第一章 発生
北海道、石狩平野……。北海道最大の稲作地帯にして、北海道の稲作生産量を全国二位にまで押し上げている原動力となっている石狩川沿いの平野である。元々は泥炭地と呼ばれる稲作に適さない土地だったものを、他の土地から良質な土を持ってくる客土によって土地改良を行い、品種改良などで寒さに強くした稲を使って米の生産量を大きく跳ね上げさせたという経歴を持つ。
さて、その石狩平野のほぼ中央、札幌から見て東側にある田園地帯の真ん中に千代原駅というローカル線の無人駅が存在する。千石線というこの路線は一日数本しか電車の走らない廃線寸前の路線で、西の千石札幌駅と東の立島駅を一時間半で結んでいる。千代原駅自体もほとんど利用者はおらず、どころか、駅を中心とする直径一キロメートル圏内にはこの駅以外に建物らしい建物が存在せず、ひたすら田園が広がり続けている状態だった。おそらく、この路線の中でも最も利用者のいない駅と言っても過言ではないだろう。
その立地をもっと具体的に言うなら、この駅舎は一辺一キロメートルの正方形のほぼ中央に位置していると考えるのがいいだろう。正方形の上下二本の辺が一キロメートルの幅で平行して走る国道で、その二本の国道のほぼ中間地点(それぞれの国道から五〇〇メートルの位置)に国道と平行になるようにローカル線の線路が通っている。そして、その線路上にある駅舎から東西それぞれ五〇〇メートルの所に、国道と垂直になるように正方形の縦の二辺に該当する接続道路が南北二本の国道を結んでいる。ちなみに当然この接続道路は線路と交わる事になるが、駅舎東の道路と線路が交わるところには千代原東踏切、駅舎西の道路と線路が交わるところには千代原西踏切という古びた踏切が設置されていた。
つまり、駅舎から東西南北それぞれ五〇〇メートルの場所を道路が囲んでいる状態なのである。肝心の駅舎へは北を走る国道から駅舎へ続く一本道が線路に対して垂直に伸びており、駅舎に行くにはこの道を通るしかない。そして、四本の道路で囲まれたこの正方形内部は、駅舎と線路、それに北の国道から駅舎へ続く一本道を除けばすべてが田んぼとなっており、田植えの時期でもない限り訪れる人間も滅多にいない。
正直、どうしてこんな場所に駅なんか造ったのか、今でも首をかしげる地元住民が多く、今や物好きな鉄道マニアくらいしか来ることがない場所でもある。そんな、世間から忘れられたこの小さな駅であったが、しかしそれもつい最近までの事であった。二〇〇九年一月、この駅で発生したある事件によって、その駅の名は日本犯罪史の中に永久に記録される事となったのである。
二〇〇九年一月七日水曜日。北海道は例年通り大雪に見舞われていた。石狩平野に広がる田園地帯はすべて雪で覆われ、足跡一つない真っ白な空間を演出している。
そんな石狩平野の真ん中を貫く千石線の線路にある千代原駅に、千石札幌駅方面から二両編成の電車が到着したのは、この日の午後六時頃の話であった。すでに夕暮れから夜へと薄暗くなり始めている中、運転手の内海新助は前方に小さな木造の駅舎を確認すると、ゆっくりとブレーキをかけて徐々に減速していった。
内海はこの千石線を運転して三十年のベテランである。とはいえ、この路線もそろそろ採算が合わなくなって廃線になるのではないかという噂も流れており、この先どうなるのかは全く未知数であった。とはいえ、そうなってもおそらく別の場所で電車を運転し続ける事にはなるだろうというのが、内海の予想ではある。
駅舎に到着すると、内海は先頭車両の運転席側のドアだけ開けて、自身も運転席から出てその前に立った。この電車の乗務員は内海一人だけで車掌はおらず、しかもここは無人駅である。そのため切符の改札などは内海自身が行わねばならず、下車する乗客は先頭車両の一番前のドアで内海の改札を受けてから下車する事となる。とはいえ、この時期のこんな時間帯にこんな田んぼの真ん中にあるような駅に下車する乗客などまずおらず、そもそも路線自体乗客の数がかなり少ない。普段通り、ここでの改札の仕事はないだろうと内海自身も思いながら、半ば義務的にドアの前に立っていた。
が、この日は珍しい事に例外がいた。内海がドアの前に立ってすぐに、二両目から内部通路を使って一両目にやってきた乗客が、なぜか少し左足を引きずりながらゆっくりと内海の下へ向かってきたのである。内海はオヤッと思いながらも、表面上は平常通りに応対をする。
「切符をお見せください」
その言葉に、その乗客は黙ってしわくちゃの切符を一枚差し出した。改めて乗客を見ると、その乗客はどことなく不自然な雰囲気を放っていた。
身長は一八〇センチメートル前後だろうか。全身を濃いグレーのトレンチコートで覆い、雪焼け対策なのかサングラスにマスクをかけ、分厚い帽子まで被っている。何とも怪しい容姿ではあるが、内海としては切符がある以上文句を言うわけにもいかない。
