103 主人公の力
【4章】
「……つまりは、こういうことなんだね」
ラニエーリ家の女当主であるソフィアは、その報せを受け取ったとき、煙草の煙を深く深く吐き出した。
「当家の御者がふん縛られて、馬車が乗っ取られ。乗っていたはずのカルヴィーノのお嬢さんは勇敢に戦うも、うちの娼婦を庇おうとして身を挺した」
「は、はい。当主」
その報告に上がったふたりの部下が、緊張に背筋を正している。ソフィアは脚を組み替えると、ソファーの背凭れに身を預けた。
「――そしてお嬢さんは、崖から落ちて行方不明?」
「は……」
部下のひとりが頷き、彼が知っている情報をすべてソフィアに説明した。
「現在、アルディーニ、カルヴィーノ、セラノーヴァ三家の構成員が総出で探しているようです。転落後に拉致されている可能性を踏まえ、アルディーニの当主より、森の中を広範囲で探す許可が欲しいと……」
「当然だろう、どこに立ち入っても構わないと伝えてやりな」
「当主にそう仰っていただき安心しました。その……」
ソフィアが首を傾げると、部下はどこか青褪めた様子で口を開く。
「アルディーニの当主が、無表情なのに尋常ではない雰囲気で……。断ればどのような抗争も厭わないという、そんな態度だったものですから」
「……アルディーニか」
転落したカルヴィーノ家のご令嬢は、アルディーニの婚約者だ。
先日ふたりで過ごしている様子からも、アルディーニが彼女を大切にしていることは明白だった。
「客人たちにも、捜索が入ることの事情を話しておきな。後日最高の埋め合わせをすると約束すれば、多少は納得するだろう」
今日この森を訪れている客たちは付き合いが長く、サヴィーニ家の侯爵を除けば話が分かる。ソフィアはその算段を付けながらも、部下に続けて指示を出した。
「この森に侵入した輩も、侵入させた人間も許すつもりはないけどね。追い詰めるのはお嬢さんの安全を確保してからだ。うちの構成員も捜索に参加させるよ」
「そう仰ると思い、すでに手配してあります」
「上出来。それから娼婦たちに言って、風呂と着替えを用意させてくれるかい?」
ソフィアが見遣った窓の外は、昼間だというのに薄暗い。
先ほどから降り始めた雨は、あっという間に大粒の土砂降りとなっていた。崖から落ち、奇跡的に軽傷だったとしても、この雨に打たれては衰弱してしまう。
「うちの近くで見つかったら、すぐにでもお嬢さんを温められるように。いくら八月だからって、体温が奪われたら危ない」
「承知しました。それでは」
部下たちが足早に退室する。ひとり部屋に残ったソフィアは、再び煙草を咥えた。
「……まだまだ、この後も荒れそうだね」
窓を叩く雨の向こう側では、灰色の雲が無数の雷光を纏っている。
***
「っ、はあ……」
大粒の雨が降り頻る中、フランチェスカは肩で息をしていた。
切り立った崖の下で、僅かに張り出した岩の下に入り、少しでも雨を凌ぐ。雨の飛沫で霧のようにけむる森の中には、フランチェスカ以外の気配は無い。
(お姉さんは無事だったかな。みんな心配してるよね、ごめんなさい……)
申し訳なく思いながらも、他に怪我人が居ないことを祈るばかりだ。
(それにしても)
フランチェスカは自らの体を見下ろして、独り言を呟いた。
「……主人公の力って、本当にすごいなあ……」
フランチェスカが落ちたのは、それなりに高さのある崖だったのだ。
落ちながら受け身は取ったものの、さすがに大怪我を覚悟した。『シナリオの大枠通り』の出来事として、フランチェスカが大怪我をして王都に連れ戻される可能性も脳裏に過ぎったのである。
けれども結果として、途中の木に何度も引っ掛かったフランチェスカは、ほとんど無傷で崖の下の森に落ちたのだった。
(ちょっとした擦り傷くらいで、あとは本当にどこも痛くない。死んでもおかしくなかったのに)
いま直面している困難は、この雨と、上に登るのが少し大変そうだという点だ。
(もうちょっと雨が当たらない場所を探したい気もするけど、落ちた地点から離れるのは良くないよね。木の下だと雷が落ちてくるかもしれないし、ここが一番)
きょろきょろと辺りを見回したフランチェスカは、そこで気合を入れ直す。
(シナリオやスチルでも、このシーンでは雨が降ってた。だけど、そのあと夜までには止んでたはず! それまで体力を温存して、動けるようになったら帰ろう)
少し体が冷えてきた。真夏といえど、雨に当たり続けていては無理もないのだろう。
(……みんなに心配かけないうちに、なんでもない顔で帰れたら良かったのに)
そんなことを考えて、フランチェスカは俯く。
(私ひとりの状況を作り出しても、結局はお姉さんっていう『ふたりめ』が現れちゃった。片方を庇おうとして、もう片方が危ない目に遭うのも同じ……シナリオの出来事は、『解決』出来ても『回避』は出来ないのかな?)
