182 父の記憶
【第3部6章】
幼かった頃のダヴィードは、十二歳年上の姉に連れられて、多種多様の美しい『本物』を目にしてきた。
ラニエーリ家が経営している美術館は、この国に数多く存在する。姉はそこでの美術品鑑賞だけでなく、商談相手との取り引きにまで、ダヴィードのことを連れ出した。
『ご覧、ダヴィード。美しいだろう?』
家ではいつも難しい顔をしている父に代わって、姉がダヴィードに教えてくれたのだ。
『こうして誰かの心を、国を、そして世界を豊かにする。――それが、本当に美しいものの持つ力だよ』
『……!』
目の前に並べられた数多くの絵画は、ダヴィードを未知の世界へと連れ出した。
音楽などは反対に、ダヴィードの内側に込められたものへと寄り添ってくれる。宝石、器、織物と、それぞれの持つ多種多様な魅力に、幼いながらも夢中になったものだ。
『……見て。ラニエーリ家のご姉弟よ』
『まあ、綺麗なご令嬢とご子息だこと。年齢は離れているけれど、そっくりね』
だからこそダヴィードは、向けられる視線の冷たさに気が付いていた。
『――弟君の方には、娼婦の血が混ざっているのに』
『…………』
ダヴィードは姉と違っていて、『本物』ではない。
それなのに、父を筆頭にしたラニエーリ家の大人たちは、ダヴィードに意味の分からないことを言う。
『ダヴィード。いつか、この家で唯一の男児たるお前が、この家の当主を継ぐのだぞ』
(……どうして、偽物でしかない俺なんかが……)
それがいかに馬鹿げていて非効率的な選択であるかは、子供だったダヴィードにすら分かっていた。
姉とふたりだけのとき、ダヴィードがそんな不満を口にすると、姉は平気そうに笑うのだ。
『馬鹿だねえ。男が家を継いだ方が、家門は安泰に決まってるじゃないか』
『才能に、男か女かなんて関係ない。じっさい父さまは、ラニエーリ家の当主には向いてない……美術品を見る目、全然ねえし』
『こーら、いいんだよそんなのは。娘の私が手伝えば済む話、そうだろ?』
この頃は、姉への縁談が数多く舞い込んできていた。
しかし父は、その縁談をすべて断った上で、姉に実質的な当主の仕事を押し付けていたように思う。
それでも姉は笑い、『私には惚れた男がいるから、下手なところに嫁に出されなくてほっとする』と話していた。
(姉さまの方が、父さまや俺なんかよりも、ずっとすごい)
姉は本物で、自分は偽物だ。
(せめて俺は、『本物』の当主にならないと。……姉さまに、人生を犠牲にさせたりしない。もっと勉強して、もっと強くなって……)
ダヴィードは俯いて、自分自身へと言い聞かせた。
(姉さまに、安心して当主を任せてもらえるような。……『男だから』っていう理由以外で認められる、『本物』に……)
『ダヴィード』
『!』
ソフィアはダヴィードの頭をくしゃりと撫で、優しい顔で微笑んだ。
『ゆっくり大きくなりな。……お姉ちゃんは、お前がどんな立派な男に育つのか、すごく楽しみにしてるんだよ』
『……姉さま……』
だが、姉とダヴィードにそんな時間は与えられなかった。
最初の異変は、ダヴィードが七歳になったころのこと。
ラニエーリ当主たる才覚に恵まれなかったはずの父が、異常なほどの手腕を見せ始めたのだ。
『ラニエーリは一体どうなっているんだ? ここ半年ほど、やけに仕事が冴えているじゃないか』
『普段は娘に押し付けっぱなしの癖に、肝心なところでは当主権限を振り翳して台無しにしてきたのにな。まるで、別人にでもなったかのようだ』
そしてそれと同時に、怪しい人間との繋がりを持ち始めたことに、家の人間は気が付いていた。
『お待ちください、父上!』
『うるさいぞソフィア! 当主である父に逆らう気か!?』
美術品に対する審美眼も、商談における発言も、明らかにこれまでの父とは違う。
そのことに素直に喜べないのは、その人物の得体が知れず、あまりにも奇妙だったからだ。
『私たちに隠れて、一体どのような者と関っていらっしゃるのですか!? そのように美しくない振る舞いを、ラニエーリの娘として見過ごす訳には参りません!』
『黙れ……!』
『姉貴!!』
会合に出る父を止めようとした姉は、力尽くで押し退けられた。ダヴィードが駆け寄って父を睨むも、父はダヴィードに見向きもしない。
『少々お前に力を与えすぎたな、ソフィアよ。味方を全員解雇してやれば、大人しくなるかと思ったものを……』
この出来事が起こる前、姉が数日ほど屋敷から姿を消した。
