第五章 結末
榊原と真犯人……芹澤佐奈美との一騎打ちが終わってから三十分後、彼女の身柄は小笠原署の取り調べ室へと移されていた。何年ぶりに使うかもわからない取調室で、畠山は緊張した様子で佐奈美と向かい合っていた。その背後には、アドバイザーという形で榊原が控えている。記録係の先輩警官を含め、部屋にいるのはこれで全員だった。
連絡では、捜査一課は明日の朝一番でやってくるらしい。が、容疑者が挙がった以上、一課が来るまでにある程度の取り調べは必要だ。そして署長との相談の結果、取り調べには畠山を榊原がサポートする形で行う事になったのである。
目の前に座っている佐奈美はすでに水着姿ではない。クルーザーに残されていた私服は証拠になる可能性があるため押収され、やむなく署に保管されていた署員用の作業服を割り当てられている状態だ。が、その佐奈美はそんな事も気にならない様子で、どこか疲れたような虚ろな視線を畠山や榊原に向けていた。
「最初に確認しておきます。君が……榊原さんの推理通りにあの二人を殺害したんですか?」
畠山の問いに対し、佐奈美は涙ぐみながらも緩慢な動作で頷いた。榊原の一騎打ちの果てに、もう反論する気も起らないようだった。
「動機も、榊原さんの言った事が正しいんですか?」
「……だって、本条おじさんを助けるにはそれしかなかったから……」
ここで佐奈美は、本条の事を「本条おじさん」と呼んだ。それも気になるが、まずは事件の解明が大切だった。
「君と被害者二人の関係を聞かせてください」
「……二年前、高槻お兄ちゃんが自殺したすぐ後に、池永さんから連絡があったの。どうやって調べたのか、私と高槻お兄ちゃんが兄妹みたいな間柄だった事を知っていたわ」
声をかけたのはどうやら池永のようだったらしい。
「彼は何と?」
「……自分は高槻お兄ちゃんの父親で、七年前の汚職事件の結末に納得していないって。その池永さんも、高槻お兄ちゃんが自分の息子だって知ったのは、私に連絡する少し前だったみたいだけど」
「その経緯を聞いていますか?」
「高槻お兄ちゃんのお母さん……礼子さんが、お兄ちゃんが出所する前に病気で死んだ事は知ってる?」
「えぇ」
「礼子さん、自分が余命いくばくもないって知って、死の直前に手紙で全部池永さんに知らせたらしいの。でも、その手紙が手違いで届かなくて、届いたときにはお兄ちゃんが出所した後だった。慌てて探したらしいんだけど行方が分からなくて、結局そうこうしているうちに二年前の自殺事件が起こって……」
「すべてが遅かったというわけですか」
「……池永さんは高槻お兄ちゃんが転落するきっかけになったあの汚職事件の顛末に納得していなかった。末端の二人だけしか関与していなかったなんておかしいって……確かに高槻お兄ちゃんは汚職にかかわったかもしれないけど、それを指示した人間が必ずいるはずだって。そして……それは私も同じ意見だった。だから、私も池永さんの調査に協力する事にしたわ。その後で、私たちは長良さんに接触した」
「長良さんも、あの汚職事件に納得していなかった?」
「えぇ……。彼は柳さんが自殺した後も、自分なりにあの汚職事件の事を調べていたの。だからこそ、彼はあの会社を辞める事なく仕事を続けていたのよ。彼と私たちの利害は一致していたわ」
「それで、君たち三人は一緒に調査を始めたという事ですか?」
佐奈美は黙って頷いた。
「それがどうして、こんな殺人事件に?」
「……今年に入ってすぐに、変な情報が入って来たの。当時の地検特捜部が経産省や太平洋サルベージの上層部と裏取引をして、上層部の逮捕を見逃す代わりに柳さんや高槻お兄ちゃんにすべての罪を着せて事件を決着させたって、そんな情報だったわ」
畠山は思わず榊原と顔を見合わせた。佐奈美の告白は続く。
「私は半信半疑だったけど、池永さんたちは信じているみたいだった。それで詳しく調べてみたら、あの事件の特捜の担当検事が本条おじさんだってわかって……。私、そんな事は絶対にあり得ないって思った。おじさんは真剣に私のお姉ちゃんの事件を調べて、犯人を逮捕してくれた。私を救ってくれたの。あの時……おじさんが犯人を逮捕したって報告しに来た時の事は今でも覚えてる。そんなおじさんが不正捜査をするなんて絶対に信じられなかった。でも……あの人たちはそれが真実だって思っちゃったみたいで……」
「君はその事を言わなかったんですか?」
「言える雰囲気じゃなかった。もし、私が本条おじさんと関係あるってわかったら、逆に私が殺されかねない雰囲気だったの。そして……あの人たちは具体的なおじさんへの復讐方法を考え始めた」
「それが……今回の潜水艇を使ったトリックだったと」
佐奈美は頷いた。
「考えたのは池永さん。太平洋サルベージに依頼をして長良さんが自然に犯行に加われるようにした上で、私には自然な形で島の近くで待機するように持ち掛けてきた。ちょうど友達に誘われた合コンで父島に別荘を持ってる慎吾君と知り合ったところだったから、学校と性格を偽って彼に近づいて、クルーザーをあの海域に誘導する計画を立案したの。でも表向きそうしながら、私は何とかして彼らを止められないかと色々細工していたわ」
「……もしかして、あの脅迫の手紙は、他ならぬ君が入れたものなのか?」
不意に後ろから榊原が問いかけた。これに対し、佐奈美は肯定の仕草を見せる。
「そうよ。そうすれば、おじさんが警戒してくれると思ったから。実際、それでおじさんは探偵さんを呼んだんだしね。でも、具体的な対抗策がなされる前に、池永さんたちは予定よりも早く今回の殺害計画を強行しようとしたの。予想以上に計画の準備が早く済んだからみたいだったけど、私からしてみれば最悪。もう間に合わないと思った。だから、おじさんを守るには私がああするしか……」
そこまで言って佐奈美は俯いてしまう。
「そして、君は今回の事件を引き起こした。そういう事ですか?」
「潜水艇のスペックや海底の状況はあらかじめ調べてあったから、彼らを殺してもうまくごまかせる自信はあった。私は、予定通りクルーザーの傍に浮上してきてハッチを開けて潜水艇の上に立った池永さんから『バランスが悪いから持っていてあげる』って言って凶器のナイフを預かると、それで立て続けにあの二人を刺殺した。二人とも、何が起こっているのかわからないままあっさり死んでいったわ……」
