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三大密室狂想曲  作者: 奥田光治
第一事件 史上最深の密室『深海800mの殺人』(東京都小笠原諸島父島沖)
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第四章 対決

 午後六時、調査船「大洋」の後部デッキ。内部が血まみれの潜水艇の前に、事件の関係者たちが勢ぞろいしていた。研究者仲間の林に青島、エンジニアの高千穂に、実は池永の愛人だった事が判明した紬、船医の矢崎。そして、なぜか榊原の要請でこの場に連れて来られた本条、小久保、佐奈美の、合計八名である。その八人の前に、相変わらず外見的にはくたびれたサラリーマン以外の何者でもない私立探偵・榊原恵一が立っていて、ゆっくりと全員の姿を見渡していた。畠山と瑞穂はその背後に立っていて、これから始まるであろうこの事件のクライマックスを、固唾をのんで見守っている。

「おいおい、何なんだよ! いきなりこんなところに連れて来られて、一体何を始めるつもりだよ!」

「ねぇ、慎吾ぉ、帰ろうよぉ~。佐奈美、疲れたぁ~」

 未だに何が起こっているのかよくわかっていない風の小久保と佐奈美はそんな風に文句を言う。一方、他のメンバーは一体これから何が起ころうとしているのかわからず、何とも言えない緊張感を漂わせていた。

「そうですね……そろったようですし、そろそろ始めましょうか」

 榊原はそう言うと、海の向こうに沈みゆく夕日をバックに、唐突に一礼して語り始めた。

「お集まり頂きありがとうございます。改めて自己紹介させて頂きますが、今回警察の要請でこの事件の捜査に協力しています、私立探偵の榊原と申します。本土の捜査員たちがやってくるまでまだ時間はかかるようですが、ひとまず一通りの捜査は終わりましたのでここで一度その捜査結果を報告したいと思い、こうして皆さんに集まって頂きました」

 榊原は、最初はあくまで下手に話しかける。それを見て、小久保は少し不安そうな表情を浮かべた。

「おい、さっきから気になってるんだけどよ、一体あんた何を調べているんだよ。ここまで呼び出した以上、いい加減にそれを教えてくれても……」

「殺人です」

 いきなりそう切り込まれて、小久保と佐奈美がギョッとしたような表情を浮かべた。

「……は?」

「他の皆さんは知っての通り、本日午後二時頃、私の後ろにある潜水艇の中で、この調査船で行われていた海洋調査のリーダーをしていた池永太一郎教授と、潜水艇のパイロットである長良家久さんが遺体となって発見されました。死因は両者とも刃物による刺殺。死亡推定時刻は同日午前十時から十一時頃で、その時刻潜水艇は深海約八〇〇メートルにあったとされており、すなわち被害者たちは深海八〇〇メートルの潜水艇という誰も近づく事のできない前代未聞の密室で何者かに殺害されたという事になります。ある意味この事件は、『史上最深の密室』ともいうべき事件なのです」

 改めて榊原に語られて、誰もが重苦しい表情を浮かべる。何度考えてもあり得ない状況での殺人だった。潜水艇に侵入するどころか近づく事さえできない究極の密室。にもかかわらず起こってしまったこの殺人事件に、果たして解法など存在するのかという思いが少なからずあったのだろう。

「嘘だろ……あのおっさんが殺されたってマジかよ……」

 事件の事を初めて知った小久保が顔を青ざめさせて絶句する。普段威張っているのに対し、こういう想定外の事象には弱いようだ。小久保の傍に控える佐奈美も不安そうな顔をしている。

「今回の事件を調べるに当たって最大の壁になるのは、やはりこの深海という特殊な空間で起こった殺人をいかにして成し遂げるかというこの一点です。私はこの事件の調査を請け負った時点で、この謎の密室を解き明かす事がすべてを解き明かす最大の鍵になるものと考えました。それを前提として捜査をしている中で、この事件には大きな矛盾が存在する事がわかったのです。まずはそれを確認しておきましょう」

