01 ピンクのモンスター
走る。駆ける。ひた走る。
オリンピック選手も置き去りにする速さで、露出男も真っ青の全裸で。
一心不乱に、迅速果敢に、ひたすら森のなかを逃げまわる。
「マジで、わけ、わかんねえぇぇッ!」
酸欠にあえぐ。石に躓き、舌を噛みそうになる。藪や木の枝をうちはらう両腕に、いくつもの切り傷を刻む。
それでも足はとまらない。
――否、とめられない。
その理由が背後にせまる。俺の踏み潰した草は、ほんのわずかな間をおいて、ふたたび獣の趾に踏みなじられた。
「ギ、ギアッ、ギャルルッ!」
意味不明な雄叫びをあげて追いかけてくるのは、今日までの人生で一度も見たことのない生き物。
丸い。総じて丸い。よくSNSでやたら肥え太った猫やハムスターの画像が流れてくるが、まさにああいう感じ。中型犬くらいの大きさで、寸胴で、短足。そのくせ速い。
四つ足のくせに毛はなかった。人間よりやや明るいピンクの地肌を、おしげもなく晒している。ならば豚かと思われた諸氏は賢君である。だがあいにく俺はペット用に品種改良されたミニブタを知っている。ゆえに断じる。あれは決してミニブタではない。スーパーでお馴染みの三元豚ってわけでもない。
あえて既知のなにがしかに例えるならば、昔、流行った『がおがおくんシリーズ』だろうか。
幼児むけに丸くデフォルメされた恐竜のマスコット。あれのステゴサウルスとトリケラトプスを足して割って、俺にはまったく理解できない概念『キモ可愛い』を練りこんだ感じだ。
辛辣? 『キモカワ』の市民権を侮るな? 女子高生にモテモテ? 経済効果は何十億円?
知るか。よく考えてくれ。チビ、ハゲ、デブ、ダサい。おなじ人間の男だったらこれ以上ない役満だぞ。絶望じゃねえか。
……などと、一度もやったことのない麻雀にたとえた時点で、俺の精神は限界だったのかもしれない。堤防が決壊するように、疑問符が怒濤となってなだれこむ。
マジでなにがどうなってんだ? こいつはなんだ? そもそもここはどこだよ? なんで俺は全裸ってんの? 体育なんて高校以来のスーパー不摂生アラサー野郎だぞ? どうして今もまだ逃げおおせているんだ?
「そうだ! これは夢! 夢に違いない!」
そうか、わかったぞ。いわゆる明晰夢ってやつだ。ここは夢のなかだと自覚しながらに見る夢。場合によっては自分の思い通りの展開にできるとかなんとか。だから俺は全裸で疾走し、現実には到底存在しないモンスターに追いかけられて……。
「どうせ夢なら!
せめて可愛い女の子に追いかけられたかったー!」
鬱蒼とした森に、絶叫が響く。
なだらかな野原に広がる、無限の蒼穹に。深い緑の繁枝をめぐらせた大樹に。苔むし、木々とはまた異なる緑の羅紗となって聳える大岩に。陽光と木々の影、そして蜻蛉と微風のさざなみが幾層にも綾なす、たまゆらの池畔に。
万年非モテ童貞アラサーの欲望がはねかえり、二重三重の谺となって舞いもどる。
どうせ夢なら。
せめて可愛い女の子に追いかけられたい。
「……そうか!」
イッツ・ア・コペルニクス的転回。
俺は足をとめ――あろうことか振り返る。大事なところを隠していた手を離し、暫定がおがおくんの亜種にむけて腕をひろげた。
「今、俺がとるべき唯一絶対の行為は――こうだ!」
きちんと考えてみれば、単純な話だ。
素足で走り続けたにも関わらず、そこまで足は痛くない。ついでにいえば藪を押しのけ続けた腕も、無惨な見た目のわりに痛みを感じない。
そもそも俺は「相田双太」という名の人生を始めて、今年で三十二年目に突入するはずだった。なのに身体は間違いなく中学か高校そこらに逆戻りしている。鏡がなくても体力の有無ですぐにわかる。
そこにピンクの怪物ときた。ここは間違いなく夢。朝には消える儚き泡沫。
つまり――ならばこいつは女の子!
俺の夢に男がでてくるわけがない。
外見が豚とも恐竜ともつかないモンスターだろうが、生物学的には間違いなく雌!
俺は今! みずからの信念を試されている!
モテたいという一心不乱にして!
老若問わず貴賤も不問、全女性をハーレムに迎えたいという空前絶後の!
雄としての信念を! 格を! 夢を!
ならば神よ。全力でその期待に応えよう。
外見に惑わされず、真実の愛を貫く勇気を我が手に!
「やっぱ世界を救うのは愛だよ、そうだろ?
てなわけで――さあッ! 俺の胸に飛び込んできなプリティ・ガール!」
突然、態度を一変させた俺に警戒したのか、はたまた愛が通じたのか。ピンクの生き物は数メートル手前で足をとめた。
てっきり俺のイケメン指数を計るのかと思いきや、狼狽するように周囲を見渡す。
これはあれか? 照れてるのか? ツンデレ属性?
「……来ないのか? 来ないなら俺から行くぞ?」
「ギャルッ!? ガガガガッ!」
一歩進めば、一歩さがられた。
やはりそうだ。逃げるから駄目なのであって、こちらから行くぶんには構わない。というか形勢逆転している。
……全裸でモンスターににじり寄っている現実に全力で目を背けながら、俺はにんまりと笑顔をつくった。
「まあまあ、そうつれないこと言うなよ。さっきまで楽しくランデヴーした仲じゃねーか。いやランデヴーって死語か? うんまあそれはさておき、」
転瞬、光がきらめいた。
新緑の隙間にともった光は、次の瞬間、俺の足に突き刺さる。
「……あ?」
矢だった。
細くするどい鏃が、右足に埋まっている。
痛い、と思うよりも早く、次の矢が左足を貫いた。
悲鳴をあげようとした。けれど気道を――あるいは心臓を圧迫するように、次撃が胸を打つ。
転んだ。引き攣れた空気が口腔で爆ぜる。熱い。痛い。
「……ディナ、もう大丈夫だよ。足どめ、ありがとう」
倒れこみ、草と土が九割になった視界に、ふっと影が落ちた。
静かで、それでいて沸騰するような情熱を秘めた少女の声が、どういうわけか爆発する鼓動のあいまにくっきりと浮かびあがる。
忘れていた。女なら一目で一生憶えているはずの俺としたことが、完膚なきまでに失念していた。
ディナとやらに追いかけられる発端になった原因。
この夢のなかで、初めて出会った少女の存在を。
「恨むならみんなを……お姉ちゃんを攫った自分の悪行を恨むのね、魔王!」
――あれ、俺死ぬ?
短期集中連載の予定です。よろしくお願いします!