「小久保さんは気づかなかったのですか?」
「気づかれないようにあらかじめドリンクに睡眠薬を入れておいたの。だから、彼は何も知らないはず」
どうやら、クルーザーのキャビンに転がっていたあの飲食物に仕込まれていたらしい。後で調べる必要性があった。
「あとはすべて、探偵さんの言った通り。正直……今はむなしいだけ……」
重苦しい空気が取調室を支配した。と、そんな中、榊原がこう質問する。
「一つだけ確認したい。池永教授は本条さんが汚職事件で不正捜査をしたという情報から今回の事件の計画を立てたと言ったが……具体的にその情報はどこから?」
だが、これに対して彼女は力なく首を振った。
「わからない……。でも、池永さんはかなり信憑性が高い情報だって……」
「そうか」
そう言ったのを最後に、榊原はそのまま押し黙ってしまったのだった。
「何度も言うが、俺は不正捜査をした覚えは一切ない。そもそもあの事件は上層部を立件できなかった事で、検察も相当批判にさらされたんだ。捜査本部が解散した時は、誰もが涙をのんで悔しがった。当時特捜にいた検事に聞いてもらえれば、みんなそう答えるさ」
小笠原署のロビーで、取調室から出てきて彼女の話を伝えた榊原に対し、本条はロビーの長椅子に座りながらはっきりとそう言った。
「しかし、池永教授と長良パイロットがその情報であなたを恨んだ事は確かです。それも殺意を抱くほどに」
「だが、覚えがないのも事実だ」
その言葉に、榊原は真剣な表情でこう言った。
「いくら復讐で頭がいっぱいだったとはいえ、池永教授も馬鹿じゃない。そんな彼を騙そうと思ったら、それなりに説得力のある情報でないと無理です。逆に言えば、そこまでして彼らに対して本条さんに対する恨みを抱かせたかった人間が存在する事になります」
「何が言いたい?」
「……この事件、まだ裏があると私は考えています」
榊原ははっきり断言した。それに対し、本条も少し怖い表情で言葉を繋ぐ。
「俺に殺意を持っていた何者かが池永たちに嘘の情報を吹き込み、俺に殺意を抱かせて奴らに俺を殺させようとした……って事か?」
「大まかにいえばそんな推理ですね。もし、犯行トリックがばれても捕まるのは池永教授たちだけで、黒幕自体は自分の手を汚す事無く計画を完遂できます。そもそも、池永教授たち本人に自分が操られていた何て認識がないんですから、ある意味で完全犯罪です。ただ、今回は芹澤佐奈美があなたに恩を感じていて、犯行直前に池永教授たちを殺害してしまうという誤算があったという事でしょうが」
「俺とあの嬢ちゃんのつながりを知らなかったって事だろうな。ま、十年前の轢き逃げ事件の時の俺は公判部じゃなかったから、俺が捜査に関与していたのを知らなかったのも無理はない。あの手の事件で表に出るのは実際に公判を取り仕切る検事で、実際の捜査に携わっていた検事はほとんど表に出ないからな。それこそ捜査の際に触れあった遺族でもない限り、そんな検事がいた事を知るのは難しいだろう」
「えぇ。池永教授が本条さんと芹澤佐奈美のつながりを知らなかったのも、同じ理由だからでしょうね。息子と佐奈美が知り合うきっかけになった事件ですから調べたとは思いますが、その時でてくる検事の名前は間違いなく公判部の検事でしょうから」
「それが池永最大の読み違いにつながるわけか。嬢ちゃん……俺のために自分の手を汚す必要はなかったのに。そんな事をお姉さんも望んじゃいねぇだろうよ」
本条は少し悲しそうにそう言ったが、やがて首を振って本題に戻った。
「それはそうと、問題は……誰が俺を殺そうなんて考えたかって事だな。例えば問題の七年前の汚職事件の関係者が今になって俺を消そうとしたとかか? 確か、あの時逮捕できなかった上層部の一人……経産省資源エネルギー庁長官が、今は経産省事務次官になっていたはずだ。己の汚点を消すために捜査状況をいちばんよく知っている俺を消そうとしたとか?」
「いえ、このやり方だと怒りの矛先が本条さんじゃなくその時の上層部に向いてしまう可能性も捨てきれません。また、仮に成功しても、本条さんの死から汚職事件に対する再調査という事態に発展してしまう可能性もあります。こんなやり方をした奴がそんなリスクの高い方法をとるとは思えませんね」
「ううん……」
本条は呻きながら考え込んでしまった。
「まぁ、この点に関してはもう少し調査をしてみるつもりです。ここまで来たら乗り掛かった舟ですしね」
「すまないな」
「いえ、これも仕事ですから。じゃあ、ひとまず今日はこれで。瑞穂ちゃんを宿に待たせているものでしてね。明日にでも改めて本条さんの家をお訪ねしますよ」
そう言うと、榊原は一礼して警察署から去っていった。それを見送りながら本条が一息ついていると、傍らに人影が立った。見上げると、そこには畠山が立っていた。
「おぉ、取り調べご苦労さん。嬢ちゃんは?」
「全部素直に話しています。一課が来次第、引継ぎが行われるでしょう。あぁ、そうそう。本条さんに伝言があります」
「何だって?」
「『こんな事になって、ごめんなさい』だそうです」
「そうか……」
本条は複雑そうに言った。と、畠山は一瞬何か躊躇するような表情を見せたが、やがて何か決意したのか小声で本条に話しかけた。
「あの……聞いてもいいですか?」
「ん? 何だ、急に改まって?」
「本条さんは、あの榊原って探偵の事について知っているんですよね?」
その問いに、本条は素直に頷いた。
「まぁ、奴の刑事時代に一緒に仕事をしていた事もあるからな。一通りの事は知っている」
「教えてください。あの人、一体何なんですか? 今回の事件、協力すると言われた時は正直僕は半信半疑でした。こんなさえない中年男性が何の役に立つのかって思っていたんです。それは捜査中も一緒でした」
そこで畠山は拳を握りしめる。
「でも、実際に犯人との直接対決をしていたときのあの人の推理力は尋常じゃなかった。電話口で捜査一課長が言ったっていう『怪物』の意味がよくわかりましたよ。あの人は一体何者なんです? 元刑事だとは聞いてはいますが……どうしてあんな推理力を持っている人が警察を辞めて、さえない私立探偵なんてやってるんですか?」