娼婦の女性が撃たれそうになったことを、なんとか防ぎはした。
しかし、そもそもフランチェスカが目指すべきは、あそこで誰も撃たれそうにならないということだ。
(シナリオに背こうとしても、結局は似た悲劇が起きるなら。グラツィアーノのお父さんを殺させないために動いても、助けることが出来ないかもしれない。もしくは)
雷鳴の轟く音が聞こえる。フランチェスカは無意識に、ぎゅっと自分の体を抱きしめた。
(代わりに、誰か別の人が死んじゃう可能性だって……)
寒さに体が震えてくる。凛と立っていたいのに、奪われた体温がそうさせてくれない。
(変なことを考えちゃ駄目。この先に起こるたくさんのイベントも回避する、死んでしまう人たちは全員助ける。私がまっとうなシナリオから逃げることの責任を果たして、それで……)
そんな考えが無駄かもしれないなんて、思いたくなかった。けれどもフランチェスカはしゃがみこみ、小さな声で呟いてしまう。
「……こわいなあ」
雨の飛沫が強くなり、地響きのような雷鳴が大きくなった。
(私が主人公だから、シナリオが完遂されるまでは死なない)
この崖からの転落は、そのことをフランチェスカに確信させたのである。
それから、もうひとつの可能性もだ。
(……私が主人公だから、周りのみんなをゲームの出来事に巻き込んじゃう……?)
そんな考えが浮かび、胸が苦しくなる。
きつく目を閉じたフランチェスカは、しかし次の瞬間、再び聞こえた地響きの音に顔を上げた。
(この音、雷じゃない)
振り返って見上げたのは、フランチェスカの背後の崖だ。
張り出した岩は、フランチェスカを確かに雨から守ってくれている。けれどもこの音は、背後の崖から聞こえてくるのだ。
それに気が付いた瞬間、フランチェスカが見上げる岩が、ゆっくりとこちらに傾いたように見えた。
「うわ……」
崖が崩れる。
突発的に理解したが、今から逃げても間に合わない。フランチェスカは咄嗟に両手で口を押さえ、埋められたときに呼吸するための空間を確保しようとする。
そのときだった。
「……っ!!」
目の前に凄まじい光が走り、氷の壁が作られる。
岩ごと崩れて来た崖が、氷の壁によって堰き止められた。フランチェスカは目を見開いて、後ろの人物を振り返る。
「レオナルド!!」
そこに立っていたレオナルドが、フランチェスカを見て無表情に目を眇めた。
(助けに、来てくれた)
フランチェスカは急いで彼の方に駆け出す。
指先が冷たくて震えていても、雨に濡れることを構っていられない。
「レオナルド。ごめんね、ありが……」
無表情で一言も発さなかったレオナルドが、フランチェスカの体を強く抱き締めた。
その腕の力があまりに強く、フランチェスカは目を丸くする。レオナルドは、フランチェスカの首筋に額を押し当てると、独り言のように小さくこう呟く。
「……生きてる」
「!」
レオナルドの声が掠れていて、フランチェスカは心臓がずきりと痛んだ。




