174 さよならを
【第3部5章】
『――ひかり』
水の中で聞いているかのような声が、遠くに響いていた。
『しっかりしろ……! 頼む、どうか、目を開けてくれ!!』
そうやって呼び掛けてくれる人の声を、フランチェスカは知っている。
『馬鹿野郎。爺を庇って、どうしてお前が代わりに、こんな痛い思いを……!』
(……おじいちゃん……?)
前世で死んだ瞬間の夢を見ているのだと、そこではっきりと自覚した。
『お前が死んだら、俺は……』
(ごめんね。おじいちゃん)
ゆっくりと目を閉じたフランチェスカは、心からの謝罪を祖父へと告げる。
(私は……)
そのとき、誰かの手がフランチェスカの頬に触れた。
「……ごめんな。フランチェスカ」
ゆっくりと撫でるように、やさしく大事に慈しむ触れ方だ。
それなのに、声音はさびしい。何処か苦しそうにも聞こえる声で、何度もフランチェスカへと繰り返す。
「……ごめん」
「……レオナルド……?」
「!」
ゆっくりと目を開けて名前を呼んだら、彼が驚いて目を見開いた。
フランチェスカが寝かされた寝台の傍に、大人の姿に戻ったレオナルドが居る。その存在に無性にほっとして微笑むと、レオナルドも笑おうとしたようだった。
「……おはよう。俺の可愛いフランチェスカ」
「ん……」
起き上がろうとしたものの、力が入らない感覚が続いている。身じろいだフランチェスカをあやして、レオナルドが頭を撫でてくれた。
「無理に起きる必要は無い。君は意識を失ったんだが、覚えているか?」
「……なんとなく……」
「ここはカルロの診療所だ。あいつは下の階にいるから、この部屋には俺たちだけだよ」
フランチェスカが心配しそうなことを、レオナルドは先にすべて説明する。
「さっきの騒動から一時間も経っていない。あの公園はひとまずラニエーリ家が対処中だが、深刻な怪我人は出ていないはずだ」
「そっか。よかった……」
「君の体にも異常は無く、カルヴィーノ家には俺の名前で遣いを出した。『公園の騒動が起きる前に、フランチェスカが酒を舐めて寝込んだため、医師のところで休憩させている』と」
そうした配慮はとても嬉しかった。いずれにせよ父やグラツィアーノは心配しているだろうが、公園での騒動に巻き込まれて気絶したという真実が伝われば、更なる騒ぎに発展するだろう。
「レオナルドの、体調は?」
「……俺は平気」
「でも、すごく無茶してた」
レオナルドは小さく笑うと、彼に伸ばしたフランチェスカの手を取った。
そして、指同士を絡めるように繋いでくれる。
「俺の『無茶』とやらは全部、やさしい君が止めてしまった」
「…………」
その微笑みを見上げたフランチェスカは、なんだかこんな風に感じてしまった。
「レオナルド、かなしいの……?」
「……」
僅かに驚いたような表情の後で、レオナルドは再び笑ってみせる。
「かなしくないよ。フランチェスカ」
大人に戻ったレオナルドの手は、フランチェスカよりもずっと大きい。
指もすんなりとしていて長く、一見すれば華奢に見えるのに、男性の手なのだと改めて実感した。
「何処も、痛くない?」
「ああ。平気だ」
「どんな形でも、私を守ろうとしてくれたんだよね。……それなのに、ごめんね……」
先ほどから、お互いに謝ってばかりだった。
そのことが少し可笑しかったのに、レオナルドにとっては違ったようだ。戯れのように繋がれていた指に、真摯な力が籠る。
「どうして君は、そうやって何処までも真っ直ぐに、他人を想えるんだ?」
「……?」
不思議に思って瞬きをしたフランチェスカへ、静かな声がこう告げた。
「恐らくあの会場に現れた化け物は、祭りにいた参加者たちが変化した姿だ」
(……やっぱり……)
レオナルドの推測は、状況的にも間違っていないだろう。レオナルドは銃を持ったフランチェスカに対して、『撃たずに威嚇を』と促した。
あれは恐らく、あとから人間を撃ったことを自覚したフランチェスカが、それで自分を責めずに済むようにだ。
「仮装で本当の姿を隠す魔灯夜祭は、嘘つきに相応しい祭りだ。だけどそんなもの無くたって、多くの人間が醜い本性を隠している」
「レオナルド……」
レオナルドが幼い頃から見てきた世界は、たとえ『悪党』のスキルがなかったとしても、あの公園のようなものだったのだろうか。
駆け引きや嘘、損得勘定に騙し合い、そういったものにずっと昔から触れていたはずだ。正真正銘の小さな子供だった頃から、月色の瞳で冷静にそれを見定めて来たのだろう。
「あんな連中も、俺のことも。……君が気に掛ける必要なんて、なにひとつ無いのに」
「ちがうよ。レオナルド」
「俺が君の『大事なもの』である限り、君を悲しませずに守ることが出来ない。それなら」
嘘の上手なはずのレオナルドが、ぎこちなくて美しい笑みを浮かべた。
「さよならしようか。フランチェスカ」
「……っ!?」
心臓が、冷たい刃で貫かれたかのようだ。
「……どうして……」
「君が傍に居なくなった世界で、どう生きたら良いのかが分からないから」
ごく自然な口ぶりで告げられるが、言葉は強い想いを帯びている。
「だったら尚更、一緒にいようよ……!」
「それだと君を守れなくなる。この世界から永遠に喪われることよりも、君に触れられない地獄に耐えている方が、ずっとマシだ」
月色の瞳が真っ向から、フランチェスカを見下ろして揺れる。
「俺の大好きな、フランチェスカ」
「……っ」
本心を曝け出していないのは、フランチェスカの方だったと自覚した。
「……絶対に、やだ」
「フランチェスカ」
「それに、ずるいよ。前はレオナルドの方が、『居なくなる気なら自分を殺してからにしろ』って言った癖に……」
レオナルドの手をぎゅっと握り締めて、泣きそうに震える声で告げる。
「レオナルドが居なくなっちゃったら、私がどれだけ悲しいと思ってるの……!」
「……それは」
「レオナルドが『友達』になってくれたから、ただそれだけで大事なんじゃないよ。だって、私」
もう会えない人の懐かしい声を、先ほど夢の中で聞いた。
それによって思い出したことを、レオナルドに告げる。
「この世界に生まれてくる前からずっと、レオナルドのことを考えていたの」
「……生まれてくる、前から……?」
レオナルドの双眸が、フランチェスカを見て僅かに見開かれた。
「――私」
覚悟を結んだフランチェスカは、レオナルドを真っ直ぐに見上げて告げる。
「前世の、記憶があるんだ」