明王と敗戦のボク的解釈③ 敗戦の頃
※まずは、どーでもいいボクの裏話から。
ボクは教養があまり高くないので、根本的に勘違いしてました。
『神仏習合』という言葉があって、それが“神道と仏教をごちゃ混ぜにした宗教観”らしいとは、なんとなくイメージしてたんですが、それが“近世の、天皇の権威が強調されてた頃のもので、仏教の尊格を神道側に取り込んだもの”と、勝手に思い込んでいたんですね。
その視点で語るつもりだったんです。
しかし、事実は全くの逆のようです。
ずっとずっと昔の時代のことで、しかも、仏教側に神道を取り込む形のものだったようです。
ちょっと困ってしまってました。
でも、考えようによっては、②で『仏教は仏教として尊重された』と語りましたが、実際にはそれ以上に仏教は勢いを持っていた、と考えられるわけで、やはり、大昔のこの日本は仏教国と呼べるものだったんだ、という考え方は逆に強くなりました。
で……、敗戦を迎える頃の日本ですが────。
ボク的には、変わらずに『仏教国と呼ぶには根拠の弱い国だった』論で、話を進めたいと思います。
その根拠は『神国』の言葉です。
ネットで見てみると、「対外戦争毎に強調されてきた」、「敗戦まで国家神道を支えた」などとあります。
国家神道……。
江戸幕府が終わって敗戦までの日本は、『大日本帝国』という呼称を用いてました。
帝国……。
この“帝”って、日本においては天皇のことです。
そして、天皇の存在を成立させるのが神道。
その、帝国を名乗ってた時代、国内の仏教界がどのように扱われていたのかを、ボクは知りません。
ただ、この頃の日本は、神道国であることが前面に押し出されていたと言ってよいと思うわけです。
『神道国であり仏教国』と名乗るには弱すぎるような。
そんな国の『国土防衛』の祈りが、仏教の尊格に届かなかったとしても、それは尊格の力を否定するものでは無い、とボクは考えるのです。
以上。
以上です。
予定では、もー少し長くいろんな論をこねくり回して展開する予定だったんですが……。
予定がハズレました。
まだまだ、ボクは基礎教養が足りません。
勉強しないと……。