契約で塗り潰す現実
誰が死んだって世界は変わらない。いつだって夜が来て星は輝く。月は冷え冷えと地上を照し、人々は笑い合う。
それは当たり前のことであるのだけれど、今はその当たり前が彼を酷く嫌な気持ちにさせた。
この国の第二王子ニコスは、世界が壊れてしまえばいいと思っている。
夜になると、ニコスは、明かりの消えた寝室で一人閉じこもる。
ニコスはもうずっと絶望の中で生きていた。彼女が死んでからニコスの世界は薄い膜に覆われて、フワフワとしている。
彼女は処刑されたのは、よく晴れた日のことだ。惨たらしく火に炙られ、黒焦げになって。そして、嗤った、そう聞いている。
許せなかった。処刑を決めたのは王であるけれど、進んで首を差し出したのは彼女だ。その所為で、ニコスは身のうちにやり場の無い憤りを抱えている。
彼女は何もかもを一人で決めてしまった。その事実が悲しかった。誰にも頼らなかったことが悔しかった。そして、泣いてしまいたいと思う自分に腹が立った。だけど、やっぱり涙を堪えられないほど悲しかった。そんな思考がずっと脳内で空回っていた。
その行為は、彼女がいなくなった今、意味などないと理解している。だけれど、やめることができないでいた。それをやめてしまうことは、彼女を許してしまうことであるような気がしたから。彼女との日々を忘れてしまうことであるような気がしたから。
彼女が進んで死に向かったことが受け入れられないでいる。そんなニコスだったから彼女は何も言わずに逝ってしまったのだ。誰に言われるまでもない事実だ。それがニコスのためであったことも重々承知している。だけれど、この選択が彼女の生き様を表しているようで許せなかった。誰にも向けることができない感情を、彼女に向けることしかできなくて、ニコスは彼女への怨嗟を募らせる。
思うに、彼女はいつも自分がいなくなった後のことを考えていたのだろう。だから、憂いなく死を選べた。彼女は生前から自分の死について朗らかに話していた。まるで天気の話をするような軽さで死について語るものだから、ニコスともう一人はいつも苦言を呈したものだ。聞き入れられたことはなかったけれど。
そういえば彼女はいつだったか、ニコスの告白に戯れのように言った。「私は今生はもう死ぬだけなのさ。だから、今じゃ到底ダメだね。……でも、もし来世でも私を見つけられたなら返事を考えてもいい」と。
ニコスは来世なんて信じていなかった。彼女が近いうちに死ぬことを許容できるはずもなかった。だけれど、その言葉に縋った。縋ることしかできなかった。今、彼女が恋う相手がニコスではいけないことだけは理解していたのだから。
これは彼女がニコスを王子だと知る前の言葉だったけれど、自分たちは今生では結ばれることはない運命だったのだ。そんなことで諦められるような恋慕ではなかったけれど。その所為で彼女の首を絞めた。彼女の死期を早めた。わかっていながら、きっと何度やり直しても彼女といることを選んでしまうだろう。そんな自分の弱さにうんざりする。
この感情がもっと純粋無垢な愛であればよかった。彼女の幸せだけを願える気持ちであればよかった。だけれど、自分の気持ちはそんなお綺麗なモノではない。彼女を不幸にしても一緒にいたいと思った。どこまでも共に堕ちていきたい、と。そんな願いを抱いていた。
あぁ、だけど。彼女が死んでしまうくらいなら。自分を連れていってくれないのなら。こんな醜い感情を彼女に抱いた自分こそが死ぬべきだった。いつもそう思う。
ニコスは、彼女のためなら喜んで命を差し出せるほど、狂おしい思慕を抱えていた。
この国で魔女は尊い存在だ。国に利をもたらす良き隣人。だけれど、それとニコスが彼女を愛することを許されるのは別の問題だった。もっとも、この狂った心を愛と呼んでいいのか迷うところではあるのだけれど。
もし、相手が平民だったなら、きっとここまで大事にはならなかっただろう。ニコスは第二王子であるから、兄が死なない限りはある程度の自由が許されている。だから、平民の娘と結婚したいなら、ニコス自身が王位継承権を返上して平民になるか、相手の娘をどこかの貴族の養子にするかすれば叶えることができた。それは、険しい道であることに違いはないが、不可能ではなかっただろう。