 そう言うと、榊原は指を立てながら一つずつ捜査でわかった情報を挙げていく。

「まず、潜水艇内部からは被害者の物であるビデオカメラが発見されていますが、このビデオカメラのデータを確認したところ完全にまっさらな状態……簡単に言えば未使用の状態である事が判明しました。つまり、被害者は潜水艇が潜水を開始して以降、一度もカメラを使う事なく殺害されたという事になります。この潜水艇は潜水開始から一時間二十分で目標地点の深海八〇〇メートルに到達する事ができ、これが正しいなら午前十時二十分には目標地点に到達しているはずです。にもかかわらずカメラが使われていないとなれば、少なくともそれ以前に事件が発生したと考える事ができます。最後の通信が午前十時十五分ですから、この場合の事件発生時刻は午前十時十五分から二十分までの五分間に限定されます」

 と、ここで榊原は二本目の指を立てた。

「ところが、この事実に真っ向から矛盾する話が出てきてしまいます。この潜水艇は午後二時前後に浮上して遺体が発見されたのですが、だとするなら先程のカメラによって導き出される事件発生時刻と時間が合わないのです。乗組員が死亡してしまった場合、本来操縦者がいない潜水艇は沈む一方です。が、この潜水艇には自動操縦モードと緊急浮上装置が備え付けられていて、自動操縦スイッチを入れてから一時間は自動操縦で潜水位置を固定する事ができ、さらに深度が一〇〇〇メートルを超えると強制的に浮上する仕掛けになっています。しかし、これら二つを組み合わせたとしても、死の直前に自動操縦スイッチを入れたとして、その犯行時刻は死亡推定時刻ギリギリの午前十一時前後が限界です。十一時頃にスイッチを入れた直後に死亡し、一時間後の正午に自動操縦が切れて沈降開始。二十分後に限界深度の深海一〇〇〇メートルに到達して緊急浮上装置が作動し、その後一時間四十分かけて浮上する事で現実の浮上時間である午後二時となるはずだからです。死亡時刻がこれ以上前だと、潜水艇は午後二時よりはるか以前に浮上してしまって、現実と食い違ってしまいます」

 そこで榊原は淡々と事実を告げる。

「つまり、ビデオカメラを基準とした場合の犯行時刻と、浮上時間を基準とした場合の犯行時刻では、三十分~四十分以上も時間に差が出てしまうのです。深海八〇〇メートルでの殺人を解決するには、まずこの矛盾を解決する必要に迫られるのは自明でした。そこで、どのような場合にこの矛盾が解決するのかを考えてみたのです」

 榊原はそう言いながら可能性を挙げていく。

「まず、最初に考えられる可能性としては、池永教授が目的地点に到着した後もなぜかビデオカメラを使用せず、そのままの状況で本来の犯行時間たる午後十一時前後を迎えてしまったというケースです。この場合、『なぜ教授がカメラを使用しなかったのか』が問題になってきます。次に考えられる可能性としては、犯行そのものは到着以前に終わってしまっていて、その後どういう理屈か自動操縦スイッチがひとりでに入ってしまったという可能性です。この場合、『乗務員が死んで誰もいない空間でどのようにスイッチが入ったのか』が問題になります。では、実際はどちらの可能性だったのでしょうか?」

 榊原は自問自答しながら、しかしなぜか首を大きく振った。

「まず、調査の結果後者の可能性が除外されました。問題の自動操縦モードに切り替えるスイッチのレバーは小細工でどうにかなるタイプのものではなく、散々考えましたが遠隔操作でレバーを操作する方法が思いつかなかったからです。これが下に下げる事で作動するタイプならペットボトルなどの重しを使ったトリックも考えられるのですが、問題のレバーは押し上げるタイプですのでどうにもなりません。自動操縦スイッチに細工を加えるやり方はこれで消える事になります」

 そこで、榊原はもう一つの可能性にも言及する。

「では、前者の可能性はどうかといえば、これだとますます意味がわかりません。調査のために深海に潜っている人間がビデオカメラを使わない状況が想像できないからです。念のためにお聞きしますが、同じ専門家の皆さんにそうした行動に対する心当たりはありますか?」

 この問いに対し、林と青島は互いに顔を見合わせたが、即座に首を振った。

「ねぇな。少なくとも三十分間も全く使わないという状況は理解できない。というか、普通なら目的地に到着する以前から撮影しているもんだ」

 青島が代表して答える。榊原は頷いた。

「だとするなら、ますます状況がわからなくなります。一体あの深海で何が起こっていたのか……。私としては深海の密室以前に、まずこの矛盾を解決する事に全力を傾けるべきという判断に落ち着きました。そこで、被害者の事を調べてみたのですが、その結果いくつか面白い事実が浮かび上がってきました。今から七年前、太平洋サルベージ社で起こったある汚職事件の話です」

