さよならはまだ言わない その②
右腕一つ捧げて
左手二つ喰ろうて
賢者の日記に書き記す
破滅の放課後物語
2
場面は移り変わる。
市原架陰は、城之内花蓮を抱きかかえたまま、路地を走り抜けていた。
(なんだ? この気配は…?)
先ほどから、この町全体に充満している空気が重いような気がする。上手く言い表せられないが、重く、冷たく、走れば走るほど、頬や足に絡みつくような、鈍重な空気。
(いや、これは…、殺気か?)
その時、彼の頭の奥でしわがれた声が響いた。
(ハジマッタナ…)
彼の精神に住み着く悪魔の声だ。
市原架陰は、声に洩れないようにしながら、精神の中で悪魔と対話をした。
(始まったって、何が始まったの?)
(悪魔ノ覚醒ダヨ)
(悪魔の、覚醒?)
なんだそれは?
すると、またしても、悪魔の声に被せるようにして、ジョセフの声が彼の頭に響いた。
(架陰。さっき説明した通り、城之内カレンには、僕たちとはまた別の個体の悪魔が取り憑いているんだ)
(はい、さっき聞きました。悪魔の堕彗児は、その悪魔を奪い、自分たちの力を高めて、僕から悪魔を奪おうと考えているって…)
(少し、彼らにも誤算があったみたいなんだよ)
(誤算?)
(うん。彼らが思った以上に、城之内カレンの精神に住み着く悪魔の力が強かったみたいだ)
(強かった?)
その瞬間、走る市原架陰の頬に熱いものが走った。
「うっ!」
「架陰さま!」
抱いていた城之内花蓮が慌てたような声を上げた。
「頬から、血が出ています」
「え…」
両手が塞がっているので、確かめることができなかった。
すると、城之内花蓮は、市原架陰の頬に手を伸ばし、何かを拭った。
「ほら」と言って見せられたのは、真っ赤になった城之内花蓮の指先だった。
「急に、裂けたんです」
「裂けた…?」
市原架陰は一度立ち止まると、背後を振り返った。
誰もいない。
「敵襲じゃないのか?」
「なんでしょうね?」
突然彼の頬が切れたことに疑問を持っていると、その減少について、悪魔が説明した。
(オソラク、城之内カレンニ取リ憑ク悪魔ノ能力ダ)
「え…」
(集中シテミテミロ)
そう言われ、市原架陰は目を凝らして、路地を見つめた。
すると、ぼんやりと何かが浮かんでくる。
「これは!」
それは、薔薇の茨だった。
まるでレーザーセンサーのように、狭い路地に張り巡らされて、その鋭い棘をこちらに向けていた。
ジョセフが言った。
(あの悪魔の能力、かなり強いよ? そいつはまだイメージが固まっていないから、柔らかいけど…、本体に近づけば近づくほど、多分硬化していると思う。触れただけで腕が飛ぶと思う)
「くそ…」
架陰は、奥歯を噛み締めると、再び踵を返して走り始めた。
張り巡らされた茨のトラップは、集中して見極め、上手く躱していく。
「気配が濃くなっている…!」
進めば進むほど、市原架陰の頬を撫でる、鈍重な殺気が濃厚になっていった。
足に絡みつき、思考が鈍る。
「架陰さま…」
抱いていた城之内花蓮もこの気配に気が付いたようで、不安そうな目を向けてきた。
「これは、何が起こっているのでしょう…?」
「僕にも、はっきりとはわかりません」
下唇を噛み締める。
「だけど、あまりいいことは起こっていないようです」
走れば走るほど、殺気が濃くなる。
彼らの道を阻むように、路地に張り巡らされた茨の輪郭がはっきりとしていった。
(カレンさん!)
市原架陰は、路地を抜け、ある交差点へと飛び出した。
その瞬間、ヒュンッ! と空気を裂く音がして、架陰の肩に熱いものが走った。
「っ!」
咄嗟に体重を後ろに掛けて、衝撃を後ろに流す。
だが、時すでに遅し。肩の肉が裂けて、熱い血が吹き出した。
「ぐああ!」
「架陰さま!」
身体の力ががくっと抜けて、その場に跪く。
腕の中の花蓮を支えて居られず、アスファルトの上にどさっと落としてしまった。
「す、すみません、花蓮さん」
「いえ、私は大丈夫です…」
二人で同時に顔を上げて、交差点の真ん中に佇む者を見た。
その瞬間、場の空気が凍り付いた。
「あれは…!」
「あの娘は…!」
そこにいたのは、桜班・副班長【城之内カレン】だった。
「カレンさん…!」
様子がおかしい。
三日月のように口角をにいっと上げて、歯の隙間から引きつるような笑い声が洩れている。肩は痙攣を起こしたように小刻に震え、桜班の戦闘服である薄紅の着物は鮮血で染まっていた。
そして、カレンの足元に倒れている者。
「響也さん!」
鈴白響也が、両腕を引き千切られた状態で倒れていたのだ。
その③に続く
補足
城之内カレンと城之内花蓮は双子です。幼い時に、忌み子を嫌った父親に選別に掛けられて、次期当主に選ばれたのが、薔薇班・班長の【城之内花蓮】の方でした。