だけれど、魔女は駄目だ。これが先代、いわゆるニコスたちの祖父、の時代ならまた事情は変わったのだろうが、現王である父はそれを許さない。父の魔女嫌いは筋金入りだった。表面上は手を取り合っているのに、裏では虎視眈々と排除する理由を探している。
ニコスが彼女を望まなければ、そんな理由は見つからなかっただろう。
今代の魔女の長だった彼女は強かで、のらりくらりと全ての悪意を受け流す。そして、何を考えているかわからない魔女らしい笑みで、王と対等な立場を失わないよう上手く立ち回っていた。
だから、きっと自分と出会わなければ彼女は死ななかったはずだ。彼女はそれさえ運命だと笑うのだろうか。自分たちの出会いが必然であった、と。
彼女が死ぬくらいなら、全てを壊してしまえばよかった。彼女の望むことではないだろうが、彼女が死なずに済むのならニコスはなんだって出来た。手を汚すことも、自分が死ぬことも、国を壊すことも、抵抗なんてなかったのだ。
だけれど、彼女は死んだ。進んで死んだ。王が兵に探させる前に、彼女自らやってきて、拘束された。そしてうっそりと笑ったのだ。その態度がふざけていると父は怒りを深めていたけれど、それに関してはニコスも同感だ。あれはまごうことなき自殺だった。
それが、同胞を、そして、ニコスを、守るために彼女が選んだ道だ。そんなこと、わかっている。だからこそ、許すことなんてできない。
ニコスを殺して、みんなで逃げればよかったのだ。それを実行する能力はあったはずだし、彼女の手で死ねるのなら、これほど幸せなことはなかったのに。なのに何故。どうして、殺してくれなかったのだろう。どうして、逃げてくれなかったのだろう。
ーーー彼女のいない世界で死ぬことも許されず、生きなければいけないなんて
ニコスにとって何よりも重い罰だった。
♦︎ ♦︎ ♦︎
カタッ、と音がして、目を覚ました。知らないうちに寝てしまったようだ。バタバタとカーテンがはためく音を聞いて、懐に閉まっていたナイフに手を伸ばす。窓は鍵がかかっていたはずなのに。
目をこらすと窓枠に黒い何かがいた。あったと表現するべきかもしれないそれは、雲が月明かりを遮ったせいで上手く見えない。近づくのも躊躇われて、じっとそれを見つめる。
「これはこれは御機嫌よう第二王子殿」
彼女だ、と思った。自分が愛してやまない魔女イアンである、と。
まがりなりにも王子である自分を、こんな揶揄う調子で仰々しく呼ぶのは彼女くらいのものだった。しかし、彼女はもういない。部屋に軟禁されていて、この目で見たわけではない。けれど、確かに彼女は処刑されたのだ。この窓からでも勢いよく燃え上がる炎の柱が見えた。一年前の出来事だというのに、今でも鮮明に思い出せる。あの血のような赤を。
では、コレは一体なんだろう。
自分が間違えるはずがない。あれは、紛うことなき、彼女の声だ。人は声から忘れるというから、必死に彼女の声を頭の中で繰り返して一つの漏れも無いように、彼女のかけらを集めてきたのだ。だから、間違えるわけがない。間違えるなんて許されない。
月を覆っていた雲が途切れる。それは、黒い煤けた人形らしき何かだった。
ニコスは、フッと嘲るように笑った。あぁ、今すぐに死んでしまいたい。
ーーーこんなものを彼女だと思うなんて
いつの間にか噛み締めていた奥歯から嫌な音が聞こえた。そこで、ハッとする。もうずっと、薄い膜に覆われた世界で生きていたのに、彼女のことになると意識がハッキリするのだから、嗤ってしまう。そして、彼女に溺れ続ける自分がいることに安堵する。未だ彼女への想いは薄れていない。それだけが、今のニコスの支えだった。
ニコスは、彼女の真似事をする薄気味悪いこの人形を今すぐに壊してしまいたい衝動にかられていた。彼女を穢すモノはなんだって許せない。こんなモノが彼女であるわけがない。そんなこと認められない。
でも、と思う。どうしても、彼女であればいいのにという気持ちを捨てられなかった。もしそれが事実なら、彼女にもう一度会えるかもしれないのだから。あり得るはずがないことでも信じていたかった。夢だって構わない。彼女に会いたい。
