267 幸福な未来
***
エリゼオが幼い頃のロンバルディ家は、いつも何処か張り詰めた空気が漂っていた。
『カルロにいさん。おねがい』
『……エリゼオ』
裏社会では、上手く立ち回れない人間などすぐに死ぬ。
エリゼオの父と伯父が相次いで命を落とした後、祖父の跡を継ぐ次期当主は必然的に、エリゼオか六歳年上の従兄に絞られた。
その結果、親族たちはエリゼオとカルロの心情など鑑みることもなく、従兄弟同士を比較するようになったのだ。
『今日もまた、あたらしいレポートが書けたんだ』
まだスキルにも覚醒していない幼少期に、エリゼオは自分に出来ることのひとつとして、家中の本を読み漁っていた。
『おじいさまに読んでいただくまえに、カルロにいさんがみてくれる? まちがっている所があったら、おしえてほしいの』
『勿論。だが』
この頃はまだ、従兄のカルロも学生であり、ロンバルディ家を出て行く前だった。
エリゼオたちと同じ屋敷に住まい、従兄弟というよりも兄弟のように、エリゼオの面倒を見てくれたのである。
『お前は昨日もレポートを書いたばかり。些か、無理をしすぎだ』
『ううん。へいきだよ』
扉を開け放した図書室で、カルロにレポートを手渡しながら、エリゼオは首を横に振った。
『ぼくだって早くおとなになって、おじいさまを「あんしん」させなくちゃ』
エリゼオは、祖父のことが好きだった。
従兄のカルロが好きなのと同じくらい、そして死んだ両親を愛しているのと同じくらいに、祖父のことを慕っていたのである。
『おじいさまが、ぼくたちのことを嫌いだったとしても』
『…………』
そのころの祖父はいつも、エリゼオやカルロを叱責し、大人と変わらない扱いをしていた。
けれどもエリゼオは、祖父を嫌いになったことはない。
『おとうさまや、おじさまが亡くなったときに、おじいさまはこっそり泣いてたんだ。……ほんとうは、すっごくさびしがりなんだよ』
『……ああ』
『ぼくたちが、いっしょにいてあげるんだ。そのためには、早く、おじいさまに叱られない大人にならなくちゃ……』
そんな会話をしていたときだ。
誰かが不意に、エリゼオの後ろから腕を伸ばし、強く抱き締めてきたのである。
『わ……っ』
当時は未来視のスキルに覚醒する前だったから、そんな事態が起きることなんて、まったく予想もしていなかった。
ましてや自分を抱き締めたのが祖父だったなど、すぐには信じられたはずもない。
『……おじいさま?』
『…………』
いつも背筋を正していた厳格な祖父が、エリゼオのために膝を折る。
『ご、ごめんなさい、おじいさま。今日はちょっとだけ暑くて、図書室のとびらを閉めなかったんです……』
ロンバルディ家にある図書室は、防音の施工が施されている。話し声が外に漏れない造りだが、扉を開け放していては当然無意味だ。
だが祖父は、どうやら図書室を正しく使わなかったエリゼオたちのことを、叱ろうとした訳ではなかったらしい。
『……すまなかった』
『……?』
紡がれた謝罪に、幼いエリゼオは首を傾げた。
『あの青二才が、「娘」に気付かされたと言っていた通りだ。幼い子供の方が、私のような人間などよりもよほど思慮深く、必死に未来を変えようとしてくれている……』
『どうされたのですか? おじいさま』
エリゼオは、そのときようやく気が付いたのだ。
自分を強く抱き締めた祖父が、涙を堪えていることに。けれどもそれは、父や叔父が命を落とした夜とは、少し性質の違う涙であることにも。
『カルロ。……お前もどうか、こちらに来てくれ』
『……承知しました』
エリゼオの隣に膝をついたカルロにも、祖父は手を伸ばす。
『お前たちに、随分と厳しくあたってしまった。挙げ句の果て、本当に伝えなくてはならないことを怠って、こんな子供たちに甘えていたのだ』
祖父の腕が、エリゼオとカルロを同時に抱き締めた。
『……お前たちを愛している』
『おじい、さま』
祖父は涙声を隠しもせず、決して恥じる様子すらなく、こんな言葉を口にする。
『どうか、償わせてくれ。――私はどうしてもお前たちに、幸福な未来を与えてやりたいのだ』
『…………!』
それはまさに、エリゼオの未来を大きく変えた、最初の日だった。
***
祖父はそれから、カルロとエリゼオの双方に、不器用な愛情をはっきりと示してくれるようになった。
自分も祖父に愛されていたのだと理解してからは、これまでの厳しい叱責も、孫を思っての正義があったのだとよく分かる。
ロンバルディ家は幸いにも、祖父に間違いを気付かせた『とある父親と娘』によって、決定的な亀裂が生まれることを免れたのだ。
『エリゼオ。お前のスキルは、世界を変える力を持つ』
エリゼオが十歳になり、未来視という大きな力を持つスキルに覚醒したときも、祖父は第一にエリゼオのことを考えてくれた。
『そのことを十分に自覚して、制御しろ。他人に利用されぬよう、世界を悪き方向に導かぬよう――お前自身が溺れぬよう。スキルの力以上に、お前自身が強くあらねばならぬ』
『……はい。お祖父さま』
自分の言動がロンバルディ家の未来を左右するのだと、エリゼオははっきり自覚していた。
なにしろこの時には既に、アルディーニ前当主の次男だったレオナルドが、十歳にしてアルディーニ家を継いでいたのだ。けれども祖父の心配は、あくまでエリゼオのことだったらしい。
『お前に幸福な未来をもたらすために、私に出来ることはなんだってやる。だから、忘れるな』
皺だらけの両手でエリゼオの肩を掴み、真っ向から強く視線を合わせ、祖父は約束してくれたのだ。
『何があっても、私とカルロがお前の味方だ』
『……お祖父さま……』
その言葉は、大きな力を手にしてしまった子供にとって、泣きたくなるほどに心強いものだった。
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