 その言葉に反応したのは高千穂だった。

「それは、もしかして柳の事件か?」

「さすがに当事者の高千穂さんはご存知のようですね。今から七年前、メタンハイドレート調査をめぐる太平洋サルベージ社と経産省との汚職疑惑が取りざたされ、直接的に取引に関与していたとされた太平洋サルベージの柳文菜が自殺。経産省側の担当職員だった高槻泰成が逮捕された事件です。事件にはさらに上層部が絡んでいると睨まれていましたが、すべてを知っていたとされる担当社員の柳文菜の自殺によって東京地検特捜部の捜査は挫折し、経産省側の一番下っ端の職員だった高槻の逮捕で終わっています。しかもこの高槻は出所後職に恵まれず、最終的には二年前に自殺してしまっています」

 そう言ってから、榊原は切り札の一枚を切り出した。

「そして、この高槻泰成ですが、その父親が実は池永教授だった可能性が出てきているんです」

「な、何ですって?」

 林が驚いたような表情を浮かべ、愛人だった紬は衝撃のあまり両手で口を押さえている。青島が少し厳しい表情で尋ねた。

「それは、本当なのか?」

「正確なところは今後公式の調査が必要でしょうが、池永教授と高槻の母親・高槻礼子が桜森海洋大学の前身である小森水産大学生物学部の同期生だった事は確認済みです。さらに、当時の友人の話から二人が同じ研究室の所属で非常に親密な付き合いがあったという証言も取れています。そして、高槻礼子は就職後に出産。父親はわからずシングルマザーをしていますが、これ以降池永教授と疎遠になっているという情報もつかんでいます。状況的には限りなくクロです」

 そう言ってから、

「さて、この話が事実だとするなら池永教授は七年前の事件で自分の息子を死に追いやられている事になります。となれば、一つ腑に落ちない行動が出てくる。他でもない、息子の敵であるはずの太平洋サルベージ社に今回の調査の依頼をした事です。もし事件の事を知っていたとすれば、まずありえない行動でしょう。相手は自分の息子を死に追いやった張本人のようなものなのですから」

「確かに、うちに依頼してきたのは池永教授本人だったが……」

 高千穂が困惑気味に言う。

「単に自分の息子がそんな状況になっているのを知らなかっただけじゃないのか? さっきの話だと、その高槻というやつが生まれてから疎遠になっていたようだったし」

 青島がそう言うと、榊原は小さく頷いた。

「その可能性が全くないとは言い切れません。さすがにこれだけで事件と関係があると結びつけるのは弱いでしょう。ですが、それ以外にもこの事件と本件を結び付ける要素があればどうでしょうか?」

「どういう意味だ?」

 そう聞かれて、榊原は唐突に高千穂の方を見やった。

「今までの話はメタンハイドレート汚職事件における経産省側の被疑者に対する話です。が、この事件にはもう一人犠牲者がいます。太平洋サルベージ社の社員で、事件の余波で自殺に追い込まれた柳文菜さんです。高千穂さんは当然ご存知ですね?」

「……あぁ、同期だった」

 高千穂は無表情ながらも少し苦しそうに言った。

「少し調べさせてもらいました。柳さんは天涯孤独の身の上だったようですが、数少ない友人の話だと、当時恋人らしい存在がいたという事です。その恋人は会社の同期だったという事ですが……高千穂さん、あなたですか?」

 この単刀直入な問いに対し、高千穂は黙って首を振った。

「俺じゃない。当時から俺は人付き合いの少ない現場のエンジニアで、事務職の連中がしでかした問題の汚職事件も、言い方は悪いが対岸の火事みたいなものだったからな。彼女の事も名前くらいは知っていたが、直接話した事はあまりない。その辺は会社の人間にでも聞いてもらえればわかる」