「無視だなんてつれないじゃないか。そんなに変かい?この格好は」
この人形かわいいと思うのだけれど、そう不思議そうな声で言われてなんだか脱力してしまった。 そして、反射的に軽口を叩きそうになって唖然とした。
これが彼女であればいいとは思うものの、ちゃんと違うと理解している。だというのに、自分は今、これが彼女だと思った。思って動こうとした。なんてことだ。ニコスはショックであると同時に可笑しくて堪らなくなった。
これほどまでに彼女を求めて狂ってしまった自分が生きながらえることに意味があるのか、と何度となく繰り返した問いが頭をかすめる。意味があろうが、無かろうが、彼女に後を追うなと言い含められている自分は死を選ぶことが出来ないのだけれど。
とうとう我慢できなくなったニコスは嗤った。それはきっと醜悪に歪んでいただろう。彼女がいなくなってから、ニコスはまともな笑い方を忘れてしまった。
「お前は一体何だ」
「何、ときたか。これはこれは、よくわかっていらっしゃる。私は人ならざるモノ。お前が求めた悪魔の残滓さ」
人形は仰々しく、そしてせせら嗤うかのように言う。心底馬鹿にした物言いに、ニコスの顔から感情が抜け落ちた。
彼女の一部であっても、彼女を貶すことは許せなかった。生きている彼女がいつも自身を卑下する風景が蘇り腹の中の感情がどんどん濁っていく。
彼女が居た時は、苦笑いをして否定することで怒りを飲み込んでいた。彼女自身に価値があるのだ、と訥々と語ったところで、愉快そうに嗤うだけだと知っているからだ。だけれど、彼女が居なくなった今、ニコスは彼女に対する気持ちを抑えることが出来ない。だって、抑えたところで彼女は戻ってこない。
膨らみすぎた彼女への感情は、少し突かれただけで容易く破裂する。
「………してだ」
「うん?」
「どうしてだ!お前が彼女の一部であるというのなら!どうして、自分を傷つける言葉を選ぶ。……どうして、一番に自分を大事にしてくれないんだ!なぁ!答えてくれよっ!」
ニコスがこんな風に声を荒げ、大声を出すなんて、生きてきて初めてのことだ。
ニコスは彼女のこと以外で心を動かされたことがない。真っ当な人間の振りをすることを教え込まれたただの人形だった。
子供の頃から、ニコスは泣かない子供だった。泣くという感情が理解できなかった。そして、それは手がかからなくて良い、と喜ばれた。だけど、それと同時に笑わない子供であったことはまずかった。王子という立場上、誰もがそんなニコスを心配する。そして、異常が見つからないと知ると、ニコスから距離をとり、不気味だと恐れた。
そこで、ニコスは自分が欠けた人間であると気が付いた。それでも構わないと、ぼんやりと思っていたけれど、兄に言い含められて、人らしくなるよう努力させられた。そうして、不器用だけれど、快活に笑い騎士団に所属する第二王子が出来上がったのだった。
別に不満はなかった。反対に、喜びも感動もない毎日だけれど、周りに煩わされることもなく、凡庸に生きられる。それが、とても得難いものなのだとニコスは理解していた。だから、このまま適当な年齢で、適当な相手と結婚して、子供を儲け、なんとなく死ぬのだろうと思っていた。
だけれど、あの日。気まぐれに森に入ったあの昼下がり。ニコスは初めて無感動な想像通りに進むだろう未来を厭うた。何もかもを投げ捨てて、彼女の近くにありたいと願ったのだ。
きっと一目惚れだったのだろう。彼女を視界に映した時、ニコスは恋をした。美しく清廉な彼女を知りたいと思った。そんな人間らしい感情が自分に備わっていたことを驚くより先に、歓喜が胸を満たした。モノクロといって差し支えがないほど無感動なニコスの世界が、キラキラと輝く。陳腐な表現であるが、ニコスは初めてこの世界が美しいモノであると知ったのだ。
それから、ニコスは恋情に導かれるように彼女のもとへ通った。彼女の知識や考えに触れるたびに、恋情は募る。そして、いつの間にか彼女を愛し、その熱に溺れた。そこから、ニコスが恋に、愛に、狂うのは一瞬だった。
怒鳴ったことで自己嫌悪に陥っていたニコスを見て、人形は笑った。如何にも楽しげに。