姉が父に反抗して家出をしたのだと、ダヴィードは父から聞かされている。
しかしその実態は、危険な人物と関わっている父を諌めた姉が、父の逆鱗に触れた結果の仕打ちによるものだと気付いていた。
『やはり、女を嫁にやらなかったのは失敗だったな』
『あんたが姉貴への求婚を、すべて断ってきたんだろうが……!』
『なあソフィアよ。あまり生意気を言うようであれば、またカルヴィーノ家の「現実」を見せてやるぞ?』
カルヴィーノは赤薔薇を家紋に冠する、五大ファミリーの家のひとつだ。
『エヴァルト殿が愛娘に笑いかけ、手を繋ぎ共に歩く。そんな微笑ましい光景を、お前ももっと見ていたいだろう?』
『…………っ』
どうしてそんな他家のことを持ち出すのか、このときのダヴィードには分からなかった。
けれども次の瞬間、姉がかすかに身を震わせたことに気が付いて、思わず目を見開いてしまう。
(……姉貴)
姉の瞳から、一粒の雫が落ちたのだ。
姉が涙を零すところなんて、生まれてから一度も見たことがない。数日前、姉が家に戻らなかったきっかけがなんなのか、それですべてが分かった気がした。
『……はは』
父が出掛けてしまった屋敷のエントランスで、姉が泣きながら笑った。
『弟に、みっともない所を見せちまったね』
『……みっともねーのは親父の方だろ。父親だからって、あんな……』
押し付けたハンカチを、姉がくしゃくしゃに握り締めている。姉が今日までどれほど頑張ってきたか、ダヴィードはよく知っていた。
男たちと渡り合えるように、わざと威勢の良い言葉遣いをしていることも。
自分が継ぐことのない家のために、どれほど心を砕いてきて、ダヴィードを導こうとしてくれていたかもだ。
『……親父を追いかけて、謝らせる』
『ダヴィード?』
ダヴィードはそう決意して、姉の傍から立ち上がった。
『もう二度と、あんなこと言わないって約束させるから。……だから、ちゃんと泣き止んで待ってろよ!』
『あ……! ちょっと、待ちな!!』
姉の制止を振り切って、ひとりで家を飛び出す。
あちこちの人に聞いて回りながら、ラニエーリ家の馬車が向かった先を探して歩いた。それほど苦労せずに辿り着けたのは、幸いなことだったのだろうか。
それとも、不幸なことだったのだろうか。
『……え……?』
港の倉庫街に辿り着き、一枚の重い扉を押し開いた時、ダヴィードは目を疑った。
『親父……』
血と泥に汚れた醜い父が、倉庫の床で呻き声を上げていたのだ。
『なんだよ、その怪我……』
父はダヴィードの姿を目にすると、手を伸ばしながらこう言った。
『ああ、ダヴィード……! 良い所に、来てくれた……』
『ま……待ってろ。いますぐに、誰か呼んで来――』
『聞こえていますか、我が主よ!!』
倉庫の奥の暗闇に向けて、父が訳の分からないことを高らかに叫ぶ。
『私の息子を献上します!! どうかあなたの手足として支配し、意のままにお使いいただければと……!』
『なにを、言って』
『私はあなたの忠実な配下です! 何もかも捧げます。ですからどうか、そのお力を私に……!!』
『うあっ!』
瀕死の怪我を負って見えたはずの父が、凄まじい力でダヴィードの襟首を掴む。その強さに息を呑んだダヴィードの鼓膜を、父が何者かを呼ぶ声が揺るがした。
『偉大なる、クレスターニさま……!!』
『離……っ』
その直後、呆気ない銃声が倉庫に響く。
『――うるさいな』
『……!』
ダヴィードを掴んでいた父の手から、突如力が抜けていった。
床に血溜まりが広がってゆく。父の左手に握られていたのは、細い煙の立つ銃だ。
(親父が、まさか、自分で)
呆然とするダヴィードの前で、何者かが冷たく言った。
『言っただろう? お前はもう、不要だって』
ダヴィードの父はもう死んでいるのに、その人物はごく自然に言葉を続けるのだ。
『ラニエーリ家はそれなりに便利だったが。あまりに愚鈍な駒を使うのは、こちらも疲れる』
倉庫の奥から一歩ずつ、何者かがこちらに近付いてくる。自らの体が震えるのを叱責しながら、ダヴィードは目の前の闇を見据えた。
『洗脳スキルで能力を底上げしてやっても、あの程度とはなあ……』
その人物は、暗闇の中で立ち止まる。
顔どころか姿の輪郭も見えない、そんな得体の知れない人間の言い放った言葉に、ダヴィードはひどく納得していた。
(親父は、こいつに洗脳されていた)
ここしばらくの父の手腕は、誰もが驚くほどだったのだ。
けれど、なんのことはない。
(――あの親父は、『偽物』だったんだ)