「では、誰でしょうか? あなたでないなら、該当する人間は一人しかいないはずですが」

 それに対し、高千穂は肩をすくめながら答えた。

「長良だろうな。俺も何度かあいつから柳と付き合っているという話を聞いた事がある。だから、柳が自殺した後のあいつはしばらく仕事も手につかなかった」

「その状況で、よく会社を辞めませんでしたね。そもそもの自殺の原因は会社にあったはずですが」

 榊原の当然の問いに、高千穂は少し考えた後で首を振った。

「俺にもその辺はわからない。ただ、一度飲んだ時にその辺の事を聞いたら『辞めるわけにはいかない』と言っていた。どういう意味なのかは知らない」

「……いいでしょう。その点については少し置いておきましょうか」

 そう言ってから、榊原は改めて結論付けた。

「いずれにせよ、今の話が正しければ長良さんは柳さんの恋人だった。そして、長良さんもまた、問題の汚職事件で自分の大切な人間を亡くしている事になる。つまり、今回の事件の被害者二人は、それぞれが七年前の汚職事件で大切な人間を亡くしているという共通項を持っている事になるんですよ。一人ならともかく、被害者が二人ともそうだとなればこれはもう偶然だとは考えられません」

「た、確かに……」

 今度は青島も否定できないようだった。何のつながりもないと思われていた被害者たちに思わぬ繋がりが出てきて、にわかにこの場に何とも言えない空気が漂い始める。

「この事件の根幹にはこの七年前の事件が絡んでいるとみて間違いないでしょう。そう考えると、この父島にはもう一人、七年前の事件に関与している人間が存在している事になるんです。それが、ここにいる本条さんです」

 突然名前を呼ばれて、本条が驚いた顔で榊原を見やる。

「本条さんは、七年前の汚職事件の際に東京地検特捜部の検事として捜査の陣頭指揮を執っていました。その本条さんがいる父島に、事件で大切な人間を亡くした池永教授と長良さんがそろってやってきて、最終的には二人そろって殺されている……。こう考えると、少しこの状況は不自然に見えないでしょうか?」

「待て、榊原君。君は何が言いたいんだ。これが深海の密室のからくりとどう関係ある?」

 本条がやや緊張した声で尋ねる。それに対する榊原の答えは明確だった。

「今まで単なる被害者としか思われていなかった池永教授と長良さん。しかし、この二人には七年前の事件で大切な人を亡くしたという共通項があった。その上で、本条さんが七年前の汚職事件の捜査を指揮していた事を考慮すると、ある一つの仮説が浮かび上がってくるんです。そしてその仮説が正しいとするなら、今まで我々が考えていたある前提条件が大きく覆る事となり、それが不可能とされていた深海の密室での殺人を可能にする事になるんです」

「どういう事だ?」

 本条の問いに、榊原はひときわ鋭い声でとんでもない推理を叩きつけた。

「すなわち、池永教授と長良パイロット……この二人が、共謀して本条さんの殺害を計画していた可能性です!」

 その言葉に、夕日に照らされた甲板上が、一瞬にして静まり返ったのだった。


「ふ、二人が俺を殺そうとしていた、だって?」

 榊原の爆弾発言から数秒して、本条が振り絞るような声で問いかけた。

「はい。あの二人は純粋な被害者ではなく、殺人の加害者になろうとしている共犯的な存在だった。これが私の結論です」

「ちょ、ちょっと待て! 何で俺が殺されなきゃならんのだ! 俺はその池永とか長良とかいうやつの名前さえ知らないんだぞ! 確かに俺も検察官として色々な人間の恨みを買ってきたが、会った事もない人間に殺されるなんて言うのはいくらなんでも無茶苦茶だ!」

 本条が気色ばむが、榊原は冷静な表情のまま続ける。

「ですが、何度も言うように彼らは七年前の事件で死に追いやられた柳文菜、高槻泰成の関係者だった。だとするなら、彼らがある一つの恨みを抱く可能性が出てきます」

「恨み、だと?」

「そうです。すなわち、捜査を主導していた東京地検特捜部の捜査の結果、二人が死に追いやられたのではないかという恨みです。それならば、捜査を主導していた本条さんに対し、殺害の動機が発生するのではないでしょうか?」

 一瞬の絶句の後に、本条が顔を真っ赤にして反論した。

「ふ、ふざけるな! あの事件の捜査は適切だった! 確かに、柳文菜が自殺したのは痛恨の極みだったが、間違っても検察の捜査が原因で自殺したはずがない! 彼女の自殺は検察が彼女に対する任意捜査を行う直前の出来事だったんだからな。もう一人の高槻泰成の死に至っては、俺を恨むのは完全に筋違いだろう!」

