166 昔の話(第3部3章・完)
「十年前、つまり私たちが七歳くらいの時だよね。レオナルドはその話、聞いたことある?」
「ソフィアの家出騒動か。使用人の一斉解雇は初耳だが、ソフィアの軟禁については、そういえば親父が何か言っていたな」
何気ない様子のレオナルドの言葉に、フランチェスカの心臓がどきりと跳ねる。
(そうだよね。その頃はまだ、レオナルドのお父さんもお兄さんも生きていたんだ)
なんでもないことのように語る横顔には、きっとたくさんの感情を隠している。フランチェスカはそっと手を伸ばし、レオナルドの頭を撫でた。
レオナルドが大人の姿だったとしても、きっと同じことをしただろう。
それが伝わったのか、レオナルドはふっと嬉しそうに目を細め、フランチェスカの手を取る。フランチェスカの手を頬に押し当てる仕草は、何処か甘えるかのようだ。
「……君にこうして撫でられるのは、心地が良い」
「ふふ。ならよかった!」
それでもこうして触れた結果、フランチェスカの手がいつもより冷たいことに気付かれてしまったようだ。
レオナルドは、子供らしくぽかぽかした手でフランチェスカの手を包み込んでくれながら、言葉を続けた。
「ラニエーリ先代当主……ソフィアたちの父親が、あまり安定した様子ではなかったのも確かだ。当時、ソフィアが次期当主になることは想定されず、ダヴィードがそのまま父親の後を継ぐことになっていたはずだが……」
「お父さんが早くに亡くなって、小さかったダヴィードじゃなく、ソフィアさんが当主に選ばれたんだね」
レオナルドは十歳で五大ファミリーの当主になったが、そちらの方が異質なのだ。女性の当主は珍しいものの、法律上で不可能な訳ではない。
「……だけど逆を言えば、お父さんがダヴィードの幼いうちに亡くならない限り、ラニエーリ家はソフィアさんを当主にすることはなかった……」
「それなのに、ソフィアの扱いが妙なのは確かだ。十年前のソフィアは十九歳で、侯爵令嬢としては既に嫁いでいるはずの年齢だからな」
(この世界の貴族令嬢は、十八歳くらいまでにほとんど結婚させられる。この世界の文化として、不自然なのは確かだよね)
ソフィアは後継者になる予定もなく、かといって婚姻の話も持ち上がらずに、ずっと家に留められていたということになる。
「ダヴィードへの当主教育は、もっぱらソフィアが行っていた印象だ。あちこちの美術館に連れ回したり、接待の席に同席させたりな。俺も遠目から、あの姉弟をよく見掛けた」
「それならお父さんが亡くなる前から、ソフィアさんが家の中心だったんだね。それがソフィアさんが家を出るのを、軟禁してまで止めた理由……?」
「あるいは」
窓の外を見遣ったレオナルドが、ぽつりと呟く。
「ダヴィードではなく、ソフィアに後を継がせる道を考慮していたのかもしれないな」
「……」
魔灯夜祭の当夜が近付くにつれて、街には昼間でも仮装姿が目立つようになってきた。
レオナルドが考えていることを、フランチェスカは何となく想像する。
(レオナルドが話してくれた。小さな頃、お兄さんと比較して、レオナルドの方が優秀だって言う声があるのが嫌だったって……)
薬物事件の終わったあと、燃え盛る屋敷から抜け出して、レオナルドが療養していた期間のことだ。父と兄を失った前後のことを、フランチェスカにだけは話してくれた。
「最初に生まれた男児を後継者にする『伝統』は、この先の時代でどんどん薄れて行くだろう。生まれた順や男女は関係なく、適性のある人間に後を継がせたいと考える家も、きっと増えてくる」
「……ソフィアさんたちのお父さんも、ソフィアさんに後を継がせるつもりだった?」
「そうだとすれば、ソフィアを逃した使用人に激怒して、全員解雇させたという激情も理解しやすいな。とはいえ君の探していた『旧くからの使用人』は、いなくなってしまったようだが」
実際は、ラニエーリ家に勤めていた期間が重要なのではない。『父親の代からの使用人が洗脳されていた』というゲームシナリオに沿って、近しい条件の人を洗い出したかっただけなのだ。
「親父も兄貴も、ソフィアのことは時々話していたな」
(……レオナルドのお兄さんって、亡くなったとき十七歳だったって言ってたよね。レオナルドと七歳違いなら、お兄さんはソフィアさんの五歳年下……)
フランチェスカは頭の中で、そっと引き算を行なった。
(ソフィアさんが十九歳のとき、レオナルドのお兄さんは十四歳だ。『失恋』の相手がレオナルドのお兄さんだっていうのは、流石に考えすぎかあ)
「どうかしたか?」
「ううん、可能性が低そうな想像だったから気にしないで! その……そうだ、レオナルドって、いつから『親父』や『兄貴』って呼んでるの?」
「ん?」
咄嗟に話を変えてみたものの、これは案外気になっていたことでもある。
「ダヴィードもソフィアさんのこと、『姉貴』って呼んでたなあって思ったの。男の子って小さい頃の呼び方から、何かのきっかけで変えることが多いのかな?」
「ああ。ダヴィードのあれは俺の真似だよ」
「そうなの!?」
本当なのか冗談なのか分からない表情で、レオナルドが笑った。それを見て、フランチェスカは分析をする。
「むむ。レオナルドがこの笑い方をしているときは、本当のことに見せ掛けた嘘…………のふりをした本当のことだ! 当たりでしょ?」
「君が正解だと思うのなら。俺にとっては事実より、フランチェスカの方が正しい」
「正解が全然分からない回答……!」
結局あやふやにされてしまったが、ダヴィードに聞いても教えてもらえそうにない内容だ。フランチェスカが悔しがっていると、レオナルドが微笑ましそうにしつつ、最初の質問に答えてくれる。
「俺は、『親父』って呼んだのは兄貴の真似だったな。ガキの癖に早く追い付きたくて、大人ぶったところが始まりだ」
「うう。小さい頃のレオナルド、すっごく可愛いね……!」
「ははっ!」
レオナルドはおかしそうに笑ったあと、フランチェスカのことを見上げて蠱惑的に目をすがめる。
「いまは?」
「……!」
悪戯っぽい微笑みは、それでもやはり愛らしかった。
「いまも可愛いよ。でも……」
レオナルドはどうして、大人の姿に戻らないのだろうか。
「……ねえ、レオナルド」
「どうしたんだ? 俺の可愛い、フランチェスカ」
何を隠しているのか問い掛けて、無理やりに暴くことはしたくない。
だからフランチェスカは、レオナルドに尋ねる。
「……私とデート、してくれないかな……!?」
「――――ん?」
そう告げると、そつのないように見える笑顔を作ったレオナルドが、ぱちぱちと瞬きを重ねたのだった。
***
夜が更けた時刻、ラニエーリ家の当主ソフィアは、信頼できる構成員に向けて命令を下していた。
「ダヴィードを絶対に、逃すんじゃないよ」
指に預けたその煙草は、かつて恋していた相手と同じものだ。細い紫煙を燻らせながら、口紅を塗ったくちびるで笑う。
「あの子が拒もうと知ったことじゃない。逆らうつもりなら、姉として仕置きしてやらないとね」
そしてソフィアは目を細め、心の中で宣言する。
(エヴァルト。……あんたとセラフィーナさんの愛娘を、利用させてもらうとしようじゃないか)
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第3部4章へ続く