285 黒の薔薇
***
フランチェスカは時折、前世で生きた日々の夢を見る。
『裏切り者には、きっちりとケジメをつけさせる』
(――おじいちゃん)
友達が欲しいと願った夢。祖父や組員と遊んだ夢。それから今日見たもののように、怒っている祖父の姿の夢だ。
(やめて、おじいちゃん)
幼いフランチェスカが必死に語り掛ける声も、夢の中の祖父には届かない。これは現実に起きたことだったか、それすらも今は曖昧だ。
『俺たちは確かに日陰者だ。表の人間から見れば、こんな場所に正義なんてのァ存在しねえ』
(駄目だよ。だってあの人、おじいちゃんが大好きだったお友達の、たったひとりの息子さんなんでしょう?)
『それでも裏切り者だけは、何があっても粛清する』
着物姿の祖父の背中に、強い怒りが揺らいで見れた。
(私はちゃんと、帰れたから……! おじいちゃんの傍にずっと居るから、そんなことをしなくても大丈夫だよ)
『あいつは俺の孫娘を売りやがった。その結果、ひかりが……』
(ほら! 私、小さい頃から何度も誘拐されてきたでしょ? お陰でこうやって攫われるくらい、全然へっちゃらなの!)
『ここでケジメをつけさせなけりゃあ、ひかりを遺して先に逝った息子夫婦にも、申し訳が立たねえだろう』
フランチェスカが聞いたことのないほど低い声音が、こう紡いだ。
『――裏切り者は、皆殺しだ』
***
「………………」
豪奢な調度品の並ぶ寝室で、フランチェスカは意識を取り戻した。
緩慢なまばたきを繰り返すと、徐々に思考が鮮明になる。黒いドレスを身に纏ったフランチェスカは、ひとりで居るには広すぎる部屋のソファーに座って、ずっと眠っていたようだ。
「……ここ、どこ……?」
足元に敷かれた絨毯は、見るからに高価な毛足をしている。
彫刻の施されたクローゼットや、天蓋のついた大きなベッド。そしてカーテンは閉ざされているものの、上品な花柄の壁紙が、この部屋を華やかな印象に纏め上げていた。
「わたし……」
フランチェスカはふたつ、瞬きを重ねる。
ことんと首を傾げると、耳元で小さな音がした。指で触れると、そこには大切な人にもらった耳飾りの、薔薇の細工が繋がっている。
その瞬間、一番に彼のことを思い出した。
「………………レオナルド!」
飛び上がるようにして立ち上がると、鈍い痛みが頭を襲う。フランチェスカは小さく顔を顰め、両手で左右のこめかみを押さえた。
(私、賢者の書架で綺麗な男の人に会った。『可愛いフランチェスカ』って、レオナルドみたいな言い方で、名前を呼ばれて……)
けれどもいくら考えても、その後のことが思い出せない。
(……記憶が、なくなってる……)
心臓が、嫌な早鐘を刻み始めた。
すぐさま扉に駆け寄って、ドアノブに手を掛ける。そこには鍵が掛かっており、がちゃがちゃと硬い音がするばかりだった。
(ただの鍵じゃない、結界だ……!!)
次は窓辺に走り、カーテンを開ける。外にはなんの景色もなく、白い光が漏れていた。
(こっちも開かない。硝子は普通の? 私の貯金でも弁償できる、よし……!)
知らないデザインの靴を脱ぎ、つま先側を握り締める。遠心力を利用することを意識して、頭上から強く振り被った。
そして、硬いヒールを叩き付ける。
「んん……っ!!」
強い光が迸り、フランチェスカの体ごと弾いた。硝子には、ひびのひとつも入っていない。
(……駄目だ。脱出経路がない)
分かっていた事実を受け入れつつ、思考の続きを進めてゆく。
(きっと私、洗脳されたんだ。あのとき、賢者の書架で会ったのは……)
その姿を思い出そうとしても、記憶に靄が掛かっていた。
(『あの人』に会ってから、ここで目を覚ますまでの記憶が欠けてる。私が今まで何をしてたか、誰と話したのか、どこにいるのかも全部!)
部屋の中を再び見回しても、そこには知らないものだらけだ。
ベッドのシーツに皺のひとつもない所為で、自分がここに来たばかりなのか、清掃の行き届いた屋敷に滞在しているのかも分からない。
(思い出せ、思い出せ、思い出せ……!)
焦燥に駆られ、無意識に自身の両耳を塞ぐ。
だが、そのときだった。
「!」
宝石の薔薇が、再びフランチェスカの手に触れる。
(……レオナルドにもらった、耳飾り)
それをきちんと覚えていることに、安堵した。
(赤と黒、二輪の薔薇がついているデザインなのに。右耳の方だけ、一輪足りない……)
この部屋には、花の彫刻が施された豪奢な鏡台がある。フランチェスカはそちらに近付いて、そうっと鏡面を覗き込んだ。
(赤薔薇の方が、ひとつ砕けてる)
どうしてそんな壊れ方をしているのか、フランチェスカにもなんとなく予想ができた。
(きっと私、あの人にスキルを使ったんだ。レオナルドがくれた耳飾りの石を、強化素材にして)
スキル強化に使う素材は、対象のスキルレベルが上がるごとに複雑化してゆく。それでも最初の数段階目までは、すべてのキャラクターで共通の素材が求められるのだ。
「……咄嗟に使ったのが、赤薔薇の方でよかった」
無意識に、考えを言葉に出していた。
二輪の薔薇のうち、赤薔薇はフランチェスカの家の象徴だ。そしてもう一方の黒薔薇は、レオナルドのアルディーニ家を示していた。
(アルディーニ家は、『強さ』を信条とする家。……レオナルドの花が傍にあると思うと、勇気が湧く)
鏡の前に立ったフランチェスカは、微笑みを浮かべて自分を見据える。
(私はレオナルドに守られてる。パパは絶対に私を探してくれてる。グラツィアーノも力を貸してくれる、リカルドも、ダヴィードも、エリゼオも)
そのことを、心から信じられるのだった。
「絶対に早く帰るから、待っていてね」
その誓いは、フランチェスカ自身の勇気にも繋がった。