本条はその問いに答えるべきか少し迷っているようだったが、やがて息を吐いて小声で語り始めた。
「……一九九一年頃だったかと思うが、当時の警察庁刑事局長が主導して警視庁刑事部捜査一課内に新しい捜査班が設立された。警視庁刑事部捜査一課十三係……当時凶悪化していた各種犯罪に対処するため、キャリア、ノンキャリアの区別にかかわらず捜査能力の優秀な刑事ばかりを集めて設立された少数精鋭の最強の捜査班だった。リーダーに抜擢されたのは沖田京三警視。この名前に心当たりは?」
「そ、それは……今の警視総監の名前では?」
うわずった声を出す畠山に、本条は小さく頷いた。
「そうだ。そこからこの捜査班は『沖田班』と呼ばれる事になったが、実際、各種優秀な刑事が集まっていたこの捜査班の実力は並大抵のものじゃなかった。人数わずか五人ながら、関与した事件の解決率はほぼ百パーセント。沖田班が『警視庁史上最強の伝説の捜査班』と呼ばれるようになるまでそう時間はかからなかった。そして……そんな沖田班の中でも『切り札』と呼ばれる一人の刑事がいた」
そして、本条は畠山をじっと見つめながらはっきり告げた。
「それが、当時警察学校を卒業したばかりの交番巡査の身ながらある殺人事件を解決し、それをきっかけに沖田班に配属された男……榊原恵一君だった」
その説明に、畠山は息を飲んだ。本条は話を続ける。
「あいつが何よりも恐れられたのはその驚異的な推理力ゆえだった。推理力や論理構築力においてあいつの右に出る者はおらず、事実上、最強の捜査班である沖田班のブレーンとして数々の犯罪者を追い詰めてきた。あいつは沖田班の頭脳の役割を果たしていたんだよ。そのすさまじさは、あいつがノンキャリアながら二十八歳の若さで警部補に昇進した事からもわかると思う」
思わず息を飲む。三十歳で巡査部長の畠山からしてみれば、二十八歳で警部補などというのはまさに雲の上の話だった。
「そんな人が、どうして刑事を辞めて探偵なんかに?」
「……一九九八年にある事件が起こったんだよ。覚えていないか? 都内で政治家が立て続けに殺されたという事件だが」
畠山が首をひねったが、本条は気にする様子もなく話し始める。
「大量の被害者を出すひどい事件だった。この事件を担当したのが沖田班だったんだが、事件は時の有力政治家や、さらに内閣総理大臣までもが容疑者になる大規模なものに発展してしまった。で、この時捜査方針をめぐって、事件を政治と切り離したがっていた当時の警視総監と、相手が誰であろうとあくまで捜査を続行すべしと主張した警察庁長官が対立した。この警察庁長官が沖田班を設立したあの刑事局長なんだが、要するに沖田班は警察上層部の派閥抗争に巻き込まれてしまったんだ」
息を飲む畠山に対し、本条は言葉を続けた。
「捜査の結果、一人の男が容疑者として浮上した。事件を一刻も早く終わらせたがっていた警視総監はその男を即座に逮捕するよう命じたが、榊原君は彼を容疑者とする方針に反対意見を唱えた。彼が犯人とは思えず、容疑者は他にいると言ってな。が、それは聞き入れられず、圧力をかけてくる警視総監に対し、やむなく榊原君は苦渋の決断の末、全責任を自分が負う形でその男の逮捕に踏み切った。だが、その方針に反発した沖田班の刑事の一人が勝手に単独捜査を行い……一九九八年十二月、悲劇は起きた」
「一体、何が……」
その答えは、畠山の想像以上に衝撃的なものだった。
「その単独捜査していた刑事が殺されてしまったんだよ。しかも、それまで犯人が使用していたものと同じ線条痕を持つ拳銃で脳天を撃ち抜かれた上、現場には『無能な警察は無実の人間を逮捕し、刑事を犯人に殺された』という犯行声明が残されていた。……それは警察が間違った犯人を逮捕し、その間に仲間の刑事を犯人に殺されるという大失態を犯したという事に他ならなかった。事態を受けて榊原君は即座に逮捕した男を釈放しようとしたんだが……ここでさらに悲劇が起きた。留置所に駆けつけたとき、その男はシャツで首を吊って自殺してしまっていたんだ」
「なっ……」
絶句する畠山に、本条はため息をつきながら話を続行する。
「警察は無実の人間を逮捕した挙句自殺されてしまった……。この状況に、もはや捜査本部は完全なパニック状態になってしまってね。責任を逃れようとする警視総監はすべての責任を榊原君に押し付け、最終的に当時の刑事部長と榊原君が捜査失敗の責任を取って辞職……というより事実上の懲戒解雇に近いな。沖田班は解散し、他の捜査員も根こそぎ処分を受けるという警察史上最大規模の大スキャンダルに発展した」
本条はどこか遠い目をして告げる。
「そして、あいつは三十二歳の若さで警察を去り……品川の裏町に探偵事務所を開いた。以後、奴は私立探偵という形で、数々の事件を解決し続けている。表向き大失態を犯して辞めた事になっているとはいえ、警察内部であいつに対する評価は未だに健在でな。仮にも沖田班の元ブレーンと言うだけあって、今でもあいつに非公式に協力を求める刑事は多いと聞く。上層部も黙認しているそうだ。何しろ、辞めさえしなければ今の警視庁捜査一課長の椅子はあいつの物だったというのが彼を知る刑事たちの一般的な評価だからな」
一見さえないあの探偵の予想外に壮絶な過去に、畠山は何も言えなくなっていた。
「探偵になったとはいえ……あいつの犯罪解決に対する態度は間違いなく本物だよ。一度関与した事件は徹底的に調べ上げ、たとえ何年経とうがひたすらに真相を暴き続ける。だからこそ、刑事たちは今でも彼の事を信用する。外見は地味で、奇才でも天才でもない。一見すると何の特徴もない凡人に見えてしまう。だがその本質は、ただひたすらに探偵の本質たる推理力を特化し続け、地道な調査でどんな難事件でもすべてを明らかにしてしまう論理と推理の『怪物』。その様子から、彼を知る人間はある二つ名を彼に授けた」
先程、瑞穂に言われた異名を、本条はさらに重みの増した言葉ではっきりと告げた。
「他のすべての要素を捨て、徹底的に探偵の王道を行く男……『真の探偵』と」