その姿を見て、ニコスは苛立ちを感じた。この人形は、どれだけ熱量を持った言葉でも、本気で取り合ってくれないことを理解したからだ。
いつだって、彼女への心配なんて、誰も聞いてはくれない。それが、昔から悔しかった。
「いや、なに。馬鹿にしたわけじゃないよ。ただ、それだけ思ってもらえて主も嬉しかろうと思ってね」
素直に信じられる言葉ではなかった。彼女がこんなことで喜ぶような人には見えなかった。他人から向けられる感情にはすごく無頓着な人だ。
鈍感だったわけじゃない。むしろ、人の感情の機微には鋭かった。けれども、彼女がそれを意に介したところは見たことがなかった。
「信じられないかい?」
ーーーそう、なら良かったよ
小声で呟いた言葉はニコスには聞こえなかった。
「まぁ、そんなことはいい。……君、国王になる気は?」
空気がピンっと張り詰めた。そんなことを口にすることは禁忌だろう。
この国には王子が三人いる。第一王子のゼノン、第二王子ニコラオス、第三王子ミハイルだ。
三人も王子がいれば、確かに対立が生まれそうなものだ。けれど、自分たちにとって人形の問いは愚問だった。いっそ短慮と言っても良い。兄、ゼノンは王になるべくして生まれてきたような人物なのだから。
「ある訳ないだろ」
即答だった。それは生まれた時から変わらぬ答えだ。なりたいと思った瞬間さえ、ニコスには存在しなかった。国を守りたいという心はあるが、兄以上に王に向く人間はいないと思っている。父、現国王を含めても。
「そうかい。つまらない…が、らしい答えだ。では、私の主になる気ならどうかね?」
「主…?」
意味がわからず、人形を凝視したニコスに、ああ失礼、と人形は答える。
「私はあの魔女の使い魔さ。魂の一部を分けてもらって動いている。そして、主を求めて彷徨っていたというわけさ」
「…なぜ僕なのか、理由を聞いても?」
そちらが本題だと理解したニコスの心はいつの間にか凪いでいた。
「理由は単純明快だよ。君が主だと都合がいいのさ。それに、君はあの魔女を思いの外大切にしていたようだし…。悪い話じゃないだろう?」
人形がニンマリと笑った気がした。答えなど分かりきっているとでもいうように。
確かにイアンの名前が出てきた時点でニコスの答えは決まったも同然だ。彼女の魂を近くで感じられるなら、どんな悪魔の取引だって喜んで受けいれられる。
仮に彼女の使い魔であるというのが嘘であったとしても、コレを殺して彼女を冒涜するものをこの世から排除すればいい。もし、最後に死神が鎌を構えて待っているというなら彼女に会いにいけるではないか。これ以上にニコスが望む契約はこの世になかった。
「僕を選んでくれたこと、感謝します」
ニコスは人形に傅いてみせた。それは正しく彼女への、この人形への、服従の印だった。
頭を垂れて人形の言葉を待つ姿は滑稽なはずだが、一枚の絵画のように、ピースが嵌ったパズルのように、完成されたモノに見えた。
「おいおい。主人が使い魔に頭を下げる奴があるかい?全く…。そんな振る舞い、今後はするんじゃないよ。馬鹿な魔のモノにいいようにされるからね」
やれやれと言う風に手を動かした人形は、ニコスに近づくよう促した。ニコスは恭しく人形に近づいて、手を差し出す。彼女がまじないをする時、いつも手の甲に何かを刻んでいた。だから、そうするのが当たり前なのだと思っていた。
「いやはや、本当によく訓練されている。…でもね、それは他のナニカに絶対やってはいけない。引きずり込まれてしまうよ」
そんな重要な行為であったとは知らず、ニコスは驚く。
だけれども、彼女以外に、この魂以外に、身を預ける気は欠片もなかった。だから、その心配は無意味だ、そう思ったけれど、言葉を甘んじて受け止める。彼女への愛を、執着を、惜しげなく披露するのは悪手だと思った。そうすれば、このチャンスを不意にしてしまうだろう。
ニコスは、人形に軽く頷いて、じっと見つめることで先を促した。早く、早く、契約してしまいたい。そうすることで、確実に逃げられないようにしたかった。彼女の記憶が、気配が、薄れてしまう前に。まだ、完全に覚えている内に。
ーーー名前を思い浮かべるんだ
