第7話 沼に潜む怪
一度として見えぬ
二度と帰れぬ
三界の果へ
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「わたくし、城之内カレンと申します」
その少女はそう言った。
「はあ・・・、カレンさんですか・・・」
架陰は一応頷いた。彼女の名前を知ったところで、架陰に何か得るものがあるという訳では無い。
西原が運転席から降りてきて、黒い傘を架陰に差した。
「どうぞ、この傘の中で服をお拭き下さい」
架陰に白いタオルを手渡す。言われるがまま、それを受け取った。
ふわふわとした肌触りのいいタオル。高級であるということは言うまでもない。
「ありがとうございます・・・」
そのタオルで濡れた学ランを拭く架陰。抜粋生地なので、直ぐに水気が取れた。
「では、そのバットと、巾着をお預かりしましょう」
西原が架陰の刀と着物の入ったものに手を伸ばす。
架陰は反射的に後ずさった。抱くようにして隠す。
「す、すみません。大切なものなので・・・」
ここで刀ということがバレたら、いくら親切な人でも通報しかねないと思ったのだ。
西原は直ぐに頭を垂れた。
「申し訳ありません」
白髪混じりの頭をあげる。
「では、そのまま車にお乗りください」
「くるま?」
「はい、タオルだけ貸して、あとは雨に濡れながら走らせるのは見て見ぬふりなどできません。貴方の目的地までお送りします」
「つまり、自宅ですか?」
「左様で。貴方の道筋を指示していただけましたら」
「いやいや、大丈夫ですよ!」
架陰は慌てて首を横に振った。こんな高貴な雰囲気を漂わせる車に乗ることなど気が引ける。
「そんなことを言わずどうぞ、カレンお嬢様の横へ・・・」
西原が言ったと同時に、後部座席の扉が開いた。カレンが開けたのだ。
「ほら、どうぞ」
カレンが架陰の座れる分の座席を空ける。
「え、ええ・・・」
ここまで来ると、この厚意に背くことも気が引けた。それに、早く閉めないと車に雨が入ってしまう。
「じゃあ、お願いします」
もうどうにでもなれという気持ちで頷いた。そして、カレンの横に座る。ふかふかのシートで、体が10センチ沈んだ。
「うお、凄いですね」
初めてのリムジンの乗車に、思わず笑みが零れた。
カレンというお嬢様は、白い手を口に当てて「ふふ」と微笑んだ。
「では、発車しますよ」
西原がリムジンを発進させる。微かな揺れだけで、タイヤが地面を擦る音さえしなかった。
「自宅はどちらで?」
「ああ、○○地区の○○番地って分かりますか?」
「もちろんでございます」
それだけを聞いた西原は二番目の角を右に曲がった。いつも架陰が通っている道を違わず進む。
(頭に、地図が入っているのか・・・)
話さなくなった西原の代わりに、カレンが口を開いた。
「ねぇ、貴方の名前は?」
身を乗り出して、上目遣いに架陰に尋ねる。甘い香りがした。
「え、ええと・・・」
架陰は恥ずかしくなって、口調がたどたどしくなる。
「市原、架陰です」
「へぇ、何年生?」
「2年です」
「私は3年よ」
年上だったのか。
年上には従順な架陰はますます固くなった。
苦手なのだ。こういう知らない、つまり初対面の人と会話を続けるのは。
「あの、城之内さんですよね?」
何とか会話を途切れさせまいと、言葉を発する。
カレンはニッコリと笑った。
「そうよ。城之内カレン」
「どこかで聞いたことがあるような・・・」
ここは素直に首を捻る。城之内なんて名前、そうあるわけではない。見たら必ず覚えているはずなのだが。
その疑問には西原が答えた。
「この地域では、城之内家は有名ですから。先代は明治頃に貿易で富をなし、戦後は菓子の生産でその名を現在に残して来ました。きっとどこかで目にしたのでしょう」
「そうですか・・・」
お菓子の会社だっただろうか?
だが架陰もそれ以上考えなかった。
突然カレンが、口を押え、「ふふふ」と肩を震わせて笑った。
架陰は「何事か?」と思ってカレンの方を見た。
カレンは気恥しそうに首を振った。
「いやね。ここ一ヶ月はパリを旅行していたものだから、日本語で、同年代の人と話すのが楽しくてね」
「いや、僕の話なんてそれほど・・・」
架陰は顔を赤くして頭をかいた。満更でもない顔だ。こんな綺麗な女の子にそう言われると、やはり嬉しい。
西原がバックミラー越しに架陰を見た。
「架陰様、もう少しでございます」
「あ、はい」
架陰は「架陰様」と呼ばれたことに強烈な違和感を覚えた。だが、突っ込む言葉を飲み込んだ。
(もう少しで、この気まずい空気から解放される・・・)
あと少しで、このお嬢様と架陰を乗せたリムジンは、架陰の家に到着する。そうしたら、この優しい人達ともおさらばだ。
もう、二度と会うこともないだろう。
架陰はほっとため息をついた。
その時だ。
「危ない!!!!!」
突然、穏やかだった西原が叫んだ。
急ブレーキが踏まれる。
劈く音が響き渡り、架陰の身体が前に引っ張られた。
「カレンさん!!」
反射的に、架陰は、架陰同様に前のめりになるカレンに手を伸ばした。
カレンの小さな顔がリムジンの座席にぶつかる前に、架陰の伸ばした腕が受け止める。
「あ・・・」
カレンの胸は以外に大きかった。
「カレン様!?」
リムジンが停車した後、西原が真っ先に心配したのはもちろんカレン。
「ええ、大丈夫よ。架陰くんが受け止めてくれたから」
胸を触れたことを気にせず、カレンは架陰に微笑んだ。
「ありがとう。架陰くん」
「はい・・・」
架陰は手に残った感触に心臓を高鳴らせながら頷いた。
「あの、一体何が?」
話をそらすようにして、西原が急ブレーキを踏んだ理由を尋ねる。
「前方でございます」
西原は皺だらけで骨の浮いた指で窓の外を指さした。
「子供?」
リムジンのライトに照らされて、雨に濡れた路面の上に小さな男の子が尻もちをついていた。
西原がドアを開ける。
「あれではいけませんね」
「僕も行きます」
架陰も後部座席の扉を開けて、西原と共に雨の中へと出た。
「申し訳ありません。大丈夫ですか?」
西原は男の子に近づいていった。
その問いかけに、男の子は反応を示さない。
眼球の光は失われ、雨に濡れてか、それとも恐怖からか、小刻みに震えていた。
(飛び出したのか?)
「ごめん、大丈夫かい?」
架陰も男の子に話しかける。
だが、男の子は反応しない。ひたすらに空気を見つめて、何かうわ言のように呟いていた。
「・・・、が、・・・が、僕の、・・・が」
「えっ?」
架陰は男の子の口に耳を近づけた。
そうすることによって、かろうじて男の子が言ったいることを聞き取ることができた。
「僕の、友達が・・・、僕の友達が・・・」
(僕の、友達!?)
その瞬間、男の子が叫んだ。
「僕の友達がっ!! 化け物にっ!!!」
「おわっ!」
声変わり前特有の高い声が架陰の耳を穿った。思わず顔を顰める。
いや、それよりも。
「君、今なんて言った?」
架陰の胸を、嫌な予感が掠める。
確かに、この男の子は、はっきりとした声で、
「化け物」
と言っていた。
その②に続く
その②へと続く