それから数時間後、畠山は取り調べを他の警官に任せて、いったん自宅に帰る事を許されていた。都会と違って満天の星空が頭上を埋め尽くす中、畠山は港の近くの海沿いの道を自転車を押してとぼとぼと歩いていた。
何とも言えない激動の一日だった。朝起きたときは今日一日がこんな事になるとは全く予想もできないでいた。とはいえ、明日になれば本土の一課の刑事たちもやってくる。それまでに休めるだけ休んでおかなければならないと畠山が足を速めたその時だった。
「どうも、お疲れ様です」
突然、前からそんな声をかけられ、畠山は驚いて足を止めた。考え込むあまり、前をよく見ていなかったようだ。改めて前を見ると、そこには見知った顔の人間が穏やかな表情で立っていた。
「さ、榊原さん……」
「あなたともう少し話をしたいと思いまして、こうして星を見ながら待っていました」
そう言うと、榊原は照れたように笑った。その振る舞いや表情からは、何度見ても……夕方に見たあの緊迫する推理勝負を見た後であっても、この男がさっき本条の語ったような壮絶な過去の持ち主であるようには畠山には見えない。だが、そう見えない事が逆に恐ろしいという事を、畠山もいい加減にわかるようになっていた。あれだけの迫力で犯罪者と対峙できる人間が普段それをまったく表に出さないという事自体がおかしいのだ。畠山は彼にどう接するべきか今さらながら躊躇してしまった。
「……本条さん辺りから、私の過去の話でも聞きましたか?」
と、そんな様子を見透かしたのか、榊原は苦笑しながらそう問いかける。畠山は思わず肩を震わせながら、榊原を見やった。
「どうしてそれを?」
「いえ、今日一日一緒に捜査して、あなたの性格的にそうするのではないかと思いましてね。瑞穂ちゃんからも色々私の事を聞いていたようですし」
「そうですか……」
相変わらずの洞察力に、畠山はもはや呆れを通り越して感心する他なかった。
「それで、お話というのは? 僕もそんなに時間は取れませんが……」
「いえ、たわいもない話です」
榊原は何の気もない風に、さらりとその言葉を口に出した。
「畠山さん、あなた、どうして本条さんを殺そうとしたんですか?」
その言葉が発せられた瞬間、畠山の思考は一瞬真っ白になったかと思うと、直後、先程本条に榊原の過去を聞いた事を言い当てられた時よりも激しい動揺が襲い掛かってきた。が、それを強引にねじ伏せながら、畠山は榊原に問い返す。
「な、何をいきなり……冗談にしても言っていい事と悪い事が……」
「私が冗談を言う男だと、今でも思っているんですかね?」
そう言って振り返った榊原の表情はもう笑っていない。それは、夕方に芹澤佐奈美との対決の際に見せていた冷徹な『推理の怪物』としての表情だった。ただ違うのは、その矛先が今回自分に向いているという点である。いきなりの豹変に畠山は思わずここから逃げたくなったが、何とかその場に踏みとどまる。が、榊原は続けてこう告げた。
「いや、この言い方は適当ではありませんね。こう訂正しましょう。あなたはどうして本条さんが不正をしたなどという偽情報を池永教授たちに流し、殺害動機を抱かせようとしたんですか?」
もはやこの場の状況は一変していた。ここまで来て、畠山は彼がこんな場所で自分を待ち伏せし、最初穏やかな表情から会話に入ったこと自体が、自分の動揺を誘うための一種の罠だったという事を実感していた。
「何が言いたいのか僕には……」
「芹澤佐奈美の証言では、池永教授は問題の偽情報の収集先を『信頼できる筋』と言っていたそうです。しかし、この状況における信頼できる情報筋というものは限られているはずです。問題の情報は検察が経産省や太平洋サルベージの上層部と取引して柳文菜や高槻泰成にすべての罪を着せたというもの。この情報を信じさせようと考えれば、それができる立場の人間はそう多くありません。例えば……その情報提供者が、実際にその時検察の動向を知る事ができる立場にいた、簡単に言えば捜査関係者の一人だったとしたら」
話がどうつながっていくのかわからず、畠山は緊張しながら言葉を返す。
「それが……それが僕とどう関係あるんですか! 正直、まったくわけが……」
「前の勤務先は渋谷署だったそうですね?」
遮るように突然そう言われて、畠山は言葉を詰まらせた。
「な、何でそれを……」
「東亜短大卒業後、警視庁に就職。警察学校卒業後に二十二歳で渋谷署地域課に配属……要するに交番巡査ですね。そして、四年前にこの小笠原警察署へ異動。半年前に巡査部長に昇進し、今に至る。……改めて亜由美ちゃんに頼んで調べてもらいました」
榊原は何でもない風に言う。が、畠山としはいきなりの事に完全にパニック状態だった。
「どうして……僕の経歴を調べるなんて……」
「七年前の事件の際に自殺した柳文菜の自殺現場は自宅近くの公園です。彼女の自宅は渋谷区。……渋谷署の管轄内です」
畠山の問いに答える事無く榊原はそう言うと、顔を真っ青にしている畠山を見やった。
「ずばり聞きますが、七年前、あなたはこの自殺事件に何らかの形でかかわっていたのではないですか? そうでなくとも当時渋谷署にいたなら知っていて当然の事件です。何も知らないという事はないはずですが」
「よ、よく覚えていません。もう七年も前の事ですし……」
畠山としてはやっとそう言うのが精一杯だった。が、榊原は容赦がなかった。
「しらばくれるのはもうやめにしましょう。畠山さん、あなたが柳文菜を最初に発見した警察官だという事は、もうすでにわかっているんですよ!」
もう畠山としては絶句するしかなかった。が、ここで押し黙るわけにはいかない。
「そんな……何を根拠にそんな事を……」
「今回の事件を調べていた時の事です。問題の柳文菜の事件の話題が出たとき、あなたはこう言いました。『その交番巡査があと少し早く発見していたら、彼女は助かっていたかもしれないって事ですか』と」
「そ、それが何か……僕は何もおかしなことは言って……」
「どうしてあなたは発見した警察官の階級が『巡査』だとわかったんですか?」
榊原は畠山の言葉を遮りながら鋭く切り込んだ。
「……え?」
「事件の概要を報告した亜由美ちゃんは『巡回中の警察官が見つけた』としか言っていません。なのに、あなたはその警察官が『巡査』であるとはっきり言った。私はこの発言が引っかかったんです」
