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Y先生の宿題

作者: 僕

 Y先生はお体が悪い。自分で自分の体を自由に動かすことが難しい。

 だからY先生の前のテーブルは散らかっていた。

 小説や手紙、原稿用紙などが散乱して、どこに何があるのか自分でも把握のしようがないように見えた。また実際にそうだった。Y先生がそれを見つけるとき、テーブルの上をひっかきまわしてそれでも見つからなくて、僕に助けを求めた。体が自由に動かないからテーブルの上をひっかきまわすのにも大分体力を消耗したからだ。僕は機転を働かせて目ぼしい本を片っ端から差し出してみたが、探し物は見つからなかった。

 ようやく見つけることができたのはY先生の奥さんだった。テーブルとは全く関係のない、テレビの下に積み上げられた数冊の本の中からそれを探し当てた。

 今から2年以上前の月刊誌だった。

 僕はそれに対して興味もなかったので2年以上前のものであることに疑問を抱かず、気づかず、むしろ最新のものなんだろうなと思って眺めていた。とりあえず見つかってよかったと思った。まさかそれを読んでみるように勧められるとは思ってもいなかった。

 確かに僕は本が好きだったが、Y先生の前でそんなことを言ったことは…ないこともなかったが少なくともアピールしたことはなかった。どこがどうなってそういう話になったのかは分からないが何故かいつのまにか読んでみる話の流れになっていた。

 そんな約束したっけなと、思いつつ、でもそうすることが当然のようにも思えた。

 流れというものは往々にして決定づけられている。それに逆らうには大変な労力がいる。だが流れに乗ればことはたやすく進む。逆説的に言えば、何か流れがあればそれに乗ってしまえば良い方に導いてもくれる。勿論悪い方に導くこともあるが、それも最初からなんとなく分かる。自分にその力があるかどうかだけで、行き着く先は決まっているからだ。

 今回の場合、本を読んでY先生の気に入る感想を言えばいいだけだ。僕は久しぶりに本が読めて、Y先生も満足する。問題は僕にY先生を満足させるだけの感想が言えるのかというだけで結果は良い方に行くのが約束されていた。

 僕は本が好きだったが、最近は本を読む情熱が薄れていた。読みたい本をあらかた読み終えてしまったからと言えば聞こえばいいが本を読みたいという情熱を失っていたというのが本当のところだった。Y先生の提案で本を読まざるを得なくなれば、僕は本を読めるのだから悪い話ではないと思えた。

 月刊誌にはある作者の名前のところにマジックで丸が書かれていて、唯一の日本語の■■■と書かれていた。■の部分はマジックがにじんで読み取れなかった。でもY先生がこの作者の事を高く評価しているのは伝わって来た。実際Y先生が感想を望んでいるのはその作者の小説についてだった。

 その作者は外国人だった。外国人でありつつ日本語で小説を書くのにこだわっているようだった。

 それはY先生が好きそうだと思った。Y先生がと言うかY先生の世代の人間がだ。外国人が日本の文学を認め挑戦しているとなれば、中身はどうあれ高い評価を下すだろう。外国人が日本人に半ば見捨てられているようにも見える日本文学に傾倒しているなら、それだけで嬉しい気持ちになり評価も甘くなるからだ。

 でもそれを言ったらY先生は傷つくだろうなと思ったので指摘はせずに本を読み進めた。

 大方の予想道り、外国人の作者は悩んでいた。日本人になろうとしたが日本人になれなかったと語っていた。本当かどうかは知らないが。日本語に対するよいしょの精神を忘れてはいなかった。これは先生方の心をくすぐらずにはいられないだろう。評価が高くなるのも頷ける。僕の中の意地悪な心がそう読み解いたが、それだけでは先生を傷つけるだけなので良い点も同時に探し始める。

 僕は最初外国人が日本文学に傾倒することに対して侮りを通り越してスパイではないかとすら思っていたのだが、少なくともスパイではなさそうだった。彼には肥大化したプライドがあった。日本で小説家として認められたことに対するプライドが、自分に酔っている部分があった。そういう人間味のある所をさらけ出してくれるなら、ある程度本音をさらしているのだろうなと安心できた。例え彼が本音を隠していてもどうやら僕は見抜けるようだと思えた。

 日本に対してある程度見切りをつけた彼は中国に対して救いを求めているように思えた。勿論日本で評価されている彼はそんなこと思っているとはぼやかしてはいたが、結局はそういうことだろう。誰が言ったか、日本はお客さんとしてくるにはいいが、日本人に混じろうとするのは嫌がる傾向があるらしい。それもまた偏見ではないのか、みんなそうなのではないのか、思うところはあれど普遍的な心理であることは間違いない。日本に限らず集団心理にとっての。彼もその類にもれなかったということだろう。それで中国を選ぶというのも、昨今の中国を見ているとどうかとも思うのだが、まぁそれは彼自身も理解しているようだった。ちゃんと怪しんでくれるなら危ぶんでくれるならある程度信用して読み進めることができる。

 話の途中から彼が悩んでいた正体は母親の死であることが明かされる。日本を愛して母国を半分捨てた彼は母親を看取ることができなかった。その気持ちの整理の旅に中国が選ばれたというわけのようだった。深読みするなら、それは母親の死ではなく、自分を育ててくれた概念的なものの死と見ることもできるだろう。何せその本は文学誌であり、文学とはそういう風に深読みしなくてはならないものだ。だから彼の友人として中国共産党の人間が出てくるのももしかしたら、共産主義的なイデオロギーに自分に魂の安息を求めていることが示唆されているのかもしれない。

 共産主義と言うとアレルギーを起こす人もいるようだが、僕は現代の世界で起きる有り難くもない同一化ブームに対する対抗手段として武器になりえるという程度には評価している部分があった。そういう風なもの飲み方をすればその帰結はありなのかもしれないと思えた。

 LGPTとかポリコレとかそういった類のものだ。批判を許さず飲み込もうとしているが、男女で子供を造る機能が異なっている以上は、役割を分けたほうが効率的であると思える。少なくとも子供を機械的に生産が可能になるまではそうせざるを得ないだろう。その結果として少子化があり、子供が増えるのは差別的な地域に限られている。やろうと思えば子供を機械的に生産も可能であろうからそれも同時に認めるのなら可能かもしれないが、もっさりとした正しさに縛られている以上それは不可能だろう。まぁそれは話がそれた。彼はそんなことは思っていない。彼が思っているのはもっと文化的なものであろう。日本は日本の文化を捨てて画一化的な西洋の文化に飲み込まれようとしている。彼はそれに絶望していた。どうやら彼は本当に日本語について日本文学について文化について魅力を感じていたのは確かであったらしい。だから、それに対抗できるものに中国に希望を見出し、そして絶望もしていた。中国もまた自身の文化を捨てつつあるからだ。この作品の舞台が中国都市ではなくチベットであるのもまだ文化を維持する部分が辛うじて残るからであるからだろう。

 僕は感じたことの性格の悪い部分を隠してY先生に感想を述べた。結果は70点であった。本を読むということは作者のことを知りたいと思う行為である。そこを見抜いたことは褒められたが、彼が日本人になりたいというのは違うと最初から見抜いていたようだ。僕はY先生のことを侮っていたのかもしれなかった。本を読むということが作者を知りたいと思うことならY先生は彼をずっと見てきたのだから。

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