「ありがとうございます。お気をつけて」
内海は切符を受け取ると、そう言って一礼した。それを見ると、相手は小さく頷いてそのまま足跡一つない雪で覆われた駅のホームに下車し、相変わらず左足を少し引きずるようにしてそのまま薄暗い駅舎の方へ歩いて行ってしまった。内海もさすがに気になったが、これ以上発車を遅らせるわけにもいかない。他に誰も降りる人間がいない事を確認するとそのまま運転席に戻ってドアを閉めた。
「発車します」
そうアナウンスすると、ゆっくり電車を発進させる。電車はすぐに駅舎を離れ、白一色の石狩平野を進み始めた。少し気にはなったが、本来であればすぐに忘れてしまうような話ではある。実際、発車して少しする頃には、内海の頭は次の仕事の事へと移ってしまっていた。本当ならそれだけの話だったはずなのである。
だが、数時間後、事態は大きく動く事となる。
内海の電車が千代原駅を発車してから二時間後の午後八時。暗闇の中、内海の電車が消えた方向から、再び二両編成の終電電車が東方向から千代原駅に到着しようとしていた。
この電車は、先程内海が運転していた電車が東側の終点である立島駅に到着した後で運転手を交代して逆に走って来たもので、運転手は白滝耀太という若い男だった。白滝は大欠伸をしながら雪一色で覆われた田園地帯の真ん中を千代原駅へと向かっている。このまま西側の終点である千石札幌駅まで運行すれば、今日の仕事は終わり。明日は休日シフトなので、札幌市内にある自宅でのんびりできるはずだった。
「ったく、何で俺、こんな将来性のない会社に入っちまったんだろう」
そんな事をぼやきながら、白滝は深いため息をついていた。彼はいわゆる鉄道マニアで、各種鉄道会社を片っ端から受けるもどれ一つ受からず、それでも負けずと受け続けていたところたまたまこのローカル線にだけ採用され、こうして今に至っているのである。
入った当初こそそれなりにやりがいはあったが、何年も経つといい加減に転職すべきか真剣に悩むようになってくる。こんなはずではなかったというのが正直な思いだった。
「そろそろちゃんと人生、考える時なのかもなぁ……」
と、そんな事を言っているうちに、駅舎の東にある千代原東踏切の明かりが見えてきた。この踏切から五百メートルほど先に千代原駅はある。実際、駅の窓から漏れ出る明かりが、ここからも確認できた。
「おっと、いけね。そろそろ到着か」
そう言って、列車のブレーキに手をかけ踏切を通過しようとした……その瞬間だった。
突如、ドンッ、という腹の底に響くような鋭い音と共に激しい振動が列車全体を襲い、白滝は前につんのめった。
「な、何だ!」
反射的に白滝はブレーキをかける。が、その前に列車は鈍い音を立てると、そのままゆっくり横に傾斜していく。
次の瞬間、激しい轟音や衝撃と共に電車が横倒しになり、車内灯が消えて辺りが真っ暗になると同時に白滝の体に鋭い痛みが走った。それでも、白滝は何が起こったのかを瞬時に把握していた。
「だ、脱線……こんな所で……なん……で……」
白滝は地面に叩きつけられながらもそう呻いたが、それと同時に視界が急速にブラックアウトしていったのだった……。
『至急、至急! 千石線千代原東踏切にて列車の脱線事故発生! 至急現場に急行されたし! 繰り返す……』
事故発生から十分後、近隣で除雪作業をしていた同庁職員の通報から事態を把握した北海道消防庁は、最寄りの石狩第三消防署に出動命令を出した。とはいえ、最寄りとはいえ消防署から駅まではかなり距離があり、その上この大雪の事もあって、隊員たちが現場に到着したのは事故発生から三十分が経過した頃だった。
「これは……」
隊員たちの目の前に広がっていたのは、踏切を突き破るように横たわった二両編成の車両の姿だった。しかも後部二両目からは黒い煙や炎のようなものも上がっており、明らかに後部車両で爆発のようなものがあったのは明白だった。すでに事件を通報した除雪作業中の道庁職員たちが救助活動を行っている。
「被害者はいるか!」
「先頭車両に運転手がいた! 今引きずり出して手当てしているが、意識がない! 早く病院に運んでやってくれ!」
消防隊長の言葉に、同庁職員の一人がそう叫び返す。
「後部車両は?」
「わからない! 炎でどうにも見えなくて……」
と、その声をヘリのローター音がかき消した。空を見上げると、すでにマスコミのヘリが集まりつつある。
「くそっ、どっから情報かぎつけやがった!」
隊長が忌々しそうに見上げるが、事は列車爆破という大事件である。致し方ないものと割り切って、再び車両に集中する。
「とにかく、乗客が他にいないかの確認だ! それと消火作業! 大至急消火栓を……」
と、その時だった。
パリンッ!