「じ、事件の捜査に集中していたあの状況で、そんな細かい発言を聞いていたんですか?」
「もちろんです。人の話を聞かずに探偵なんか務まりませんからね」
間髪入れずに榊原は切り返す。畠山にとっては信じられない思いだったが、榊原の行動はさらに予想の斜め上を行った。
「だからついさっき、念のため渋谷署に直接この件を問い合わせました」
「は?」
「昔一緒に捜査した刑事が今でも渋谷署にいましてね。彼に話を聞いたんですが、その刑事いわく七年前のあの事件の際に現場を発見したのは、確かに当時渋谷署地域課に在籍していた畠山武則巡査……あなただという事です。この件に関して調べはすでにすんでいるんですよ。今さら否定しても無駄です」
そして、絶句する畠山に対して榊原はこう付け加えた。
「それともう一つ、彼には聞いた事があります。七年前に起こった柳文菜自殺事件……その経緯です」
「な……なぜ……」
もはやどう返していいのかわからない畠山に対し、榊原はここぞとばかりに攻め立てる。
「この事件、汚職事件の容疑者の突然の死という事で当初は殺人の疑いありという事で捜査本部が立ちあげられていたそうですね。あなたは交番巡査ではありましたが、事件の第一発見者として捜査会議にも出席していた。そして、この捜査本部には汚職事件と関係ありという事で検察……東京地検特捜部からも捜査員が派遣されています。その捜査員というのが、当時汚職事件の捜査をしていた本条検事。そうですね?」
「それは……」
畠山は否定できなかった。すでに渋谷署に調べが入っている以上、否定するだけ無駄なのである。畠山は覚悟を決めると、一度息を吸ってこう答えた。
「でも……それが何だっていうんですか! 確かに榊原さんの言うように、僕はあの事件の捜査本部にいました。それは認めます。でも、それが今回の事件とどう関係して……」
「どうしてその事実をさっきの捜査中に言わなかったんですか?」
畠山の反論を、榊原は容赦なく一刀両断する。
「ど、どうしてって……」
「今日の捜査で、太平洋サルベージによる汚職事件と柳文菜の自殺についての話題が出ていました。にもかかわらず、あなたはまるで初めてその事件を知ったかような反応をし、さらには自身が柳文菜の自殺事件の第一発見者である事を隠した。普通は言うでしょう。何もやましい事がなければ」
「あ、えっと、その……」
畠山は何か言い返そうとするが、咄嗟の反論が何も浮かんでこない。そして、榊原はその隙を見逃すような男ではなかった。
「あなたはこの事件に自分が関わっている事を隠そうとした。では、それはなぜなのか? 可能性として考えられるのは……その自殺事件に自分が関わっていた事が私にばれると何かまずい事があったから、という事になるでしょう。それでは、そのまずい事というのは何なのか? 渋谷署に聞いた自殺事件の捜査の流れの中に気になる点はなかった。ならば考えられるのは、あなた個人と事件の間に何かあったというものです。例えば……あなたと被害者の間に何か個人的なつながりがあったとか」
「っ!」
畠山の顔色が変わるのを見て、榊原は確証を持ったかのように不敵な笑みを浮かべる。
「当たりですか」
「ち、違……そんなの、何の証拠も……」
「証拠は学歴です。柳文菜の最終学歴は東京アジア短期大学ですが、その東京アジア短期大学の略称は『東亜短大』となるはずです。これはあなたの出身大学ですよね? しかも、七年前の時点で柳文菜は二十三歳ですから、今年三十歳のあなたと年齢が一緒です。つまり、あなたと柳文菜は同じ時期に同じ大学に在学していた事になります」
「偶然です!」
畠山は即座にそう言うが、焦っているのはあまりにも明白だった。一方、榊原は対照的に冷静に切り返す。
「なるほど、偶然ですか。では、同じ大学出身のあなたが柳文菜の遺体の第一発見者だというのも偶然だというつもりですか?」
「そ、そうです! ないとは言えないでしょう! 大体、それが何で僕が本条さんを殺そうとする話につながるんですか! それが説明できない限り……」
「柳文菜は本当に自殺だったんでしょうかね?」
唐突に榊原はそう告げた。
「……は?」
「渋谷署の話では、当時の捜査本部は太平洋サルベージによる口封じの可能性を考慮して、汚職事件の関係者を徹底的に調べたそうです。しかし結果はシロ。汚職事件の関係者に犯人の条件に合致する人間はおらず、これが決め手となって最終的に事件は自殺判断されています。しかし……もし、この柳文菜の死に問題の汚職事件が一切関係していなかったとすれば? 彼女の死が自殺ではなく殺人で、その動機が汚職事件に関係のない個人的なものだったとすれば……汚職事件で頭がいっぱいだった当時の捜査本部がその可能性を見逃してしまった事は否定できません。そう考えれば、あからさまに怪しい人間が一人いるはずです。『第一発見者』というね」
そう言うと、榊原は畠山を睨みつける。それを見て、畠山は最悪の可能性に思い至った。
「ま、まさか……僕が柳文菜を殺したと、そう思っているって事なんですか!」
畠山が引きつった声で問うと、榊原は無言で小さく頷いた。
「まぁ、結論から言えばそうなりますね」
「ふざけないでください! 仮にも僕は警察官ですよ! そんな僕がどうして彼女を殺さないといけないんですか!」
「……彼女、大学では人気者だったみたいですね」
不意に榊原はそう問いかけた。
「当時の男子学生を中心にファンが多かったとか。ただ、残念ながらこういう集団にはたまに対象に対して一方的に特別な感情を抱く不届き者がいる事があります。そんな人間が、もしも彼女が誰か別の男性と交際していると知ったら……今までに社会問題になったストーカー事件の例を挙げるまでもなく、その行動を推測するのは容易い事です」
そう言うと、榊原は正面から畠山を見据えた。
「彼女には長良家久という恋人がいました。それを知った不届き者が、可愛さ余って憎さ百倍と言わんばかりに彼女を自殺に見せかけて殺害した。ちょうど汚職事件が騒がれていて、この局面で彼女が死んでも自殺とされるか、よしんば殺人と判断されても真っ先に疑われるのは汚職事件の関係者という公算があったんでしょう。実際、そうなりましたしね」
