236 報酬
「――フランチェスカ」
古い木の香りが満ちる部屋に、甘くてやさしい声が響いた。
数冊の本を抱えたフランチェスカは、首を傾げてそちらを見遣る。
すると、フランチェスカよりもたくさんの本を片腕に抱えたレオナルドが、こちらに手を差し伸べて言うのだ。
「そっちの本も俺が持とう。貸してごらん」
「大丈夫だよ、レオナルド!」
フランチェスカが任された分は、これでお終いだ。分厚い本たちを慎重に抱え直しながら、改めて周囲を見回した。
「それにしても……」
壁一面に並ぶのは、天井まで届きそうなほどの木棚だ。
上品な艶を帯びた飴色の棚は、その風合いだけで歴史を感じさせる。同じ色合いの床は磨き抜かれ、フランチェスカたちが歩く度、きしきしと心地良い音を立てるのだった。
棚に並んでいるものは多岐に渡る。鳥の骨格標本や小動物の剥製、なんらかの薬品が入っているらしき小瓶など、一見すれば秩序がない。
しかし、この博物館の主人いわく、すべては綿密な法則性に則っているそうだ。
「国で一番大きな博物館。――その保管庫に入らせて貰えるなんて、思わなかったな」
右手の壁に据えられた引き出しには、それぞれ手書きのラベルが貼られていた。
専門的な分類を示す言葉に、古い日付が添えられており、建国以前の年代も見受けられる。中に入っているものの貴重さは、鑑定スキルを持っていなくたって、想像は容易い。
「古い木や紙の匂いだけじゃなくて、ちょっと不思議な香りもする。知らないはずなのに、懐かしい」
部屋のあちこちに据えられたガラスケースには、厳重な保護が必要な史料が保管されているようだ。
羊皮紙に描かれた解剖図のようなものや、触れるだけで破れてしまいそうな押し花の標本。一般的な展示棚には出されない理由があるらしき物たちが、ここでそうっと守られていた。
「普段は入れない場所に来られて嬉しいね、レオナルド!」
「はは。君は本当に可愛いな、フランチェスカ」
運んで来た本を机に乗せながら、レオナルドは笑う。
先ほどから何度も往復してきたルートだが、指示された分はこれで最後だ。
「ロンバルディの爺さんめ。フランチェスカを暖炉もない部屋に連れて来た挙句、『この本をすべてあの机に運んでおけ』と言い捨てて消えるとは」
「大丈夫だよ。ここに保管されてるものに悪影響なんだと思うし……動いてると暖かくなったから、今がちょうどいいくらい!」
握り拳を作った両手を掲げ、まったく平気であることを主張する。するとその時、ちょうど保管庫の扉が開いた。
「終わったようだな」
「ヴァレリオさん!」
ヴァレリオは、言われた通りの本だけを運び終えた机を見て、相変わらず気難しい表情で言う。
「細腕の娘に、表立った仕事は配下に任せて出てこない小僧。……もっと時間が掛かるかと思えば、思ったよりはよく働くらしい」
「レオナルド! 私たち、ヴァレリオさんに褒めてもらえてるみたい」
「うんうん。君がそう受け取るなら、それが正しい」
保管庫の片隅には、紫色のヴェルベットが張られた椅子が置かれている。ヴァレリオはその揺り椅子に腰を下ろして、フランチェスカを呼んだ。
「カルヴィーノの。こちらに来い」
「? はい!」
レオナルドの警戒を理解しつつも、フランチェスカはヴァレリオの傍に行く。
するとヴァレリオは、ちょうど金貨が数枚入りそうな大きさの革袋をふたつ、フランチェスカの手のひらに載せた。
「持って行け。…………小遣いだ」
「え!?」
思いも寄らないことを告げられて、思わず大きな声が出た。
「い、頂けません、お小遣いなんて!」
「私の顔に泥を塗る気か? 他家の子供たちをこき使っておいて、何もやらん訳にはいかんだろう」
(だけど別に、どうしても人手が足りないようには見えないんだけどなあ……!)
返させてもらえないでいるうちに、レオナルドが後ろからフランチェスカの肩を引き寄せる。
「まあまあ。せっかくだから貰っておこう、フランチェスカ。お小遣いというよりも、労働の対価に受け取った報酬と考えればいいさ」
「でも……」
「この爺さんに出したものを引っ込めさせるのは、実の孫であっても難しい」
(確かに!)
フランチェスカが思い浮かべたのは、先ほど大量のパンを受け取っていたカルロの姿だ。レオナルドに袋のひとつを渡して、自身の手のひらに残った革袋を見詰める。
「……私、家のお手伝い以外でお金をもらったの、これが初めて」
そう思うと、なんだか誇らしいような気持ちになってくる。
両手でぎゅっと胸元に押し当て、フランチェスカは笑った。
「何に使うかをよく考えて、大事にしますね。――ありがとうございます、ヴァレリオさん!」
「……………………ふん」
そっぽを向いたヴァレリオに、レオナルドが尋ねた。
「それで? 爺さん」
革袋を宙に投げ、ぱしっと受け止めて遊びながら、軽やかな声音で言う。
「フランチェスカに厳しい態度を取った罪滅ぼしで、お小遣いを渡す口実のために連れて来たなんて言わないだろ。ここで俺たちに『こんな本』を運ばせて、何がしたかった?」
フランチェスカは、先ほどまで抱えていた本の山をちらりと見遣る。
(……『聖樹についての研究記録』)
とある一冊の背表紙に綴られているのは、随分と率直なタイトルだ。