291 子犬の相手
兄と同じ年齢のティベリオは、かつては父の部下だった。
淡い色合いの髪を持ち、前髪の片側を掻き上げた彼の顔立ちは、甘く整っている。七年前、レオナルドが当主になって以来、この男は忠実な駒であり続けていた。
「定時報告が遅れるそうです。……婚約者さまに関する情報は、難しいかと」
そう言いながら、レオナルドにハンカチを差し出してくる。この手で自分の衣服に触れたくなかったレオナルドは、それを受け取って手を拭いた。
「うーん。拭っても気持ち悪い」
「当主」
ティベリオは、侮蔑に満ちたまなざしを死体へと送る。
レオナルドに強固な忠誠心を捧げている割に、ティベリオの目はいつも冷めていて、そういう所が気に入っていた。
「最期にあなたに触れていただく幸運など、裏切り者に与えなくてもよかったのでは?」
(とはいえ、奪取のスキルは、触れた死体からしか能力を奪えないからなあ)
フランチェスカにしか明かしていないことを、心の中で呟いて笑う。その上で、ティベリオに命じた。
「ラニエーリ家とセラノーヴァ家に遣いを出して、話せる時間を確保しろ。どれほど深夜でも構わない」
「……は」
「ラニエーリ家はソフィアだけじゃなく、ダヴィードにもだ。それと、カルロに報告書の返事を書いてある。すぐに届けてくれ」
「仰せのままに。――当主」
靴の裏についた血を、死体の背中で拭っていたレオナルドは、呼び掛けられて首を傾げた。
「お休みの時間は、いつお取りに?」
「…………」
頭の奥が、鈍く痛む。
これはひとえに、スキルを酷使しているからだ。フランチェスカの気配を探るため、彼女に掛けたスキルの些細な変化も見逃さないように、常に集中を絶やしていない。
(眠ったら、フランチェスカの監視が出来なくなる)
だからこそ、目を閉じたいとすら思わない。
レオナルドは笑い、ティベリオに言い切った。
「寝ているさ。こう見えて、あちこちで仮眠も取れてるしな」
「そうですか。……安堵いたしました、さすがは当主です」
ほっと息を吐いたティベリオに、重ねて普段通りの指示をする。
「それよりこの死体、例のおっさんの身代わりとして売れるよな?」
「ああ、そうですね。利益はたかが知れていますが、貸しを作ることは可能かと」
「言い逃れ出来ない文面で書類を作って、それに血の署名をさせろ。それから……」
レオナルドは、倉庫街に続く路地の方を振り返った。
暗闇の奥から、重い物を引き摺る音がする。ティベリオが上着の中の銃に手を掛けたが、レオナルドはそれを左手で制した。
「あいつが咥えてきた獲物も、ついでに処分しておいてやれ」
「――かしこまりました」
姿を見せたのは、気を失った男の首根を掴んで歩く青年だ。
茶の髪に、赤い瞳。よく動き回る所為で暑いのか、冬の夜だというのに外套の前を全部開いて、白いシャツとベストを露わにしている。
こちらを睨み付けた彼に対して、レオナルドはいつものように笑ってやった。
「来たな、番犬」
「…………」
フランチェスカの従者グラツィアーノは、ますます不機嫌そうな顔をする。
「へらへらと余裕ぶりやがって。――お嬢は見付かったんですか」
「その言葉、お前にもそのまま聞き返してやろうか?」
「…………っ」
あからさまな憤りの感情を、この従者はどうにか抑えたらしい。自分が引き摺ってきた男を港の石畳へと離し、ティベリオの方を見上げた。
「ティベリオさん。こいつ、均衡区画で女の人の人身売買を企ててたみたいで。うちのやり方での尋問は終わったんで、あとはどうぞ」
「お預かりします。……何も出てこないでしょうが、念の為」
続いてフランチェスカの番犬は、不服であることを隠さないままレオナルドに言った。
「うちの当主と待ち合わせなんスよね? この先なんで、案内します」
「それじゃあティベリオ。後はよろしく」
「お任せください。いってらっしゃいませ、当主」
そのままずかずかと歩いていく番犬の後ろを、レオナルドもついて歩く。港のあちこちを照らすランタンの光が、海面に反射して揺れていた。
(……フランチェスカが見たら、きっと綺麗だと喜んだ)
そんなことを想像して目を眇めると、目の前の青年が言う。
「お嬢になんのスキルを掛けてるのか、教えてください」
「嫌だよ」
「…………」
すると、青年は足を止めてこちらを振り返った。
「……何人もの部下に命令して、それぞれにスキルでお嬢を守ってるんでしょ?」
すべてレオナルドのスキルだと言ったら、この子犬はどんな顔をするだろうか。
フランチェスカ以外に手の内を明かすつもりはないため、そんな日は永遠に来ないのだが、レオナルドは少しだけ可笑しくなった。
「まあ、そんな所だな」
「本当にそいつら全員、信用できるんですか」
「信用できるかどうかは関係ない。他人なんて、裏切ることを考慮して、その前提で利用するものだろ?」
「!」
当たり前のことを口にすると、青年は驚いたように目を見開き、ひどく悔しそうに顔を顰めた。
「それは……」
「恥じなくていいさ。フランチェスカやお前のように人を信じられるなら、俺もそう生まれたかった」
「……あんた」
瞬きをした番犬に、ひとつ提案を翳してみる。外套のポケットに手を入れて、彼の方に一歩近付いた。
「だがそうだな。お前もいつか当主になるなら、他人の使い方を試してみるのは良いんじゃないか」
「他人の、使い方……?」
「たとえば」
困惑を滲ませた顔を覗き込み、レオナルドは笑って囁いた。
「――お前の当主を、裏切ってみないか?」
「……な……」
青年が瞳を丸くするさまを、レオナルドは笑って眺めてやるのだった。
***