「僕が……僕がその不届き者だっていうつもりなんですか?」
震える声で言う畠山に、榊原は小さく肩をすくめた。
「今はまだ推測です。でも、調べればすぐにはっきりするとは思いますよ。例えば、あなたの大学時代の言動を知るくらいの事は数日あればできるでしょう。試してみますか?」
「それは……」
言い淀んだ時点で榊原の勝ちだった。
「遺体に動かした形跡はなかったはず。あればそれだけで明確に殺人だとわかりますから警察も見過ごしはしないでしょう。となれば、犯行現場は発見場所で間違いない。だとするなら、詳細はさすがにわかりませんが、彼女が帰宅途中に現場の公園に立ち寄った際に何かがあって殺害されたと考えるのが筋です。彼女の死因がジュースによる服毒である事を考慮すれば……毒入りのジュースを勧めて殺害したと言ったところですか」
「……黙って聞いていれば、証拠もないのに好き放題言ってくれますね」
畠山は顔を引きつらせながらそう反論した。が、榊原は涼しい顔でこう返す。
「あなたの実家は病院だそうですね。なら、人を死に至らしめるような薬物が保管されていてもおかしくはない。関係者であるあなたなら、それをこっそり持ち出す事は不可能ではないはずです。同じ大学の出身で第一発見者でもあり、なおかつ毒物の入手経路まである……これで疑うなと言う方に無理があるでしょう」
「ですが……」
畠山はさらに何か言おうとするが、榊原はそれを無視して続けた。
「さて、結局あの事件は最終的に自殺という判断が下され、事件から数年後……今から四年前にあなたはこの父島へ異動となりました。しかし、そこであなたは思わぬ再会をしてしまった。他でもない、当時の捜査本部で先頭になって事件を調べていた本条元検事が、よりにもよってこの島に戻っていたんです。本人はあなたを覚えていなかったようですがね。そして、それが今回の事件の直接的な引き金になったと考えられます」
榊原はそう言いながら次第に詰めに入っていく。
「さっきの推理が正しいなら、あなたにとって最も避けねばならないのは、七年前の事件の真相を暴かれてしまう事です。あなたは、そのためのリスクをひたすらに排除し続けた。これは想像ですが、この小笠原署への異動もあなた自身の意思によるところが大きいのではないですか? そうでもなければ、何の理由もなく本土の警官をこの島に移動させるなんて事はいくら上層部でもしないはずですから。要するに、あなたは本土からこの島へ異動する事で七年前の事件から逃げようとしたんです。そんなあなたにとって、関係者である本条さんの存在は地雷以外の何者でもなかったはずです」
畠山は答えない。暗闇の中、すっかり血の気が引いている。
「実際に調べるかという点はあなたに関係なかった。あなたにとっては、事件解決につながるリスクが多少でもあること自体が大問題だったんです。本土ですべてを捨ててこの島に来たあなたにとって、かつて徹底的にあの事件を調べていた本条さんの存在は最後にして最大の懸念材料だった。だから、あなたはどうにかしてそのリスクを消去しようとした。そして、そのためにあなたは偽の情報を池永教授たちにリークし、本条さんに偽りの殺意を抱かせた。それが今回の事件の真実だったというのが私の結論です。あなたにとっては本条さんを消せると同時に、かつて自分の思い人を奪った憎き長良家久や、しつこく七年前の汚職事件を調べ続けていた池永教授たちを自分の手を汚す事無くまとめて排除できる妙案だったはず。いかがでしょうか?」
畠山は何も言わない。否、何も言えない。ただ黙り込んで俯き気味に体を震わせているだけだ。
「……断っておきますが、現時点でこの話は私の推理に過ぎません。ですが、すでにこの件に関して渋谷署が再捜査の構えを見せています。私が何もしなくても、後は渋谷署の捜査本部がすべてを明らかにしてくれるでしょう。汚職事件というノイズがあって、さらにおそらく捜査本部にいたあなたが密かに妨害工作をしていたはずの七年前と違って、今なら渋谷署も正確な捜査ができるはず。あなたがどこに逃げてももう関係ないという事です」
そう言うと、榊原は畠山に背を向けた。
「私の話は以上です。まぁ、これからどうするかゆっくり考えてみてください。自首するもよし、このままどこかへ逃げるもよし……もっとも、ここは絶海の孤島ですから、明日捜査一課が来るまでに逃げ出すなんて不可能ですが」
ではこれで、と言って、榊原はそのまま歩きだしてしまった。後には拳を震わせた畠山だけが残され、榊原の背がどんどん遠ざかっていく。
「う……」
と、不意に畠山は震える唇からそんな声を出した。が、榊原は止まらない。その瞬間、畠山の何かが切れた。
「ウワァァァァァッ!」
自転車を地面に倒しながら畠山はそう叫ぶと、腰から警棒を抜いて前を歩く榊原の方へ向かって走り出していた。そのまま血走った眼で、警棒を思いっきり振りかぶって榊原の背後から後頭部目がけて振り下ろそうとする。直後、星空の下で警棒は振り下ろされ……
次の瞬間、畠山の視界が大きく回転し、そのまま全身に鋭い痛みが走った。
「グエッ!」
畠山は無意識にまるで潰されたカエルのような声を上げていた。何が起こったのかわからずしばし呆然としていたが、ようやく頭が回転してくると、自分がいつの間にか地面にうつぶせに押し付けられているという事に気が付いた。そして、そんな自分の上に右腕をしっかり固めた榊原が乗っていて、自分を拘束している事も。
「な、何が……」
「あなた、私の経歴を本条さんから聞いていたんですよね? だったら、こうなる事くらいわかっていたはずですが」
こんな状況なのに、榊原は静かに、しかしそれでいてどこか厳しい声で答えた。
「私は元刑事です。だったら、職務として柔道くらいは経験しています。まぁ、猛者ぞろいの本庁の中でははっきり言ってそこまで強くはありませんでしたが、それでも危険が伴う一課所属の刑事です。自分の罪から逃げるために離島の駐在を希望した警察官に負けるほど落ちぶれたつもりはありませんよ」