どこからともなく何かが割れるような音が響き渡った。目の前の車両のガラスではない。もっと遠くからである。
「今のは何だ?」
消防隊員たちが顔を見合わせた、まさにその瞬間だった。
「あっ!」
道庁職員の一人が雪原の向こうを指さした。全員がそちらを見ると、踏切から五百メートル西の雪原の真ん中にポツンと建っている無人駅……千代原駅から、今まさにボッと火柱が上がったところだった。
一瞬、何が起こったのかわからず、さすがの消防隊も絶句する。が、直後、即座に正気を取り戻した隊長が叫んだ。
「しゅ、出火だ! 駅舎から出火!」
その言葉に、その場がパニック状態になった。まさか消防隊がいる目の前で、近くの駅舎が出火するなどとは誰も思っていなかったからだ。が、隊長は即座に無線で本部に連絡を入れた。
「至急、至急! こちら車両脱線事故臨場中の石狩第三隊! 消火作業中に近隣の千代原駅でも出火を確認! こっちは車両火災の鎮火で手が離せない! 応援頼む!」
その間にも、駅舎の火の勢いはみるみる増していく。やがて炎は駅舎全体を包み込むと、ここまで聞こえてくるような轟音を上げながら燃え始めた。周囲に延焼物がないのでそれ以上燃え広がる様子はないが、一刻も早く消火しなければならない。
と、そこで隊員の人が駆け寄ってきた。
「報告! 運転手が意識を取り戻しました! 運転手の証言によると、車両内に乗客はいなかったという事です!」
ならば、優先すべきは要救助者がいるかもしれない駅舎の方である。隊長は決断した。
「副隊長以下二名はここで消火活動を継続し、応援部隊と合流して消火活動を続行! 我々は駅舎へ向かう!」
「了解!」
副隊長ら三名を残し、残る隊員は消防車に乗り込んだ。この踏切から駅舎に行こうと思ったら、いったん北上して国道に出てから、駅舎へ続く唯一の道に出なくてはならない。だが、北の国道に出た消防車がその駅舎へ続く道の入口に差し掛かったところで、急に運転する隊員がブレーキを踏んだ。
「おい、どうした!」
「こ、これは……」
消防車の目の前……そこには一切除雪がなされておらず、雪が積もったまま足跡一つない道が広がっていたのである。軽く一メートル前後は積もっているだろうか。当然、このままでは消防車も進む事は出来ない。
「除雪車を回すようにさっきの道庁の連中に連絡しろ! このままじゃ先へ進めない!」
「至急手配します!」
慌てて一人の隊員が関係各所に連絡する。と、それに重ねるように隊長は不可解な指示を出した。
「それと、誰かカメラを持っていないか?」
隊長の言葉に、思わず誰もが首を傾げる。
「どうするんです?」
「この道を撮っておくんだよ。状況次第では、この道に足跡一つなかったって事が問題になるかもしれないからな」
……その後、除雪車が到着し、駅舎まで五〇〇メートルあるこの道を除雪するのに一時間前後かかる事となった。消防隊が駅舎に到着した時にはすでに火は燃えるものがなくなって沈静状態になりつつあり、彼らの仕事は燃え残った火種を消すだけに終わった。
幸いにも脱線した電車の方は白滝運転手が重傷を負ったものの他に被害者はなし。駅舎の方も、道に足跡一つなかった事から、当初犠牲者はいないはずだと考えられていた。
だが、朝になって行われた事後調査の結果、その希望はあっさり打ち砕かれた。なぜなら焼け落ちた駅舎の一角から、一体の焼死体が発見されたからである……。
それから半年後、この事件は大きく動き出す事となる。