311 一直線に!(第5部3章・完)
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フランチェスカは、ひとりで屋敷の中を歩いていた。
(……ダヴィードは、すごいなあ)
頭の奥が痛むのを感じて、途中の壁にぽすんと寄り掛かる。
(私、クレスターニに洗脳されてから、ずっと世界に違和感を覚えてる。頭も痛いし、くらくらするし……何よりも、次はいつクレスターニに支配されるのか分からなくて、不安な気持ち)
俯いて、手のひらを見詰める。
(私が今からやろうとしていることも、本当に私の意思なんだよね……?)
こうした思考を持つことすらも、クレスターニに支配されている所為かもしれない。
そんな恐怖心が、じわりと背筋に広がった。
(ダヴィードは小さな頃から、これを我慢してきたんだ)
幼いダヴィードの耐えてきた日々を思い、胸が痛む。
(クレスターニに洗脳されたダヴィードのお父さんが、目の前で亡くなって。ダヴィードは支配されることの怖さも、絶対に逆らえなくなる危険も分かっていたはずなのに、ソフィアさんを守るために)
それは、どれほどの勇気だっただろう。
(ひょっとしたら、この国への裏切りだって見做されるかもしれない……そんな心配だって、いつもあったはず)
ダヴィードはたくさんの苦しみを、何年も抱え続けてきた。
誰にも打ち明けず、秘密にしたまま生きてきたのだ。
(だけどダヴィードは、いつも孤高で綺麗だった)
それがどれほど難しいことか、今のフランチェスカにはよく分かる。
(私が単純に攫われたんじゃなくて、クレスターニに洗脳されたって、レオナルドたちは知ってるのかな。もしもダヴィードにも伝わっていたら……)
寄り掛かっていた壁から身を離して、フランチェスカは再び廊下を歩き始めた。
目指すのは、階下へと向かう階段の方だ。
(きっと今頃、ダヴィードにもすごく心配を掛けちゃってる。本当は、すごく優しい男の子だから)
フランチェスカがそう言えば、ダヴィードは否定するだろう。
素直じゃないというよりも、ダヴィードはそういう青年なのだ。自分自身の美しさや優しさに、ちっとも自覚が無いのだった。
(ダヴィードに、これ以上の苦しさを背負ってほしくない。これから先の人生では、ソフィアさんもダヴィードも、幸せなだけの日々を過ごしていてほしい……)
小さなダヴィードが受けた傷は、そうした権利を得るのに十分なもののはずだ。
心から幸福を祈りながら、フランチェスカは廊下を歩いてゆく。
(それから、ダヴィードが今頃レオナルドと喧嘩していないといいな。リカルドが居れば、絶対に止めてくれるはずだけど)
彼らの様子を想像して、フランチェスカは苦笑した。その一方で、ふとこんなことが脳裏をよぎる。
(……ダヴィードの、『真実の姿を暴く』スキル)
あのスキルは、フランチェスカ自身すらも知らない秘密を、暴き出してくれるものだろうか。
(クレスターニが、洗脳してまで私を欲しがっている理由。ルカさまの切り札って呼ばれた理由が、ダヴィードのスキルでなら分かるのかな)
試してみたい気持ちと同時に、とある懸念も生まれてくる。
(だけど、私の真実の姿が『フランチェスカ』なのかどうかも自信が無いや……。ひょっとしたら、前世の私の姿になっちゃうかも?)
思わず両手で自分の頬を挟み、むにむにと押さえた。
(そうなったら、みんなはどんな顔をするんだろう)
その反応は読めないが、ひとつだけ確かなことがある。
(――レオナルドは絶対に、いつもと変わらずに私を呼んでくれる)
そんな確信に、フランチェスカが思わず微笑んだ、そのときだった。
(……この声)
フランチェスカが向かっていた階段の方から、青年たちの話し声がする。
(アロルド、ジュスト、ティーノの三人。下の階……三階に居るんだ)
気配を殺しながら歩いていたフランチェスカは、改めて慎重にそちらへと近付いた。
「ルチアーノが食堂で寝ちまったらしい。はは、まだまだガキだよなあ!」
「疲れてしまったのではないですか? あの女の子の見張りなんて買って出て、張り切っていたみたいですし」
「この調子では、計画に支障をきたす可能性がある。足手纏いになるくらいなら、切り捨てるべきだと思うが」
三人の会話を聞きながら、フランチェスカはううんと目を閉じる。
(この人たち、『ちょっと怖い大学生のお兄さん集団』っていう雰囲気だよね。裏社会の人とは違った雰囲気の怖さというか、悪さというか……)
それでいて根底は上品な雰囲気なのだから、貴族の教育というものは凄まじい。そんなことを考えつつ、彼らをやり過ごす。
(でも)
フランチェスカは目を開いて、手摺りの向こうに身を乗り出した。
(ひとりだけ、『私たち』と近い雰囲気を持った人がいる。緑の髪で、無愛想なお兄さんのジュスト)
脳裏によぎったのは、ひとつの可能性だ。
(もしかして、五大ファミリーの何処かの関係者なのかも……?)
そんな思考は、扉が閉まる音と同時に遮断された。
(――みんな部屋に入った。これで今は、誰も近くに居ないはず)
改めて周囲の気配を探り、安全を確かめる。食堂からルキノが運ばれてくるとしても、屋敷にもう一箇所ある階段を使うだろう。
フランチェスカは深呼吸をすると、艶やかに磨かれた黒い靴を脱いだ。
それを手に持ったまま、手摺りへとよじ登る。折り返し式になっている階段は、長方形の吹き抜けに切り抜かれた空間が存在し、そこから『下』が見下ろせた。
(ここから見える一番下……地下にはきっと、何かある。だけどクレスターニの罰則がある所為で、私の足では近付けない)
深呼吸をし、なるべく心を落ち着けた。
(階段だと、一階に着く前に気絶しちゃう。だけど少なくとも『ここ』からなら、今のところ意識を保ててる)
そのことが分かって、ほっとする。
(本当は、もっと低い階で試すべきだって分かってるけど……ここより地下に近いフロアだと、手摺りの外を覗き込んだ時点で、クレスターニの罰を受けるかもしれない)
もう一度、ゆっくりと息を吸って吐き出した。
(だったら最初に、この四階から)
手摺りの上に、立ち上がる。
見下ろすのは、地下まで続く吹き抜けの空間だ。
(大丈夫、怖くない。レオナルドのスキルが守ってくれる、絶対に……!)
そのことを知っているフランチェスカは、迷わずに次の行動に移った。
(――だから、ここから飛び降りる!)
地下を目掛けて。
フランチェスカはドレスの裾を翻し、その身を投げ出したのだった。
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第5部4章へ続く




