【第128話】 薔薇一輪 その①
北風吹き抜け
薔薇の色を奪う
夕立ち注ぎて
薔薇の棘を削ぐ
熱砂に晒して
薔薇の根を煮る
1
誰かが彼女の名前を呼ぶ。
「もうやめて…、紅愛…」
カレンは、暗闇の中で目を覚ました。
目の前に広がるのは、漆黒の闇。
身体中を生ぬるい液体のようなものが満たし、彼女の身体を浮かばせている。髪の毛や着物の袖がそよそよと揺れた。
「ここは…」
自分は何をしている?
記憶を辿る。
確か、自分は悪魔の堕彗児に連れ去られて、地下空間の壁に貼りつけにされていた。そこに、鬼丸や唐草を始めとする悪魔の堕彗児たちがやってきて、自分に何かを言った。
その先の記憶がない。
「私は、何を…」
彼女の鼻の奥を、血の臭いが貫いた。
まるでビデオのノイズのように、カレンの耳元でざらつく者が擦れるような音が聞こえた。
記憶が、砂嵐が晴れるかのように鮮明になる。
「ああ、そうか…」
カレンは暗闇の中、一人で合点した。
「私は、城之内、紅愛か…」
もう、随分と眠っていたような感覚に陥った。
日曜日、平日の分を補うように寝溜めしたときのような、気怠くも、清々しい気分。
その時、浮かぶ彼女の周りを、誰かがぐるぐると旋回しているのに気が付いた。
「……」
人間じゃない。
UМAとも違う、異形の生物だった。
能面のような、白く、無機質な顔面に、触手のように伸びる灰色の髪の毛。胴体は骨格標本のように異様に細く、黒い茨を纏うように辺りに漂わせている。
それが、彼女の精神に取り憑く悪魔だった。
「おはよう。私のかわいいカレン…」
悪魔は流暢な日本語でカレンの名を呼んだ。
「ぐっすりと眠れたかしら?」
「……私は、何をしているの?」
「復讐をしているのよ」
仮面のような顔面が、カタカタと笑った。
「復讐」
もう一度言う。
「あなたを捨てた人間、あなたを忘れた人間、あなたの邪魔をした人間。そのすべてに、復讐をしているの。してあげているの」
「……」
ふと、自分の手に視線を移す。
白く、綺麗な手のはずだった。
だが、心なしかべったりとしたものがこびり付いているような気がした…。
記憶がちりちりと蘇る。
「ああ…、そうか…」
自分は、人を傷つけた。
そう自覚した瞬間、悪魔がぬるりとカレンの方に顔を寄せてきて、囁くように言った。
「三人、死んだわ」
「え…」
喉の奥で、何かが弾けた。
「三人、死んだ…?」
「ええ」
悪魔は満足げに笑った。
「鈴白響也。西原。そして、市原架陰」
何度も言い聞かせるように言う。
「みんな、あなたを苦しめようとした人間よ?」
「違う…」
カレンは声を震わせながら否定した。そうしないと、自我を保てないような気がしたからだ。
「あの人たちは…、違う…!」
「何処が違うの?」
悪魔は挑戦的に言った。
「わかっているでしょう? あなたは、自分を偽って生きてきたのよ? 本名は城之内紅愛。忌み子とされて、城之内家に捨てられた、哀れな子。それなのに、自分のことを城之内カレンと偽り、みんなを騙して、今までのうのうと生きてきたじゃない?」
「ち、がう…」
指先がぐにゃりと曲がった。
自分の身体の形を保つことができない。
「違う…」
目から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「鈴白響也が、あなたを愛したのも、あなたが『城之内カレン』だったから。西原があなたを保護したのも、あなたが『城之内カレン』だったから。市原架陰があなたを慕ったのも、あなたが、『城之内カレン』だったから」
もうわかるでしょう?
と、諭すように悪魔は言った。
「ばれちゃったわね。あなたが偽物だということが」
偽物。
その言葉が、鈍重な濁流となって、カレンを呑み込んだ。
悪魔はカレンの背後から腕を回し、彼女を抱きしめた。
「城之内カレンじゃない女には用は無い。みんなが思っていることね。それに、あなたは仲間を傷つけた」
腕をちぎり。
腹を貫き。
拘束し、硬い地面に叩きつけた。
「死んだ」
死んだ。
「みんな死んだわ。あなたが殺したの」
私が殺した。自分の手で殺した。
「もういいでしょう?」
ああ、もういい。
城之内カレンじゃない。私は、城之内紅愛だ。
みんなを騙して、挙句には殺した。今更、戻っても残された者たちは紅愛を憎むはずだ。
とろんと、紅愛の瞼が重くなった。
もういい。どうでもいい。
紅愛が自身のことを「カレン」と名乗るようになってから、必死に手を伸ばして、生にしがみついてきたつもりだった。
何としても生きてやる。
そう思っていたのに、今、まさに、指の先からその「生」と言うものが零れ落ちた。
「もう、どうでもいい」
紅愛は俯き加減に言った。
「私を、殺して…」
その②に続く
その②に続く




