明王と敗戦のボク的解釈② 仏教伝来(請来)の謎
“奇妙な出来事”。
いえ、“奇妙な動き”“奇妙な流れ”の方が正確でしょうか?
ただ、とにかく、この仏教伝来(請来)は、“奇妙”だと評していいと思います。
だって、考えてください。
天皇という存在は、神道という信仰の価値観によって“のみ”成立します。
そして、幕府などの概念さえ無い、天皇が実質的に最高権力者であった時代に、他国の信仰である仏教は、精力的に日本に請来されているんです。
当時は海を越えて他国に渡ることは命がけの冒険でしたから、国家的事業でした。
そして、その国家の頂点には“神道という信仰により存在が成立する”天皇がいたんです。
仏教請来って、かなり奇妙な動きですよね?
その理由については2つの説を紹介します。
①『死者の怨念に対する対抗手段が神道には無かった』
これは、異説・珍説になるかと思うんですが、物語の書き手には非常に刺激になるかな?と思うのでご紹介します。
実際、この説はマンガの中で語られていた説です。
無念の死を迎えた霊が災いをもたらす怨霊になる──この考え方は、神道の時代も仏教が伝わってからもある考え方だと思います。
この怨霊に神道はどう対応するか?
神として祀り、怒りをなだめます。
わかりやすい例を挙げると天神さまは、失脚した菅原道真公です。
これに対して仏教には“お経をあげて無念を抱える霊を成仏させる”という手段があったから、という説なのです。
ただし、これは珍説の域を出ません。
だって、わかりやすい例に挙げた菅原道真公の話、仏教伝来よりも後の話ですから(笑)
②『外交相手(中国)に見下されないための外交戦略だった』
日本は外国(当時なら中国)の進んだ文化や技術を取り入れる必要があった。
ただし、見下されてはならない。
対等な国家として外交したうえででなければなりませんでした。。
その為に、「文化的に劣った野蛮な国」と見下されないために、当時、日本以外の国々で信仰されていた仏教も取り入れる必要があった。
これはテレビ番組からの知識です。
聖徳太子が建てた四天王寺(だったかな?)の奇妙な配置についての説明から。
大きなお寺にはいろいろな建造物が敷地内に建てられますが、四天王寺は、これらが一直線に並んで建てられているそうです。
これは、当時の日本の地形では四天王寺は海沿いに建てられていて、海外からの使者に、「我が国には他国に負けない立派な仏教文化がある」と見えやすくアピールする為だった、とか。
ちなみに、聖徳太子と言えば、日本人がお箸を使って食事をするのも、聖徳太子が人々に奨励したからという話があったはず。
それまでの日本人は手づかみで食事をする文化でしたが、「そんな姿を見られたら見下されるから」という理由だったから、とか。
『日出る国の天子、──』という国書を中国に送り、対等な関係を求めたのも聖徳太子ですし、この『外交戦略』論は、かなり現実味がありそうです。
ただし、こーゆー戦略的なことだけでなく、当時の人々が神道以外の心の拠り所を強く求めていたのも、確かだと思います。
中国までの旅は命がけでしたし、神道の象徴とも言える天皇や皇族にも、熱心に信仰する人々がいたようですから。
で、話を戻しますが──日本に仏教が伝えられた理由が①にしろ②にしろ、とにかく、仏教は、仏教として大切に尊重されて人々に広まり、たくさんの人々に信仰されることになった、『日本は神道国でありながらも仏教国でもあった』というのが、ボクの価値観という訳です。
では、大戦の頃の日本はどーだったのか?
その続きは、次回へ。
(実は、まだ調べてません。
大丈夫かな?
ちゃんと、つじつまの合う説明になるのかな?
ちょっと心配です 笑)