229 重ねたもの
「グラツィアーノ……」
フランチェスカが瞬きをすれば、グラツィアーノは急いで言葉を継いだ。
「……っ、言っときますけど、変な意味じゃないですからね! これは、ガキの頃からずっと同じだった環境が変わることへの、違和感というか……!」
「わ、分かってる、大丈夫だよ!?」
いつも冷静沈着な弟分が、こんな慌て方をするのは珍しい。
フランチェスカが驚いていると、グラツィアーノは心の底から不本意そうな顔をした。
「その……お嬢があいつと結婚して家を出たら、俺がこの家の養子になって、当主の跡を継ぐことになってるでしょ」
「……うん」
フランチェスカが後継者にならないと決めている以上、グラツィアーノが次期当主だ。
「もしかして、嫌になった?」
「そんな訳はありません。当主に認めていただいたのなら、俺はその期待に応えるまでです。だけど」
グラツィアーノはふいっと視線を逸らし、低い声で紡ぐ。
「そうなったら、俺は『お嬢のお世話係』じゃなくなります」
「!」
グラツィアーノの言葉に、フランチェスカも納得した。
「……そっか。グラツィアーノは私の従者じゃなくて、『カルヴィーノの当主』になるんだ」
「…………」
「グラツィアーノが立派になるのは嬉しいけど。立場を変えなくちゃいけないのは、なんだかちょっと寂しいね」
いつものグラツィアーノなら、『寂しくなんかありません』と否定していただろう。
けれども今は、そんな気分では無いらしい。主人の外出準備を目の当たりにした忠犬のように、何処か拗ねたような振る舞いだ。
「いつかあんたのこと、『アルディーニの奥方さま』って呼ぶなんて、俺は絶対に御免です」
「――――……」
告げられて、いつかの日のことを思い出した。
「それならグラツィアーノは、ずっと私を『お嬢』って呼んで」
「…………?」
フランチェスカが微笑むと、グラツィアーノは怪訝そうな顔をする。
「覚えてる? 小さな頃、グラツィアーノが初めてそう呼んでくれたときのこと」
「……当たり前でしょ。俺が周りと同じようにお嬢さまって呼ぼうとしたのに、あんたがやたら嫌がって」
あのとき、グラツィアーノに隠していた本音のことを、フランチェスカは心に浮かべた。
(グラツィアーノがどんな目に遭いながら暮らしてたかを、私はゲームで知っていた。だからこの家で、私の弟分として、幸せに育ってほしかったんだ)
そのひとつとして提案したのが、フランチェスカの呼び方だ。
(グラツィアーノは私のことを、どうしても呼び捨てにしてくれなかったけれど。――代わりに前世の『家族』と同じ、お嬢って呼んでくれた)
そのことが、フランチェスカには心底嬉しかった。
どれほど懐かしく、どれほど泣きたい気持ちになったかを、グラツィアーノは知る由もないだろう。
「グラツィアーノには、私のことをずっとそう呼んでほしいな」
「……あんたが、俺たちのお嬢じゃなくなっても?」
「たとえ私が、どんな立場になったとしても!」
フランチェスカは、微笑んでそう言い切った。
「グラツィアーノのお陰で気付いたよ。立場が変わって、関係性の呼び方が変わっても、これまでの時間が無かったことになる訳じゃない」
「……お嬢」
純白のドレスに手を伸ばして、その腰のリボンに触れる。この世界でも、花嫁衣装として多く使われるのは、やはり白色のドレスなのだ。
「未来では、色んなことが変わるかもしれないけど――変化って、何かを失くすことじゃなくて、重なって増えていくことなのかも」
「失くすんじゃなくて、増えていく……」
「だから、グラツィアーノのお姉さん代わりで『お嬢』の私も、消えたりしないはずだよね?」
「…………」
グラツィアーノは何かを考え込むように、そっと目を伏せる。
「……そうかも、しれません」
「ふふ!」
そしてそれは、レオナルドとの関係性にも言えることなのだろう。
(私とレオナルドは、もう二度と友達には戻れない。――だけど、今の私たちは間違いなく、『友達』だった頃のたくさんを積み重ねた上に存在してる)
そう考えれば、先ほどまでの迷いに対して、答えの欠片は見付けられた気がした。
「ありがとう。グラツィアーノ」
フランチェスカは微笑んで、願いをそっと言葉に乗せる。
「グラツィアーノが当主になっても、時々でいいから、私のお世話をしてね」
「……」
グラツィアーノはふっと笑みを浮かべると、いつもの生意気な口振りで言った。
「お嬢はもうちょっと、俺より一歳年上の年長者として、しっかりしてほしいですけどね」
「ふ、普段は『一歳しか変わらないのに年下扱いするな』って言ってくるのに……!」
そんなやりとりをしている最中、廊下から老齢の使用人の声がする。
「失礼いたします。フランチェスカお嬢さま」
「あれ、どうしたの?」
黒い礼服を身に纏った使用人が、フランチェスカに深く頭を下げた。
「実は先ほど遣いが参りまして、お嬢さまへの贈り物が届いております。小さな箱でしたので、紛失しないようお部屋に運ばせていただきました」
「贈り物!? も、もしかしてまたパパが新しく……」
「いいえ。――外からのお客さまによるものです」