12 お世話係と出会いの日
いまはフランチェスカの傍にいて、態度が雑な弟のように接してくれるグラツィアーノだが、出会ってすぐに仲良くなれた訳ではない。
というよりも初対面のときは、ゲーム本編の『壁のある年下美青年』モードよりもはるかに心を閉ざされていた。
あれは、フランチェスカが七歳で、グラツィアーノが六歳のときだ。
『…………』
『この子供にあまり近寄らない方がよろしいかと。お嬢さま』
カルヴィーノ家の屋敷に連れられてきた日のグラツィアーノは、フランチェスカよりもずっと小さくて、全身傷だらけだった。
ほっぺにも大きなガーゼを貼られて、その表情は暗い。生気のない濁ったようなまなざしで、何も言わずに俯いている。
構成員は、この傷だらけの男の子から、フランチェスカを守るように立ちつつ言った。
『他家の縄張りで、強盗まがいの窃盗を繰り返していた子供です。手酷い仕置きを受けたらしく、カルヴィーノの縄張りに逃げて来たところ、当主が保護なさいまして』
『……』
『いまは多少大人しいですが、他家の構成員を数人倒しているようです。大切なお嬢さまに何かあってからでは遅いので……お、お嬢さま!!』
フランチェスカは、構成員の背中から出てくると、黙り込んでいるグラツィアーノに近付いた。
『こんにちは、グラツィアーノ。私はフランチェスカ、七歳だよ』
『……』
微笑みかけても、グラツィアーノはぴくりとも表情を動かさない。
彼とは初対面のフランチェスカだが、その事情は前世のゲームで知っていた。
(孤児の庶民だと思われているグラツィアーノだけど、本当はお父さんが侯爵だ。お母さんは街の娼婦で、グラツィアーノが四歳の時に亡くなってる)
ゲームでは、戦闘で入手キャラクターとの絆を深めていくにつれ、そのキャラの固有エピソードが開放されていく。
グラツィアーノのエピソードで明らかになるのは、彼の出自に関するものだ。
(グラツィアーノはそれからずっと、貧民街でひとりぼっちのまま生きていた。だけど六歳のとき、自分のお父さんを偶然見つけるんだよね)
亡くなった母が繰り返し話していた特徴と、父の名前。それを覚えていたグラツィアーノは、子供の足で一生懸命に、父の乗った馬車を追いかける。
この境遇から助けてほしいだとか、金銭や、食べ物が目当てだったわけではない。
ただ、母が死ぬ間際に言っていた、『あの人に出会えて幸せだった』という言葉を伝えたかっただけなのだ。それが言えたなら、また貧民街の端に戻り、泥まみれで生きていこうと思っていた。
けれどグラツィアーノの父は、かつての恋人の面影を残している子供の姿を見るなり、言い放った。
『我が屋敷の周辺に、こんな汚い子供がうろついているのは迷惑だ。――ラニエーリ家に遣いを出せ! 貴殿たちの縄張りで盗みを働いている孤児がいる、とな!』
『…………!』
そして幼いグラツィアーノは、他家の構成員に手酷く折檻をされて、必死の思いで逃げてきたのだ。
(……これは全部、大人になったグラツィアーノが、ゲームで絆を作り上げた主人公にだけ教えてくれること。初めて出会ったいまの私が知っているのは、ちょっとズルくてひどいかもしれないけど……)
目の前にいる小さな男の子の姿に、フランチェスカは胸が痛くなった。
手を伸ばすと、グラツィアーノが怯えたように体を竦める。叩かれることに慣れ過ぎて、反射でそうなってしまうのだろう。
フランチェスカは、ガーゼが貼られていない方の彼のほっぺに、手のひらでそっと触れてみた。
『……?』
困惑した表情のグラツィアーノが、フランチェスカの顔を見て目を丸くする。
それはそうだろう。フランチェスカは、彼の頬に手を添えながら、ぼたぼたと涙をこぼしてしまっていたのだ。
