【第132話】 消えた少女 その①
白紙に消えた少女を追って
僕は黒いインクの波に乗る
1
「帰ってこい! 城之内カレン!」
架陰は、喉がはち切れんばかりに叫ぶと、暗闇に溶け込もうとする城之内カレンの胸に、反射的に手を入れていた。
バチッ!
と、架陰の身体を電撃のような衝撃が駆け巡る。
カレンの魂が、他者の介入を拒絶している証だった。
例え拒まれようと、架陰はカレンに触れた。
電撃が走る。
歯を食いしばり、衝撃に耐える。
「ああああああああ!」
叫んだ瞬間、架陰の周りを、闇が取り囲んだ。
はっとした時にはもう遅く、闇に取り込まれた架陰は、一瞬の内に意識を失った。
※
再び目を覚ました時、架陰は芝生の上に立っていた。
「あれ?」
この世界が幻影によって作り出されたものだと、すぐに理解できた。
匂いがしない。芝生に立っているというのに、サクサクとした感触がしない。
まるで、ホログラム映像を見ているかのような感覚だった。
「ここは…」
とりあえず、何の幻影を見せられているのか探るべく辺りを見渡した。
右手に、煉瓦調の大きな豪邸が見える。
左手には、噴水があり、透き通った水を天に向かって高々と吹き出していた。霧がこちらまで漂ってきたが、肌に冷い感触を得ることはできなかった。
「……」
茫然としたまま、歩き始める。
どうやら、架陰は、とある金持ちの屋敷にいるようだった。
周りを高い壁で囲まれ、その向こうにあるはずの道路は見えない。しかし、庭自体が広大で、色とりどりの花が植えられているので、閉鎖的な感覚は皆無だった。
この屋敷の中だけで、一つの世界が構築されているような、そんな感覚。
その瞬間、歩いている架陰の背後で、女の子のはしゃぎ合う声が聞こえた。
振り返ると、五歳くらいの小さな女の子二人が、「まてえ!」とか「捕まえてみなさいよ」とか言いながら、そよ風のように通り過ぎて行った。
当たり前のことだが、架陰の姿は見えていないようだった。
黒っぽいワンピースを身に纏い、柔らかな髪の毛を後ろで括っている。幼いが、将来有望な端正な顔をしていた。
その女の子二人の顔に、架陰は見覚えがあった。
「花蓮さんと、カレンさん…」
「可愛いでしょう?」
話しかけられて振り返ると、そこには、生気の無いカレンが立っていた。
虚ろな目で、走り去った女の子の後ろ姿を見つめている。
「カレンさん…」
「あれはね、子供のころの私なの」
「………」
「幸せそうでしょう?」
そう聞かれて、架陰はこくっと頷いた。
「とても、幸せそうです」
鈴を転がすように笑い、その小さな身体から湧き出すエネルギーを、外にまき散らしているようだった。
生命のエネルギーを無駄に使うのは、子供の特権のように思えた。
カレンは架陰に手招きをした。
「架陰くん、おいで」
「………」
架陰は、カレンに案内されるまま、屋敷の中に入った。幻影なので、扉はすり抜けることができた。
世界各地から取り寄せたであろう絵画や装飾品が並ぶ廊下を二人で歩く。
とある部屋に、二人は入った。
その部屋では、無精髭を生やした屈強な男がソファに腰をかけて、真剣な眼差しで、手元の資料に目を通していた。
そして、「うーん」と唸る。
架陰はカレンに聞いた。
「あの人は、何をしているんですか?」
「選別よ」
「選別」
腹の奥に熱が宿る。
カレンはため息交じりに言った。
「もう少ししたら、あの子の幸せは終わるの。父上は、私じゃなくて、花蓮の方を選んだ…」
その瞬間、架陰とカレンを取り囲んでいた幻影に、ノイズが走った。
一瞬で光景が切り替わる。
二人は、いつの間にか煉瓦の壁で囲まれた地下牢の前に立っていた。
鉄臭い格子の中に、幼い紅愛が蹲っている。
「カレンさん…!」
「びっくりよね? いまだに、大昔の因習を信じている人間がいるのよ?」
紅愛は、泣きはらした目で、壁を睨む。
すぐに、顔はくしゃっと崩れて、また泣き出した。
「ごめんなさい。ごめんなさい。お父さん、ごめんなさい…、次はいい子にしますから…、ごめんなさい…」
しくしくと泣きながら、壁をひっかく。彼女の爪は既に剥げていて、赤黒い血が壁に染み付いていた。
「ここから、出してください…、お願いします…、助けて、誰か助けて…」
その余りにも痛々しい姿に、架陰は幻影であることを忘れて、格子の向こうの少女に手を伸ばしていた。
指先が少女に触れる前に、光景が切り替わる。
少女は地下牢の中央に仰向けで横たわり、やつれた顔で、黴臭い天井を眺めていた。
半開きになった口から、まるで魂が抜けるかのように言葉が洩れる。
「私の名前は、城之内カレン…、私は城之内カレン、私は城之内カレン…」
と。
隣のカレンが、肩を竦めた。
「ここで、私は狂ったのよ。親に捨てられたっていう境遇を認めたくなくて…、自分のことをいつの間にか城之内カレンって、名乗るようになっていた…」
「カレンさん…」
架陰がその名を呼ぶと、カレンは表情を曇らせた。
「その名前、やめてくれないかな? 私の本当の名前は、城之内紅愛なのよ」
そして、自分に言い聞かせるように、言った。
「私は、城之内紅愛。君が思っているような女の子は、存在しないんだよ」
その②に続く




