304 恩義と願い
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リカルドは月曜の終業式に、学院を休むつもりでいる。
恐らくはリカルドだけでなく、フランチェスカを知る全員がそうだろう。
(フランチェスカが洗脳されたと聞いてから、今日で五日目か)
リカルドは、事態に進展のない現状を不甲斐なく思いながら、膝の上で拳を握り込んだ。
「――お伝えしたかったことは、以上です」
訪問先は、カルヴィーノの屋敷だ。
リカルドには勿体無いほどの応接室に通され、対面には当主のカルヴィーノという形で、革張りのソファーに座っている。
「書面に残すのは障りがある内容も含まれるため、直接お時間をいただいてのご報告となりましたこと、お許しください」
「詫びはいらん。こちらとしても、こうして仔細を確認できた方が有り難い」
カルヴィーノはいつも通りの無表情だ。卓上の灰皿に灰を落とし、その煙草をくちびるに持って行く。
(やはり、静かな殺気を帯びておられる)
その振る舞いを前にして、リカルドは尊敬を新たにした。
(愛娘であるフランチェスカの一大事。御心内は、どれほど乱れていらっしゃることか……それでも本当の有事には、こうして冷静に努めておられる)
いまはカルヴィーノたちの一挙一動が、フランチェスカの安否にも影響する。
それが分かっているからこそ、落ち着いた態度に徹しているのだろう。その精神力がどれほどのものか、未熟なリカルドには想像も出来ない。
(一方で、こいつは……)
「へえ。さすがはセラノーヴァ家だな」
カルヴィーノの隣に立っているのは、フランチェスカの婚約者であるアルディーニだ。
他家の当主という立場でありながら、アルディーニはこの家の一員であるかのように、当然の顔をしてそこに居た。
違和感なく馴染んで見えるのは、アルディーニがフランチェスカの婚約者だからだろうか。それとも単純に、アルディーニの気質によるものなのかもしれない。
(フランチェスカを奪われた状況下で、いつもより明るく見えるほどだ。……それこそが、空恐ろしさを作り出している)
アルディーニは機嫌が良さそうに目を細め、リカルドの提供した地図を手に取る。
「見てください、エヴァルトさん。こんなに細かく情報が載っていますよ」
「……その呼び名もやめろと言っている」
「あはは!」
無邪気にも見える笑い方でも、決して瞳は笑っていない。危なっかしく不安定なアルディーニの姿に、リカルドは思わず喉を鳴らした。
(先ほど誰か殺してきたばかりだと言われても、頷ける……)
リカルドの背筋に、本能的な警戒による寒気が走る。アルディーニはくすっと笑い、冷たいまなざしで言った。
「現在、この国への入出国は厳しく制限されている。転移については陛下が結界で禁じてくださっているが、海路と陸路で出入りする人間の監視については、どうしても不正が起きるからな」
アルディーニが目を通し始めたのは、フランチェスカの洗脳以降、セラノーヴァ家の構成員が国境監視を始めてからの報告書だ。
「うんうん、相変わらず見事な書面だ。流し読みするだけでも、状況が手に取るように分かる」
「当家の人間がついた以上、この国の伝統的な模範意識に則って、不正な出国者を見逃すことは有り得ない」
大袈裟に褒めてくるアルディーニに、リカルドは複雑な心境で返す。
「……その信頼を取り戻すには、まだまだ時間を要するだろうが」
春先に起きた薬物事件は、洗脳された父が首謀者だった。
この国に違法な薬物を持ち込むことは、命を持って贖うべき重罪だ。王家に誓った血の署名に背く、裏切り行為と呼んでもいい。
(名誉と信頼が地に落ちた程度、安い代償だ。本来ならば処刑されるか、他のファミリーによる粛清によって、皆殺しにされたとておかしくはなかった)
だが、セラノーヴァ家は許された。
父ジェラルドは投獄されたものの、それは処罰のためというより、クレスターニに『始末』されないための守護だと感じる。
セラノーヴァ家は取り潰しになることもなく、父の息子であるリカルドに後継を許され、こうして続いているのだ。
(……すべて、フランチェスカのお陰だというのに)
そう告げれば、フランチェスカは必ず否定した。
『私はなんにもしてないよ、リカルド!』
そう言って、晴れやかな顔で笑うのだ。
『セラノーヴァ家が今までずっと、この国のために働いてきたから。お父さんが、洗脳されていない限りあんなことをする人じゃないって信頼されているから。ずっと努力してきたリカルドが、そんな一家を継ぐのに相応しいと思われたから! それが理由なんだよ、胸を張って』
リカルドを激励するためでも、謙遜からくる言葉でもない。
『リカルドなら、絶対に立派な当主になる!』
フランチェスカは心から、そんな風に信じているようだった。
(怪我をしていないか? 何か、恐ろしい目に遭っていないだろうか。……すまない、フランチェスカ)
何も出来ない不甲斐なさに、ぐっと両手を握り込む。
そこに聞こえたのは、フランチェスカの父の声だ。
「……セラノーヴァにも、詫びねばならない」
「カルヴィーノ殿?」
心当たりのない謝罪に首を傾げると、カルヴィーノは灰皿で煙草を潰し、リカルドを見据えた。
「年が明ければ、継承式の予定だったはずだ」
「…………」
現在、リカルドは当主代理という肩書きを持っている。
たとえ洗脳されていたといえど、血の署名に背いてしまった父はもう、セラノーヴァ当主には戻れない。リカルドが正式な当主になるための儀式は、数日後に設定されていた。
それを中止にした理由が、フランチェスカ捜索のためだと気付かれたのだろう。
「……何を仰るのですか」
こうなれば、誤魔化して隠し立てをすることは性に合わない。
リカルドは改めて居住まいを正し、膝の上に両手を置いた。
「フランチェスカは当家の恩人です。彼女の救出に尽力せずして当主を名乗れば、俺の生涯の恥となるでしょう」
そう口にした後で、ふと違和感を覚える。
「……いいや。それだけではなく」
「リカルド?」
その訂正に、アルディーニが首を傾げた。
「恩義を感じているから、報いたい。それ以上に……」
リカルドの父の過ちを、危険を冒してまで止めてくれた。
「俺は、フランチェスカを助けたい」
フランチェスカはリカルドを励まし、元気付けて、いつも信頼してくれる。
それが、どれほど難しいことだろうか。
「上手く言えませんが。……俺は、フランチェスカがいつも笑っているべきだと思います」
「…………」
カルヴィーノが、僅かに息を呑んだように見えた。