『な……』
『お、お嬢さま!?』
グラツィアーノと構成員が、ふたり揃って驚いている。こんな姿を見せるつもりはなかったのだが、どうしても止められそうになかった。
『痛かったよね。グラツィアーノ』
『…………?』
体に出来た傷だけではない。
彼の心を覆い尽くしたであろう、その深い悲しみを想像するだけで、フランチェスカまで悲しかった。
彼の姿や表情、物語るものすべてが、テキストで読んだ事実よりもさらに重たく圧し掛かる。この傷ついた子供は、ゲームの登場人物ではなく、目の前にいる現実の人間だ。
『これからはもう、怖くないよ。いっぱいご飯を食べて、あったかいお風呂に入って、誰にも怒られないところで眠ろう』
『……っ』
フランチェスカは、何度も自分の目を擦り、泣きじゃくりながら必死に告げた。
『こ……ここにいる人は、みんながあなたを守るからね』
『……ふ……』
『私もだよ! ……絶対に、あなたのことを守るから……』
『っ、うえ……』
グラツィアーノが泣くのを見たのは、後にも先にもそのときだけだ。
それ以来、グラツィアーノは少しずつ心を開いてくれるようになった。
フランチェスカに縋り付いて泣くような可愛らしさがあったのは、最初のほんの数か月だけだ。
彼はすくすく大きくなって、いまではフランチェスカの身長もさっさと追い越し、カルヴィーノ家の若手でもっとも期待されている。
貴族の血を引いているため、スキルの保有数も三個であり、レア度は最上級ランクの5だ。前世では、レオナルドに並んで人気キャラクターなのだった。
「それでね。レオナルドと同じクラスになっちゃって……」
「――……」
馬車の中、グラツィアーノとふたりでぴたりと口を噤む。カーテンの端を指でつまんだグラツィアーノは、怠そうに窓の外を覗き込んだ。
「あー……。ふたりくらい居るみたいっすね、銃もありそう」
ふたりが察知したその気配は、この馬車を狙う何者かのものだった。
「うーん……。家のことが学院に知られないよう、家紋の赤薔薇が描かれてない馬車で迎えに来てもらったんだけどなあ……」
「家から尾行されてんのかも。俺が行くんで、お嬢はここにいて、間抜けな御者についてどう報告するか考えといてください」
制服の上着を脱いだグラツィアーノに、フランチェスカは慌てて声を掛ける。
「私も戦うよ。狙われてるのは私だろうし」
「女子の制服、上着を脱いでもスカートで学院生徒だってバレるでしょ。変な噂で友達作り失敗したくなかったら、ここは引っ込んでてください」
「う……」
申し訳ないとは思いつつも、その気遣いは有り難い。
「ごめんね。グラツィアーノ」
「別にいいですよ。一昨日はお嬢に『病院への紹介状を作りに行け』って言われたお陰で、俺は暴れられなかったし」
グラツィアーノは、脱いだ上着をフランチェスカに放り渡すと、馬車の扉を開けた。
そして、透き通って長い睫毛に縁取られたその双眸で、じっとフランチェスカを見詰めて言う。
「――たまには黙って、俺に守られといて下さい」
「!」
そして馬車を降りると、それを狙ったかのように、往来の陰にいた男たちふたりが懐に手を突っ込んだ。
銃を取り出すつもりなのだろう。けれどグラツィアーノは、わずか二歩ほどで間合いを詰めると、撃たれるよりも早く男たちの懐に飛び込んだ。
「え……!?」
「――……」
そして、彼らを拳で殴り飛ばす。
銃を持っていたはずの男たちは、素手のグラツィアーノに一瞬で負け、気を失ったのだった。
それはいっそ、舞台上の演目であるかのような鮮やかさだ。
(強くなったなあ、グラツィアーノ……)
窓越しにその大暴れを見守りながら、フランチェスカは成長にしみじみする。




