潜む陰 その③
遊ぼうと手を引いた
死体にも似た冷たさに
僕は鳥肌を覚えて
ぺろりと爪を舐める
鉄とケラチンの味とともに
3
山の中を再び歩き始めて、三時間が経過した。
太陽はすっかり昇り切り、じりじりとした熱線を山に向けて放射している。
木々で囲まれているから、暑くないのでは?
と思うかもしれないが、湿気の多い地帯では、蒸し暑くてたまらなかった。
「暑いね…」
架陰は頬を伝う汗を拭った。
こんなに暑くなるとは予想していなかった。
歩けば歩くほど、身体から水分が抜けていく。つい先日まで病院のベッドの上にいた彼には、きつい所業だった。
(喉が渇くな…)
喉の奥がからっとしている。
まるで、気道の粘膜に砂利でもまぶされたみたいだった。
この蒸し暑さには、山の生活に慣れている二代目鉄火斎も言及した。
「ああ、くそ、あちいな」
「暑いッスね!」
真子も、頬に栗色の髪の毛を貼りつけて言った。
唯一、八坂だけは無反応だった。
「暑い…のか?」
彼の周りを歩く三人は、「暑い」と言いながら、ぐったりと歩いている。支給されたミネラルウォーターをかなりの勢いで飲んでいる。
「…、暑いのか?」
しかし、八坂には喉の渇きも、太陽が照り付ける暑さも感じられなかった。
(なんで…?)
単に、八坂が暑さに強いのか…、それとも、三人が暑さに異様に弱くなっているのか…。
「それとも…」
じっと考え込みながら山道を歩く。
その時だった。
獣道のような細い道を抜けた時、彼の目の前に、ある光景が広がった。
「………ここは…」
それは、小さな小屋だった。
和風日本には似合わない、煉瓦調の、洋風の小屋。
窓ガラスの向こうでは、ランタンのような暖色の明かりが灯り、煙突から白い煙がモクモクと湧き立っている。
「………」
人が住んでいる?
八坂はすぐに三人を呼び止めた。
「みなさん! 止まって!」
「うん?」
「はいッス?」
「どうしたの? 八坂君」
先を行っていた三人が同時に振り返る。
八坂は少し困惑して言った。
「いや、『どうしたの?』って…」
「八坂さん! さっさと歩くッスよ! 暑さに根を上げたって無駄ッスよ!」
真子が急かす。
八坂はムキになって言った。
「だから! ここに、変な小屋があるだろうが!」
脇にある、煉瓦調の小さな小屋を勢いよく指さした。
しかし、三人は首を傾げる。
「小屋?」
その瞬間、真子が吹き出した。
「ちょっと、八坂さん、暑くて幻覚でも見たッスか?」
「はあ?」
八坂は自分の言動が怖くなり、また、小屋を見た。
小屋は相変わらず、八坂の目の前に佇んでいる。
煉瓦の赤い外観。
窓に灯った淡い光。
煙突から湧き出る白い煙。
そして、誰かが八坂の名を呼ぶ。
「おいで…、八坂…」
「っ!」
その瞬間、八坂は自分の身に何が起こっているのかを理解し、耳を塞いで半歩後ずさった。
(UМAの能力かっ!)
首が捩じ切れるくらいの勢いで三人の方を振り返り、自分たちがUМAによって襲撃されていることを伝えようとした。
しかし、息を吸い込んだ瞬間、彼の視界に黒い陰が横切った。
はっとした時にはもう遅い。
「くそ…!」
辺りの光景が一瞬で切り替わる。
気が付くと、八坂はたった独り、白い霧の中に立っていた。
「真子っ! 架陰兄さんっ!」
必死に仲間の声を呼んだが、その声は、霧という空虚な空間に吸い込まれて消え失せた。
「くそッ!」
八坂はすぐに背中のライフルバックに手を掛ける。
その瞬間、身体が冷や水を浴びせられたときのようにびくっと跳ねて、それから、硬直した。
「うっ!」
霧の奥から、誰かが歩いてくる。
(おいで…、おいで、おいででででで…)
言語がはっきりしない、頭の奥に直接響く声。
霧をかき分けて彼の前に現れたのは、一人の男だった。
(八坂ああああ…、あ、あああああ、おいで、でで、おいで、でででで、あそぼ、あそぼぼぼぼぼ)
ただし、人間ではない。
影を切り取ったように真っ黒なスーツを身に纏い、顔はのっぺりとしていて、口や鼻、目の部位は無い。
袖から、植物の蔓のような細い腕がだらんと伸びていた。
「こいつはッ!」
八坂の全身を、電撃のような衝撃が駆け巡った。
のっぺらぼうの顔。
細い身体。
黒いスーツ。
そして、唐突に始まる幻影。
「こいつは…【スレンダーマン】ッ!」
第142話に続く