人形はそう言って、魔に魅入られたモノにしか分からない言葉を唱えだした。それと同時に手の甲に何か描き始める。
使い魔に名前をつけることは命を吹き込むのと同じようなものだ。つける時にパッと浮かぶその名前が真名なのだと、彼女が楽しそうに教えてくれたのを思い出す。それはとても不思議な感覚でね、と面白がるような声が蘇った。
人形は詠唱し終わったのか、こちらを見た。
ーーーさぁ、呼んで
「イア」
その瞬間、体中で熱いものがグルグルと流れているのがわかった。火傷しそうなほど熱された血潮が身体中を駆け巡る。のたうちまわってもいいくらい体が熱を持っている感覚があるのに何故か平気だった。
どれくらいそれが続いただろうか。
それは彼女が言ったようにとても不思議な感覚で、ニコスにとてつもない快楽をもたらした。体中がドクンドクンと鼓動のように脈打ち、喜びに沸き立っている。いままでに感じたこともない体験に、思わずうっとりとしてしまった。
「相性が良かったようで何より」
人形は嫌そうに言う。
何がそんなにひっかかったのだろうか。相性が良いということはお互いに利のあることだと思うのだけれど。
もたらされた快感が引くと、人形との繋がりを確かに感じた。目に見えない何かが流れていくような感覚が、ニコスを、嬉しいような、むず痒いような、そんな気持ちにさせる。
「良かった良かった。合わないと弾けて肉が欠片も残らない、なんてこともあるからね。安心したよ」
心配はしてなかったけれど、なんてケケケと笑う人形に騙されたような気になった。だが、全く怒りは沸かない。それを人形が、不可解だ、というようにを見ていた。怒らないことがそんなに可笑しいだろうか。意図せず意趣返しが出来て愉快だ。そこで、ようやく体の力が抜けた。知らぬ間に自分は緊張していたらしい。
「訊いてもいいか」
「いいとも。答えるかはわからないけれど」
そんな風に言われると。あぁ答えてもらえないんだなと思う。彼女はよくそうしてニコスの問いをはぐらかした。
「イアは僕と契約して何をするんだ」
「そうだね。…ふふ。今は、まだ秘密だ。必要になったら答えよう」
人形はポンポンとあやすようにニコスの頭をたたいた。その様子が、彼女と重なる。
彼女は犬と称した青年をよく撫でていた。それがニコスはいつも羨ましかったのだ。今、自分に向けられていることを嬉しく思うほどに。
その羨ましかった彼はどうしているのだろう。もう、何日も会っていない。彼女のところに通い詰めていた時は、毎日のように顔を合わせていたのに。
彼はニコスの唯一の友達だ。そして、この人形が彼女の使い魔だというなら、彼と契約する方が自然なように感じた。
「もう一つ、いいか」
「言ってみるといい」
「アイツは。…どうしているんだ」
知らないわけがない。彼は彼女の唯一の家族だ。彼女が認めるているかどうかは別にして、側からみれば、二人は家族だった。見ていると家族の絆を感じさせる、とても良い関係だったのだ。
だから、彼女の使い魔であるというのなら、知っているはずだ。
「あぁ、あの犬っころか。アイツなら、魔女の家にいるね。心配なら、会いに行ってやるといい」
使い魔はケラケラ笑った。それは、彼のことを馬鹿にしているように聞こえる。そんなところまで、彼女そっくりなのか。
彼女は親しい者へ親愛を示すのがとても下手だ。だから、唯一の家族にいつも辛辣だった。もっとも、その不器用さをニコスは可愛く思っていたのだけれど。
とりあえず、彼が生きているのであれば良かった、とニコスは胸を撫で下ろす。彼女を後追いしてしまいそうな危うさが彼にはあった。
「もういいかい?そろそろ時間切れだ」
そう言って、人形は綺麗に礼をした。
どこまでも、彼女を模す行動が、ずっとニコスの心をざらつかせている。
「では、今夜はここで失礼させてもらうよ。御機嫌よう我が主」
そのまま、人形は窓の外へ背中から飛び降りる。慌ててニコスは窓の下を見たけれど、人形は影も形もなかった。
人形がいなくなると、先程のことが現実にあったことなのか、ニコスは不安になった。全て夢だったのではないか、と思うほど何も変化がない。
体の中に混ざる魔の力だけが、真実だったのだと示していた。