118 守ると決めたもの
【第2部・最終章】
大規模な夜会が行われるその日、湖畔に建てられた屋敷の周辺は、準備のための慌ただしい空気に包まれていた。
その中でも最も神経を尖らせているのは、この会の主催となるサヴィーニ侯爵家の当主だ。
少し離れた木々の中に立つグラツィアーノは、深呼吸をしてその男を見据える。
(……俺の、父さん)
続いてグラツィアーノは、傍らにいる銀髪の上級生を振り返った。
「リカルド先輩。もう行きます」
「本当に良いのか? グラツィアーノ」
この強面の風紀委員長は、いつも学院でグラツィアーノを追い回し、授業に参加しなかった分を補うための追試や掃除に引き摺っていく。
とはいえ面倒見がいい先輩であることも、グラツィアーノはちゃんと理解していた。
責任感ゆえなのかもしれないが、現に今もグラツィアーノのことを見て、やたら心配そうに顰めっ面をしているのだ。
だから、グラツィアーノは涼しい顔で答えてやる。
「良いもなにも、こういうのが必要でしょ。言っときますけど俺、汚れ仕事も普通に経験ありますよ」
「そういう話ではないだろう、これは。曲がりなりにもサヴィーニ侯爵はお前の……」
「……リカルド先輩」
なんとなく予感がして、グラツィアーノは眉を顰めた。
「もしかして俺と『侯爵閣下』のことで、なんか隠してることあります?」
「な……ななな、あるわけないだろう!」
「あるんすね。了解です」
「無いと言っている!」
本当はリカルドに聞くまでもなく、フランチェスカの態度で察していた。
(多分、お嬢が俺に気を使うような内容……あの男が俺の暴言を吐いたか? いや、それだけだと弱いな。俺が邪魔だから帰らせろとか、それこそ暗殺してくれって依頼を、リカルド先輩とかに持ち掛けたのかもしれねーけど)
そんなことは今更どうでもいい。
そう思いながらも、グラツィアーノは息を吐く。
「じゃあすんません、行ってくるんで。リカルド先輩はそこで見ててもらって、作戦開始したらフォローよろしくっす」
「おい、グラツィアーノ……!」
ズボンのポケットに手を入れて、グラツィアーノは歩き始めた。
瓜二つの顔がお気に召さないようなので、父が他の人間から離れた機会を狙ってやる。気遣いというわけではなく、こちらも人目に付きたくないのだ。
庭を歩く父の姿を見遣り、もう一度深呼吸したあとで、柱の影から声を掛ける。
「侯爵閣下」
「……!」
父はすぐさま足を止めると、目を見開いて声を張り上げた。
「っ、何をしている!!」
(……おっと)
いきなりの大声は想定外で、グラツィアーノは少し驚く。この光景を誰にも見られたくないのは、騒いでいる父のはずなのだ。
父はグラツィアーノを睨み付け、怒鳴りながらこちらに近付いて来る。
「やはり爵位が目当てで来たのか!? 私の傍に近寄るな、この浅ましい人間が!!」
(あー。……この人、昔から変わってねえんだな)
初めて父を見付けたときも、こうして強く怒鳴られた。そんなことを思い出し、思わず自嘲的な笑みが浮かぶ。
「やはりこうした人間は、徹底的に排除せねばならないようだな! すぐに立ち去れ、でなければラニエーリ家の構成員を呼ぶぞ!!」
「…………」
その声に、やはりどうしても昔のことが浮かんでくる。
『瑠璃色のブローチ、綺麗でしょう? これはお父さんとのお揃い。……お母さんは、お父さんのことが、とっても大好きだったのよ』
母はいつでもそう言って、嬉しそうに笑っていた。
『お母さんは、お父さんに出会えて幸せだった』
死の目前ですらそうだった。
そしてグラツィアーノがあのとき、母の後を追うように死なずに済んだのは、母が大切なブローチを売ってくれたからだ。
それとまったく同じ作りをしており、サヴィーニ家の家紋が入った瑠璃色のブローチは、目の前の父の胸元に輝いている。
『大丈夫だよ。グラツィアーノ』
続いてグラツィアーノが思い出すのは、フランチェスカの笑った顔だ。
『絶対に、私が守るからね!』
「……サヴィーニ閣下」
グラツィアーノは顔を上げ、父を見据える。
「閣下におかれましてはご心配なく。どのようなことがあろうとも、俺はサヴィーニ家に私欲で近付くことはありません」
「お前の意志の問題ではないと、そんなことも分からないのか!? 他人がお前の姿を見れば、どのような推測をするか想像が付くだろう!!」
「あんたはあちこちから恨みを買い、殺し屋に命を狙われている。その状況で開かれるこの夜会がどれほど危険か、そっちこそ『想像が付く』でしょう」
そう告げると、父はますます強くグラツィアーノを睨み付けた。
「……黙れ」
「いくらでかい儲け話のためとはいえ、接待なんてしばらく止めときゃいいのに。あーだけどそれじゃキリがねーのか……この家、先祖から何代にも渡って腹黒いことばっかりやってるみたいですもんね」
「黙れ!!」
「だけど守らせてもらいます。死にたくなかったら、あんたこそ少し黙っててもらえますか?」
グラツィアーノが一歩歩み出るも、父は鼻で笑ってみせる。
「守るだと? ふん、馬鹿なことを! やはり私の息子であることを主張して、家族だから守るとでも言うつもりか!?」
「そんなんじゃありませんよ」
「違うというならば、何故私を……っ」
あくまで淡々と冷静に、父の言葉を否定した。
「――それが、お嬢の意思だからだ」
「!」
父がその目を大きく見開く。
けれども最早グラツィアーノにとって、大切なのはそれだけだった。
「あんたを死なせない。そのために守る。お嬢が望んで、俺に命じた」
「……あの、お嬢さんが……?」
「だから」
グラツィアーノは拳を握ると、それを父のみぞおちに叩き込む。
「ぐ……っ!?」
「すみません。侯爵閣下」
気を失った父が、どさりと地面に倒れ込んだ。グラツィアーノは手を伸ばすと、父が着ている上着の胸倉を掴む。
「俺としても、今日は手段を選んでいられない」
父の胸元に輝く瑠璃色は、こうして見ると母が持っていたブローチとまったく同じだ。
「……」
その青が、泣きたくなるほどに懐かしい。
グラツィアーノは息を吐き、改めて地面に膝をつくと、こちらに走ってきたリカルドの手を借りるのだった。