そう言われて畠山は唇を噛んでいた。うかつだった。確かに元捜査一課の刑事なら、このくらいの護身術は身に着けていて当たり前だ。それに気づかないほど動揺していたという事なのだろうが、悔やんでも悔やみきれない話だった。
「ひとまず、私に対する傷害未遂ですね。警察官のあなたに言うまでもありませんが、一般人の私にも法律上逮捕権は認められています。つまり、現行犯でありさえすれば、私でもあなたを逮捕する事は出来るんですよ」
「ぼ、僕は認めない! ここにいるのはあなたと僕だけです! 署に連れていかれても、あなたがいきなり僕を襲ったと言えば……」
畠山は精一杯の反論をするが、榊原は黙って首を振った。
「そう言うと思って、保険は用意しておきました。……もういいよ、瑞穂ちゃん」
その言葉と同時に、後ろの茂みの陰から誰かが姿を見せた。見ると、そこにはビデオカメラを持ったセーラー服姿の深町瑞穂が、勝ち誇ったように微笑みながら畠山にブイサインをしていた。
「今の光景、全部録画させてもらいました! 畠山さんが先生を襲ったのはこれで一目瞭然です」
「そ、そんな……」
その瞬間、畠山は最初からすべて仕組まれていた事を悟った。要するに、自分が榊原の推理に動揺して襲い掛かるところまで織り込み済みだったのだろう。だからこそ、榊原は最後あんなに無防備に自分に背中を見せたのだ。事前に榊原の事を全部聞いていたにもかかわらず、その何重にも仕組まれた心理の罠にまんまとかかってしまった事に、畠山は目の前が真っ暗になったような気分になった。
「さて、退勤したところ悪いですが、今からもう一度あなたの職場に戻るとしましょうか。もっとも、今回はあなたが取り調べられる側ですが」
その言葉に、畠山は今度こそがっくりとうなだれたのだった。
先程自分が佐奈美を尋問していた取調室に今度は被疑者として叩き込まれた畠山は、事情を榊原から聞いた先輩警官たちの鬼のような尋問に観念したようにすべてを自供した。
「文菜ちゃんが……どうしても許せなかったんです」
取り調べ早々、畠山が弱々しい口調で最初に話したのはそんな言葉だった。ちなみに榊原も取り調べに同席しており、厳しい視線を畠山に向けていた。
「畠山、この人が言うように、お前が七年前に柳文菜を殺したのか?」
「……だって、許せなかったんです! 僕に黙って他の男と……長良の奴と付き合い始めるなんて!」
先輩警官の問いに、畠山は今まで被っていた仮面をかなぐり捨てるように叫んだ。それは今までの真面目な警察官の顔ではなく、己の欲望に狂った犯罪者としての顔だった。どうして今までこの男の本性に気付かなかったんだと言わんばかりに、先輩警官は畠山を締め上げるように詰問する。
「七年前、何があったんだ? 話してみろ!」
「……あの日、パトロールの途中にあの公園で文菜ちゃんと出会ったんです」
畠山はポツポツ話し始めた。
「彼女は連日の汚職事件に関する報道ですっかり疲れ果てていました。それで、マスコミのいないあの公園の奥で休んでいたんです。それを見つけた僕は反射的に声をかけました。今なら僕が文菜ちゃんを助けられる……そう思ったんです」
「それがどうして殺すところまで行ってしまうんだ!」
先輩警官の怒声に、畠山は肩を震わせながら絶叫した。
「だって……だってあの子は僕の事を覚えていなかった! 大学時代、あれだけ真剣にアプローチをしていた僕の事を……いくら警官の格好をしていたからって言って、全く覚えていなかったんです! それどころか、あ、あの長良の奴に精神的にどれだけ助けられているかを幸せそうに……だから僕はッ!」
おそらく、本人としては自分を心配して声をかけてくれた警察官にちょっと愚痴を話しているつもりだったのだろう。まさかその警察官が自分に対する歪んだ思いを抱いているとも知らずに……。
「お前……それで彼女を殺したのか!」
「僕の事を無視する文菜ちゃんなんて、そんなの文菜ちゃんじゃない! そんな文菜ちゃんはいらない! 偽者を消すのは当然でしょう!」
畠山は狂気に満ちた目で叫ぶ。が、そんな畠山に対して後ろから榊原があくまでも冷静に問いかけた。
「どうやって殺したんですか?」
「ジュースを買ってきてあげて、そこに毒を入れたんです。文菜ちゃんは疑う事なく飲みましたよ。警官の服装はこういう時便利ですね」
わかってみればトリックも何もない呆れ果てるほど簡単な犯行だった。が、汚職事件の関係者という情報と、捜査本部内に当の犯人がいて、おそらくは密かに捜査の妨害をしていた事が事件を複雑にしてしまっていたのだろう。榊原もそれを指摘した。
「そして、自殺に偽装した後で第一発見者として署に知らせ、その後は捜査本部の内側から捜査状況を捻じ曲げ続けた。そんなところですか」
「全部うまくいくはずだったんです! わざわざ異動希望を提出して本当は来たくもなかったこんな島に赴任する事にも成功した! なのに……今頃になってあの検事がこの島にやってきて!」
「だから、池永教授たちに虚偽の情報を流して本条さんを抹殺しようとした。多分時期的に、あなたが巡査部長の昇進試験のために本土に行ったときに接触した、といったところですか」
「えぇ、そうですよ! 今年の一月に本土に行ったときに、名前と顔を隠した上で『当時捜査本部にいた刑事』と名乗って電話で接触したんです。当時の捜査員しか知らない情報をいくつか言ったら、向こうはあっさり信用しましたよ。うまくいけば、あの長良の奴も犯人として消せて一石二鳥になるはずだった! なのに……何でこんな事になってしまうんですか! あの芹澤とかいう女が余計な事をしなければ! そしてあなたがこの島に来なければ!」
畠山は榊原を睨みながらそう叫んだ。が、榊原は無表情かつ静かに首を振る。
「……正直、あなたには全く同情できませんね。こんな状況でもまだ嘘を重ねるような人間に、同情しろと言う方が無理ですが」
「ぼ、僕は嘘なんか……」
「しらばくれるな!」
唐突に榊原が今までの冷静さを吹き飛ばすように口調を変えて一喝した。冷静な表情からいきなりの豹変に、畠山が思わずすくみ上る。一方周りの警官たちは、この感情の緩急の付け方も探偵として犯人を追い詰めるテクニックの一つである事を実感していた。
