デート(?)その7
ドアを開けると、ふわっとコーヒー豆の香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
からんからん、と気味のいいドアベルの音が鳴る。
「いらっしゃい」
奥にいる白髪でエプロン姿のおじいさんが、
人のよさそうな笑みを浮かべている。
店内に他の人はおらず、ゆっくりと回る大きな換気扇の音と
年代物であろうスピーカーから流れる、懐かしい洋楽のみがそこにあった。
オレンジ色の照明が、優しい光で俺たちを照らす。
ここだけ、時間がゆったりと流れてるみたいだと思った。
「梨音ちゃん、今日は二人で来たのかい」
その風貌通りの深く優しい声で、カウンターにいたおじいさんは
梨音に話しかけた。
「樋口おじさん、久しぶり。
こっちは幼馴染の夏樹。おじさんは会うの初めてだったね」
いかにも仲が良さそうな二人に、少しほっこりする。
「梨音の幼馴染の夏樹です。よろしくお願いします」
「私は樋口。よろしくね、夏樹君」
樋口さんの声は、聞いていて安心する声だ。
人見知りの梨音が親しいのも、納得だな。
おまけに、店内の雰囲気も落ち着いていて居心地がいい。
「素敵なお店だな、梨音」
「当たり前でしょ、私も常連よ」
得意そうに胸を張る梨音と、俺たちを嬉しそうに見つめる樋口さん。
なんだか……癒されて仕方がない。
「よし、とりあえず座るか」
「そうね」
よく手入れされた、つやのある木目調のアンティークテーブルを
挟む形で両側に座る。
ちょうどいい硬さのソファーが、背中を支えてくれていい感じだ。
「アイスコーヒーにする?」
梨音は、少し考えてから首を縦に振る。
「そうね」
「じゃあ、俺もそうするわ。
アイスコーヒー、二つお願いします」
「わかった、ちょっと待っててね」
樋口さんがカウンターでお湯を沸かし、コーヒー豆を準備し始める。
コポコポという音を聞きながら、梨音が幸せそうに笑った。
「ねえ、本の話してもいい?
夏樹にプレゼントしたあの本よ」
いいよと答えると、梨音のテンションが上がったのが見て取れた。
「じゃあ話すわね。
あの本は恋愛小説で、主人公は社会人の男なの。
彼は高校時代に初めて恋をしたんだけど、告白してなかったの。
で、彼はそのことを後悔してた。
でも、その子と社会人になってから再会するのね。
でね、素敵な恋が始まるのよ」
好きなことについて話しているときの、楽しそうな梨音の顔。
比喩抜きで、この世で一番きれいで可愛いと思う。
だから、俺は梨音の話を聞くのが好きだ。
本自体も素敵な話だ。王道ともいえそうな話だな。
ゆったりとした時間の中で、梨音がさらに楽しそうに喋る。
「私が一番好きなのは、お互いがお互いの事を思いやってる所なの。
あからさまにいちゃいちゃする訳じゃないのに、すごい心の中で通じ合ってるのよ」
心の中で通じ合ってる、か。
ふと、まるで幼馴染みたいだなと思う。
相手の不器用な所も、いい所も、だいたい分かってるから。
……俺の、うぬぼれだろうか?
「はい、アイスコーヒー」
俺のその疑念は、樋口さんの声にかき消されて見えなくなった。
「ありがとう、おじさん」
梨音が慣れた手つきで、コーヒーにミルクとシロップを入れていく。
「苦いの、苦手なのか?」
「そうなのよ、舌は子供なの」
ぺろっと舌を出して笑って見せる梨音に、なぜかドキッとした。
「ミルクがコーヒーの中で広がっていくのって、花が咲いてるみたいで素敵よね」
そう言われて、俺も自分のコップを見る。
少しずつ沈んで溶けていくミルクの模様は、確かにきれいだった。
にしても……「花が咲く」とはすごい感性だな。
「詩的でいいな、そういう表現は」
「文芸部員だからね、仮だけど」
梨音はそう無邪気に笑うと、ふっと遠い目をした。
「文章って、本当に自由で好きなのよね」
何かに焦がれるようなその強い眼差しは、
俺の心まで揺さぶるようだった。
梨音は続ける。
「文章の中では、私は男の子かもしれないし、スーパーマンだし、社会人なのよ。
なんか、全部から解放される気がするの」
だから、私は文章が好き。
梨音はそういって、妙に大人っぽく微笑んだ。
「わかる気がするな、俺も」
「本当?」
「うん」
小さく頷いて、俺も何かに突き動かされるように喋りだす。
「なんか、文章読んでる時も書いてる時も、飛んでる気分なんだ」
俺のそのよくわからない話を、梨音は真剣に聞いていた。
その真摯さが、まぶしい。
「やっぱり、私たちは文芸部ね」
「そうだな」
俺たちは、文章の魅力に取りつかれてしまった。
こればかりは、どうしようもない。
俺たちは、二人で顔を見合わせて苦笑した。
ひとしきり笑った後、梨音はアイスコーヒーを一口飲んだ。
俺もつられて、アイスコーヒーを口に運ぶ。
「今日は、すごい楽しかったわ。
いろんなところに行って、全部楽しませてもらったわね」
「いやいや、こちらこそだぜ」
なんだか恥ずかしくて、手を顔の前で振る。
デートの練習にしては、やけにドキドキさせられることが多かったけど。
でも、すごい楽しかった一日だった。
なんか、梨音の知らない一面が見られた気がしたな。
「今日は、こちらこそありがとうな」
笑いかける俺に、梨音はなぜかもじもじしながら、うなずく。
「あの、あのね」
「どうした?」
梨音は顔を真っ赤にして、口をパクパクと動かす。
「はあ、ふう」
しばらくしてから、彼女は観念したように大きく息を吐いた。
そして、こちらにぎこちなく笑顔を作ってみせる。
「また、また一緒に出掛けましょ?」
俺はそれに、満面の笑みで答えた。
「もちろんだ!」