表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

遺書 〜「てへぺろ」では済まされない〜

作者: 山木 拓


 猫神右兵衛は、一代で財を成した男だった。繊維専門商社につとめ、三十代半ばで退職した後、服飾業界へ参入し自身の店舗を開いた。様々な場面で活躍させられる汎用性の高いデザイン、現場業務の効率化、更には生産や流通過程のコストカット、その他様々な企業努力により事業を拡大。彼の個人資産は世界的にも上位に食い込むほどのものとなる。

 実業家として激動を生きる中、彼は3人の女性と関係を持ち、更にそのそれぞれとの間に子供を授かる。猫神右兵衛が短い期間で他2人と浮気した事にそれぞれは激怒し、この彼の女癖の悪さを脅しの材料として彼女たち各々大金をせしめた。

 残された子供はどうなったかというと、彼女たちが姿をくらました事もあって、猫神右兵衛の下で育てられる事となった。残された3人の子供の名をそれぞれ、一番年上の女の子は清美、二番目の男の子は清正、三番目の女の子は清子という。彼らは大変仲が悪く、また充分な金と不足した愛の合わさった環境で育てられた。母親の代わりとなったのは、3人の女性と出会う前から猫神家に使用人として仕えていた桃代という女性。しかし3人の子供が自立し始めた頃に桃代は亡くなった。その後は右兵衛が見つけてきた、清子より少し年下の橘凛子と名乗る若い女性が新たな使用人となった。

 そしてそれから十年ほどして、猫神右兵衛は亡くなった。


 直前、猫神右兵衛は一人の弁護士に遺書を渡していた。彼の名は新寺燈也、右兵衛とかねてから付き合いがあった…という訳ではなく、右兵衛がその寿命を悟ったため遺書を残し、右兵衛の屋敷から最も近い弁護士事務所にこの男がいただけである。

 右兵衛は生前、新寺にこう伝えていた。

「この遺書は、全員が日本に帰ってきてから読んで下さい」

 彼にはわかっていたのだ、右兵衛が亡くなったからといって3人の子供達がすぐには自分の亡骸に駆けつけてくれないであろう、と。彼の予想の通り、働き口が屋敷と最も近かった清正が亡くなったその日中に戻ったが、清子は旅行中で携帯電話をあまり見ておらず訃報を知ったのが三日過ぎた後、清美は海外での仕事の都合で一週間ほど経った本日屋敷に到着するらしかった。その間葬儀諸々の準備は全て橘凛子が行っていた。


 もう数時間もすると、清美はこの屋敷に来る。屋敷の大広間には、橘凛子、清正、清子、結婚している清子のその夫、かつての右兵衛の秘書、新寺。そして新寺の前にある中央のテーブルには、皆に見えるように遺書を置いてあった。その空間は、息を吸うのすら憚られるほど重苦しい空気が漂っており、全員が全員と目を合わせず会話も交わさなかった。

 唯一新寺が気を遣って放った、

「清美さん、もうそろそろですかね」

 の文言は誰も受け取らず、地面に落下していくかのようだった。

 それもその筈である、彼らの興味はいかに死者を弔うかではなく、遺書の内容と遺産分配にあったからだ。結局のところ右兵衛は、仕事と女にしか目がいかず子供には金だけを与え、親としてのその役目を果たしていなかったのだ。

 他の家庭のように、親の死を涙するものはいなかった。ただし橘凛子は葬儀等の準備を終えたのち人知れず泣いたのであろう、目元が腫れ上がっているようにも見えた。確かに彼女が仕えていた相手、ないし働き口を同時に失ったのだ、喪失感は計り知れないだろう。

 新寺が任されたのは、ただ遺書を読みあげるだけ。それなのにこの恐ろしい空気ときたら、金の恐ろしさをしみじみ教えられてしまう。耐えかねて先に遺書を一人で読み始めてしまおうかと考えたが、遺書に手を伸ばすと全員が鋭い目つきで彼の手元を静止させた。


 橘凛子は今いる全員にはお茶を出していたのだが、もう一度淹れてくれた。台所から大広間に戻ってくるそれとほぼ同時に、清美は帰ってきた。

「すみません、お待たせしてしまって」

 清美は男と一緒に来ていた。また服装や荷物を見る限り、仕事ではなく旅行から戻ったとしか思えなかった。

「じゃあ、全員揃ったんだし読み上げてよ」

 清正は刺々しく新寺に命じた。

「は、はい。わかりました」

 新寺は恐る恐る遺書を開き、読み上げた。

「まず始めに、この遺書を預かって頂いた新寺燈也先生、このような仕事を貴方に依頼してしまい申し訳ありません。…この遺書が読まれているという事は、私はすでにこの世を去っていることかと思われます。また、おそらく私の死後問題となるのは、遺産についてであろうかと思われます。そのため、これについてここには書き記させて頂きます。

 私の会社の株は、大きく分けて本社の株と子会社3つ、合計4つの種類に分けられます。子会社の株はほぼ同額であるため、これらを清美、清正、清子に分けてあげて下さい。そして残った本社の株のうち三分のニは代表取締役の後継者、三分の一は橘凛子に譲渡するものとします。また、これに加えて橘凛子には、この屋敷と土地も与えます。

 私の死亡によって余程の株価の変動が無ければ、おそらく受け取る時価の額は凛子が最高となるでしょう。君はこれを疑問に思うかもしれませんが、問題はありません。橘凛子はかつての使用人である桃代との間の子なのです。私はかつて3人の女性と関係を持ち、3人の子供を作ってしまった。しかしこの桃代との関係は本物であり、真の愛を彼女との間に築きました。更に凛子も授かる事ができたのですが、ただ桃代と私の近くで凛子を愛するとなると、きっと3人の子供はこの子を疎ましく思うでしょう。そうなると私は凛子と離れる他なりませんでした。ただし、桃代への愛は本物であり、そして凛子への想いは片時も損ないはしませんでした。そのため桃代が亡くなった後に我が家に使用人として側に置くようにしたのです。

 子供達にはこの事実は必ず伏せるようにお願いします。

 新寺くん、子供たちには『子会社の株を渡し、本社の株は会社の役員が引き継がせ、凛子には屋敷と土地だけを譲ると書いてあった』と伝えてください。また、私が死んだ時、おそらく子供達は旅行や仕事で日本にはいないでしょう。そのため3人が日本に帰ってきてから同時にこの件を伝え、詮索されないように誘導して下さい。きっと一人一人伝えてしまった場合『他の二人にはいくら相続したんだ』等と深入りされてしまうかと思われます。細心の注意を払って下さい。

 新寺くん、君には非常に面倒な仕事を押し付ける形となってしまって申し訳ない。そのお詫びと言っては何だけれども君のために別立てて報酬を用意しました。全ての手続きが終わったのち、かつての私の秘書に話を聞いてみて下さい。

 追伸:もしこの手紙を読む時は、3人の子供達には見せず、自室や事務所にて内容が漏れないように読んで下さい。また、新寺くんが読み終えたらこれを凛子に渡し、遺産の譲渡について説明をしてあげて下さい。 猫神右兵衛」


 新寺は思った。

 そういえば確かに「関係者全員の前で公開して読み上げろ」とまでは言ってなかったな、と。また、そういうのは先に書いてくれないと困るよ…。と。


 遺書を公開した大広間は、怒りと憎悪に震える3人によってどす黒い空気に塗り替えられたかのようだった。


 そして新寺は言った、「てへぺろ」と。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