13 断崖絶壁、絶体絶命・3
「〈常識改変〉!」
魔法が発動した。
世界を、舌禍がぬりかえる。
断崖につどう群れのなかに、クソでかいリスの魔獣がいた。まるくて小さな耳。アーモンド型の瞳。全身を覆うやわらかな体毛。背後に隠しきれないふさふさのしっぽ。
だがそいつを魔獣たらしめているのは、決して大きさの問題じゃない。ちょこんとそろえた小さな手の――剣歯虎の牙ほどもある〈魔虎鉤爪〉だ。
虚無の瞳に、墜ちていく俺たちの姿が映りこむ。
そいつは一度、天をみあげ。
ふたたび俺たちに視線をやり、長大な鉤爪を地面につけて。
――恐るべきスピードで大地を穿つ。
掘りかえされた土が、あたかも間欠泉のように噴きあげる。時間にして三秒も経たぬうちに、今度は俺たちよりも下の崖面から土砂が噴きあがった。やつが横から穴を開けたのだ。
「リリリリリ……」
魔獣は鈴虫のような鳴き声をあげ、「つかまれ」と言わんばかりにふさふさのしっぽを俺たちにさしむける。だがいくら大人が乗れるほどデカいしっぽだろうが、先回りして待ち受けようが、――俺たちにはギリギリ届かない。
だが魔法が発動している気配はある。あのとき窮地を救ったすがるべき最後の藁にして唯一絶対の切り札。
ならば〈饜蝕の大驪竜〉をぶっ飛ばしたときのように、俺の身体能力は飛躍的に向上しているはず。距離とか重力とか、そんな常識を覆すに違いな――……
「――なっ!?」
魔獣の尾をつかむはずの手がスカった。
タイミングを逸したんじゃない、そもそも届いてすらいやしねえ……!
このままじゃ本当に墜ちて死ぬ。
「――――……うおおおおッ!」
「ソータっ!?」
だから投げた。全力でリリィを――リリィだけを投げ飛ばした。
運命に叛き、重力に逆らい。助けるために伸ばした手を、いま、助けるために離す。
「ソータっ、いや、そーたあぁぁっ!」
いや本当さ。最期にいい仕事をしてくれたよ俺の腕。魔法の恩恵なんざちっともなかったわりにはさ。
ああ、腕だけじゃなかった。足も、心臓も、なんかもう全身だな。今の今までマジよく保ったって思うよ。どうせこれで終わりなんだ、熱い自画自賛していくぜ。
血の味がすると思ってくちを触ったら鼻血だった。鼻血だけかと思ったら、ちゃんと血も吐いていた。限界を超えて筋肉を酷使したせいで、両腕の血管が破裂し、内出血にとどまらず表皮ごと裂けた。足の感覚は完全に死んだ。
自分の血が霧みたくなって、もうなんもよくわかんねえけど。リリィはちゃんとあの魔獣にしがみつけたようだから。なあ、俺の二回目の人生さ。短かったけど、そう悪いものでもなかっ――
「熾りて繚れよ、〈火属性〉」
不意に、凜、と。
清冽にして玲瓏たる美声がひびく。
それは遙か何十メートルもの昏き底から湧いては薫りたつ、玉響のかたちをした美酒。極限まで切りつめた氷の、ほんの上澄み。
彼女の足下に灼熱の炎がうまれ、爆発し、それが推進力となる。たった一挙で六メートル近く上昇した彼女は、右足を断崖の斜面につけて。
「盟約より鳴動せよ、〈地属性〉」
次のもうひと跳躍で、さらに十数メートル先にいた〝俺〟を抱きとめる。全身をおびただしく覆う傷口すべてにハートの記号を縫いつけた。
「傷より入りて療に至れ、〈水属性〉」
確かにあったはずの傷や痛みは、記号ごと消えていく。この世界で目覚めてすぐそうだったような、まっさらな肌が帰ってくる。
「な、なん、なんだこれ……っ!?」
「颯と散るさなかに哭いて泣ちれ、〈風属性〉」
それまでも、そこからも、こいつの独壇場だった。
地の底から突風がふきあがり花貌が隠れる。それでも見せつけるようにたなびいた銀の長髪が、もうそれだけでこいつの美しさを確約していた。
突風は、リリィを乗せて崖上をめざすリスの魔獣すら追いつき、まとめて俺たちを崖上まで押しあげる。もちろんそこに待っていたのは、〈饜蝕の大驪竜〉をふくめた数多の魔獣ご一行だったが――
「四の旋律によりて敵を戦慄せしめる」
まるで世界を絵画にかえ、絵筆で色をくわえるように、魔獣たちの全身にダイヤ、クラブ、ハート、スペードの記号が次々と浮かびあがる。
その数は何百、何千――もちろん大驪竜の顎下にかがやく宝珠も例外ではない。
「裂き繚れよ――〈百花繚乱〉!」
俺は見た。
未曾有のひかりがほとばしるのを。
あれだけ俺たちを苦しめた〈饜蝕の大驪竜〉が、何十もの〈魔獣の軍勢〉が、四の幟に灼かれ、滅びていくのを。
13話! ようやくアリアさんを登場させることができました!!! そして〈饜蝕の大驪竜〉戦、これにて終了です!