113 大切な女の子
ティーカップに口をつけたソフィアは、そこからも淡々とこう続けた。
「男はそこからぱったりと、娼婦に会いに来ることはなくなった。由緒ある家の跡を継ごうってときに、娼婦の愛人と子供がいるなんて醜聞だからね」
「……」
「生まれる子供が男であれば、後継者問題にも発展する。自分の子供じゃないとシラを切るつもりだったのかもしれないが――それが出来るのは、生まれた子供が自分に瓜二つでは無かったときだけだね」
やはりソフィアが話すのは、グラツィアーノの父と母のことなのだ。
「娼婦の方は、そのあと何処に……?」
「この家を出ていったよ。産むのを止めるはずもないし、子供をみんなで育てることもやぶさかではなかったのに」
ソフィアが話してくれる口ぶりには、はっきりとした悲しみが込められている。
「彼女はきっと、生まれた子供がかつての恋人に殺されてしまうのを恐れたんだろう。だからこそラニエーリ家の高級娼婦という立場を捨てて、子供の父親である男から逃げた」
(……? でも、そうだとしたら……)
「だからね、お嬢さん」
ソフィアはカップをソーサーに戻すと、赤く塗られたくちびるで微笑む。
「この話を、悪い男に騙されては駄目だという教訓にしておくれ。うちの弟にあんたの報告を聞いたときは、大層心配したんだよ?」
「弟さん?」
ソフィアの弟であるダヴィードは、フランチェスカたちと同じ二年生だ。
別のクラスに所属し、フランチェスカが徹底的に避けてはいるものの、遠目では何度か見たことがあった。
ラニエーリ家はソフィアが現当主ではあるものの、彼女はそのうち引退し、弟に跡目を譲るつもりであることがゲームで語られている。
(ダヴィードが一体どうして、一度も会ったことのない私の話をソフィアさんにしたんだろ? それに、ソフィアさんが私を心配って……)
フランチェスカが疑問符を浮かべていると、ソフィアは肘掛けに頬杖をついて言った。
「うちの弟いわく。『アルディーニにやたら気に入られてる転入生がいる。名前はトロヴァート』ってね」
「トロヴァート……」
それは、フランチェスカが学院で使っている苗字のことだ。
まったくの偽名ではなく、母の旧姓を借りている。そこまで聞き、フランチェスカははっとした。
「ひょっとして、うちの母をご存知なんですか!?」
「ふふ。セラフィーナさんは私のことを、とっても可愛がってくれたものさ」
「わああ……!」
こんなところで母の話を聞くなんて、まったく想像もしていなかった。
「アルディーニと関係があって、苗字がトロヴァート。これは弟の学院に転入してきたのは、カルヴィーノ家の愛娘じゃないかと踏んでいてね」
「じ、実は……。学院に通っているあいだは、カルヴィーノの人間であることを秘密にしたくて」
「それで正解さ、ろくでもない苦労を負うだけだからね。……さすがはセラフィーナさんとエヴァルトの娘、賢い子だ」
「……!」
そんな風に言われて頬が火照る。
両親が大好きなフランチェスカにとって、ふたりを通した褒められ方をするのは、とても照れ臭くて嬉しいことだった。
「セラフィーナさんは、お嬢さんが元気に産まれて幸せに育っていくことを心から願っていたよ。お腹の中のあんたにたくさん話し掛けて、やさしく撫でてね」
「……ママが……」
ソフィアは身を前に乗り出すと、手を伸ばしてフランチェスカの頭に触れる。
「あんたは生まれる前からずっと、誰かにとっての大切な女の子であり続けてる。自分を大事にしなきゃ駄目だよ?」
「……はい。ありがとうございます、ソフィアさん……」
「いい子だ」
満足そうに笑ったソフィアが格好良くて、フランチェスカは目を輝かせた。
「あんたの婚約者は良い男だが、悪い男でもあるからね。困ったことがあったらいつでも頼りな」
(ソフィアさん、やっぱり憧れるなあ。当主といえど心なしか、他のファミリーの人たちよりは危なくないというか……)
「たとえ抗争沙汰になろうと、婚約破棄の手伝いくらいはしてあげるから」
「いえ!! それは大丈夫です!!」
気軽に抗争を持ち出され、フランチェスカは背筋を正す。
(やっぱりソフィアさんも五大ファミリーの当主だ! ぜんぜんまったく例外じゃなかった……!!)
内心でそんなことを思いながらも、ソフィアの静かな視線に気が付いた。
「ソフィアさん? どうかしましたか?」
「……いいや、なんでもないよ。それよりお茶のおかわりはどうだい? ご両親の話をもっとしてあげる」
「わあ、ありがとうございます! あの、出来ればさっきお話ししてくださった、身分違いの侯爵さまと娼婦さんのお話も――……」
***
それから一時間ほどが経ったころのことだ。
ソフィアのいる別荘を後にしたフランチェスカは、ひとりの青年と森の中を歩いていた。
「ふーっ! それにしても、暑いねえ……」
蝉時雨が降る中、木陰に陽光が遮られていても抗えない。夏の暑気に満ちた大自然の中、フランチェスカは隣を見上げる。
「調査も手伝ってもらってるのに、送り迎えまでしてくれてありがとう。リカルド」
リカルドはこの暑さの中、顔色ひとつ変えずに言った。
「構わない。どうせ調査の帰り道な上、昨日の今日だからな。グラツィアーノが狙われている可能性がある以上、あいつがお前の護衛をする訳にもいかないだろう」
「ごめんね……。グラツィアーノ、その件すごく気にしちゃってるみたいで……」
『傍には居ない方が』という極端な思考は消えたようだが、『少なくともこの森では、護衛役は俺じゃない方が』と言われてしまった。
しょげた子犬のような雰囲気だったので、その点について無理に励ますことはやめ、リカルドに護衛を頼んだのだ。
一方で、レオナルドは朝から不在である。『独自調査に行ってくる』と伝言を受け取ったが、相変わらず行動は読めないままだ。
(レオナルドの調査はやっぱり、暗殺じゃなくて黒幕についての方なのかな。昨日の襲撃について、レオナルドとまだ十分に話せてないのに)
フランチェスカが俯いたのを見て、リカルドは気遣うように話題を切り替える。
「そういえばお前を待っている間、昨日襲われたという辺りを見に行ったぞ。あんなに高いところから落ちて、よく無事だったな」
「あ、あはは。場所はすぐ分かった? 馬車の轍が目印になるみたいだけど、昨日の雨だと消えちゃってるよね」
さぞかし地面もぬかるんでいたはずなので、リカルドの足元を見下ろした。
几帳面なリカルドの革靴は、いつだってつやつやに磨かれている。
「……リカルド、いま靴のお手入れ道具とか持ってたりする? ソフィアさんのところのイザベラさん、私の襲撃に巻き込まれて、ドレスも靴も大変なことになっちゃったみたいなの」
「道具? いや、さすがに持ち歩いてはいないな。別荘には当家の使用人も待機させている、その者を手配するか?」
「ううん。……やっぱりもういち、ど……」
フランチェスカが足を止めたのは、向こうから見知った男性が歩いて来たからだ。
(グラツィアーノの、お父さん)
夏空のような瑠璃色をしたブローチが、その上着に輝いている。
暗殺対象であるサヴィーニ侯爵も、フランチェスカたちに気が付いて足を止めた。