「実際、さっきから聞いていれば嘘八百ばっかり言って、反省も何もないじゃないか」
「嘘八百って……僕は本当の事を……」
「なら聞くが、どうしてパトロール中の警官が毒薬なんか持っているんだ?」
その言葉に畠山は口をつぐむ。それを逃さず、榊原は鋭く畳みかけた。
「さっきの話だと、君はたまたま彼女に会って、そこで殺意を覚えるような事を言われて犯行を実行したように聞こえるが、だったら何で君が毒薬を持っていたのかに説明がつかない。これに対する答えは一つ。君はたまたま彼女に会ったわけじゃなかった。最初から彼女を殺害するつもりであの日あの公園を訪れた、そういう事じゃないのか?」
「そ、そんな……そんなわけじゃ……」
「君は最初から公園で被害者を殺害する計画だった。毒薬を持っていた事がその証拠だ。そして、おそらくは公園に彼女が現れるのを根気よく待ち続け、そしてあの日、それが実現した。つまり、これは衝動的に発生した事件じゃない。悪質極まりない計画殺人だ」
そう言うと、榊原は冷たい目で畠山を見やった。
「私は一度受けた事件はどんな事があっても徹底的にどこまでも追及する。隠し事をしようとしても無駄だ。なぜなら、何があろうと私がそれをすべて解き明かすからだ。いずれにせよ、明日になれば一課が到着する。私と一課……二方面から徹底的に追及されて耐えきれる自信が、君にはあるというのかね!」
その瞬間、畠山は体を大きく震わせながら机に突っ伏すと、そのまま小さな子供のように嗚咽を漏らし始めたのだった……。
「いやー、びっくりしましたよ。旅館に行く途中でいきなり『畠山巡査部長が七年前の事件の犯人だ』とか言われて。一瞬、先生がどうかしたんじゃないかって思いました」
「随分はっきり言うね」
取り調べから一時間後、署のロビーのソファで疲れたように座り込む榊原に、瑞穂が少し呆れ気味に話しかけていた。
「でも、正直すっかり騙されました。私から見ても、あの人、普通の真面目な警察官にしか見えませんでしたから。それに、潜水艇の事件の推理の時の様子は、間違いなく何も知らない人間のそれでしたし」
「実際、知らなかったんだろう。奴がやったのは池永教授や長良パイロットをけしかけて本条検事を殺害しようとしたところまで。教授たちが具体的にどんな殺害計画を立てていたのかや、ましてや殺すはずの二人が逆に誰かに殺されてしまうなんて事態は完全に想定外だったはずだ。多分、芹澤佐奈美が教授たちの共犯者だった事も知らなかったに違いない。だからこそ、奴はあの潜水艇の事件を真剣に調べていたんだろう。その点において奴は間違いなく『心の底から事件を解決しようと奮闘する警察官』だったわけだ」
「なるほど」
と、そこへ疲れた様子の本条が姿を見せる。畠山の逮捕を受けて、改めて取り調べを受けていたのだ。どうやら、それが終わったらしい。
「いや……びっくりしたよ。さっき署を出たばかりなのに、まさかこんなに早く黒幕を見つけてしまうとは……。しかもその黒幕が、あの巡査部長だったとはな」
「彼の事は知らなかったんですか? 七年前の渋谷署で一緒だったはずですが」
榊原の問いに、本条は首をひねりながらこう答えた。
「それなんだが……実を言うと全く記憶にない。言われてみれば第一発見者の巡査が確かそんな名前だったが、指摘されるまでは気づかなかった。大体、あの捜査本部には百人以上詰めていたんだ。いくら第一発見者でも、主要な幹部警察官以外の一巡査の名前なんか覚えていない。それに俺は隠居しにこの島に来たんだ。今さら昔の事件を調べようだなんて考えた事もなかった」
「って事は……全部、畠山巡査部長の考え過ぎって事ですか?」
瑞穂が呆れたように言い、榊原が頷く。
「そうなるね。本条さん本人は彼の事なんか一切覚えていなかったのに、後ろめたい事があるせいで自分の事を調べに来たと悪い方へ考えてしまった。それがすべての引き金になってしまったって事だ」
「……何か、皮肉ですね。何も手出ししなければ、昔の罪まで暴かれる事もなかったはずなのに」
「因果応報というやつだ。多分、本人が一番実感しているだろう」
榊原の言葉に、その場を沈黙が支配した。
「……それで榊原君、これからどうするつもりだ?」
「何だかんだありましたが、これで依頼はすべて終わったはずです。後は捜査一課がやって来次第、警察にお任せします。私はもう一般人ですからね。事件が解決した以上、そこに探偵は不要でしょう。明日になったら朝一番で速やかに帰りますよ」
「そうか……」
いつものようにくたびれたサラリーマンのような雰囲気に戻った榊原に、本条はそう言うしかなかった。
「えー、せっかく小笠原まで来たのにもう帰るんですか?」
「元々仕事で来たんだ。終わったら帰るのが筋だろう」
「そりゃそうですけど……」
「大体、今回は君が勝手について来ただけだろう。それに、確かあと一週間ほどで新学期が始まるはずじゃなかったかね? 宿題はどうなっているんだい?」
「うっ、それは言わないでください……」
捜査中と違って何やらくだらない会話をしながら、榊原と瑞穂はその場を去ろうとする。と、二人が署を出ようとしたところで、不意に本条が声をかけた。
「おい、榊原君」
振り返る榊原に、本条は一言だけ、しかし深々と頭を下げながら言った。
「ありがとう。恩に着る」
「……礼は無用です。これが私の仕事ですからね。では」
そう言うと、榊原は小さく手を上げ、そのまま瑞穂と一緒に姿を消した。それを見た瞬間、本条は今度こそこの事件が終わったのだという事を実感するに至ったのだった……。
翌日、小笠原の海の底で起こったこの奇妙な殺人事件は、七年前に起こった殺人事件との関連も相まってマスコミによってセンセーショナルに報じられた。島に到着した捜査一課は芹澤佐奈美、畠山武則の両名を即座に本土へ護送する事を決め、同時にうやむやのまま終わってしまった七年前の汚職事件に対しても、マスコミ主導で再検証が行われつつあった。皮肉な事に、事件の真相が暴かれた事で、池永たちがあれだけ望んでいた汚職事件の真相究明が加速する事になったのである。
だが、その事件の解決の裏側に一人の地味な私立探偵の活躍があった事を知る人間は、事件関係者を除いてほとんどいなかったという……。