうな思考の中で、レオナルドは目を開ける。
沈み始めた太陽の光が、世界を橙色に染めていた。
(君は、君が持っている優しさゆえに、人のために傷付いて怖がれる子だ)
過ぎ去った夏の日、洞窟の中で泣いていたフランチェスカを抱き締めた、あのときの寄る辺なさを忘れない。
(クレスターニは、どんな手を使ってでも君を陥落させようとするだろう。……もう少しだから)
この痛みが、フランチェスカへの道を手繰り寄せる。
フランチェスカのために差し出せるものは、いくらでもあるのだ。
「……クレスターニによって消された記憶は、まだ完全に取り戻せた訳ではありません」
「…………」
レオナルドは、交差する道を迷わずに進む。
「ですが、断片はこの先に」
「!」
ダヴィードのスキルによって与えられた『真実の姿』は、鮮烈な痛みと引き換えに、僅かな記憶を揺り起こさせた。
そうして辿り着いたこの場所には、『見知らぬ』大きな建物が建っている。
「……ここは」
「ええ。今は建て替わって、祈りの場所になっていますが」
門の向こうに聳え立つのは、豪奢な教会だ。
「俺たちの記憶から、都合良く抜け落ちた空間。地図には存在しているからこそ、なんの違和感すらも覚えなかった……」
大聖堂に似た作りの建物を背に、レオナルドは両手を広げて笑った。
「かつて、セレーナの屋敷があった跡地です」
レオナルドが、父と兄を失ったあの場所だ。