「えぇ、私もそう思います。客観的に見ても、あの時の検察の捜査に違法性は感じられません。ですが、そうした事情を知らない彼らにとってはどうでしょうか? 当然彼らは、検察の捜査がどのような手順で行われていたかなど知らない。つまり、検察の捜査が原因で柳文菜が自殺に追い込まれたと思い込んでいたとしても無理はないんです。また、高槻泰成に関しても、検察が上層部を逮捕できなかった結果彼一人だけに罪を押し付けられたと彼らが感じていたとすれば、そこには検察に対する『復讐』という動機が成立する事になります」

「無茶苦茶だ……」

 本条は呻くように言う。

「私も無茶苦茶だとは思います。が、もしこの前提が正しいとするなら、本条さんの家に届けられていたあの脅迫文の謎、そして、今回の深海での密室殺人の謎がすべて氷解するんです」

「……もしかして、あの脅迫文は、彼らが俺に送り付けた物だというのか?」

「現状、父島周辺にいる人間の中で本条さんに恨みを持つ可能性がある人間が彼らしかいない以上、その可能性が出てきます。そして、もし彼らが本条さんの殺害を計画していたとすれば、ある前提条件が大きくひっくり返るんです」

 そして、榊原は告げる。

「すなわち、『池永教授たちが予定通りに潜水調査をしていた』という、この大前提が大きく崩れ去ってしまうんですよ」

「崩れ去るって……」

「命題の逆説です。深海の潜水艇内にいる人間を外部の人間が殺す事は出来ない。これを逆に言えば、例えば潜水中に外部で殺人があったとしても、潜水艇内部にいる人間には鉄壁のアリバイが成立するという事になりませんか?」

「なっ……」

 そこから導き出される榊原の推論はあまりに常識外れの物だった。

「要するに、池永教授と長良パイロットは『潜水艇で調査中だった』というアリバイを利用した本条さんの殺害計画を立案していた。そして、これが事実なら彼らがアリバイ工作のために潜水艇の運航に何らかのトリックを仕込んでいた可能性が浮上するのです。そして、もし二人を殺した犯人がこの被害者たちの立てたアリバイトリックを利用して密室を形成していたとすれば……今まで思われていた事件の様相が大きく変化する事になりませんか?」

 あまりの話に誰も口を挟めずにいた。そんな中、榊原はここが勝負だと言わんばかりに一気に畳みかけていく。

「よって、この前代未聞の密室を解くには、まず彼らが実際には完遂できなかったアリバイトリックの全貌を明らかにする必要があります。そして、それが明らかになった時、この殺人を引き起こす事ができる犯人は、たった一人に限定する事ができるのです」

「君は……もう、その犯人とやらがわかっているのかね?」

 本条の押し殺したような問いに対し、榊原は一瞬黙り込むと、少し押し殺した声でこう答えた。

「もちろんです。そして、その人物はこの中にいます。最初にそれを指摘しましょう」

 その言葉に、全員の表情に緊張が走った。そんな彼らを見ながら、榊原はゆっくりと告げる。

「今回の事件……すなわち、池永太一郎教授と長良家久パイロットを殺害した真犯人。それは……」

 次の瞬間、榊原は「真犯人」に指を突き付け、間髪入れずに一気にその名を叫んだ。


「芹澤佐奈美!」


 その瞬間、真犯人……否、佐奈美はビクッと水着姿の体を震わせ、呆気にとられた表情で榊原を見やる。そんな彼女を見ながら、榊原ははっきりと告発した。

「君こそが、今回の事件で二人を殺した真犯人だ!」

 それが、名探偵・榊原恵一と犯人との一騎打ちの開始を告げる合図となった。


「ちょ……あんた……何言ってんだよ……」

 あまりに意外過ぎる犯人の告発に、隣にいた小久保が呆然とした様子で反論した。が、榊原は一向にひるむ様子はない。

「言った通りです。私は、彼女こそが今回の不可思議極まる深海の密室殺人の犯人だと告発しているんです」

「ふ、ふざけんなよ! どこをどう考えれば佐奈美が犯人にならなきゃいけないんだよ!」

 それは他の人間も全く同じ意見のようだった。特に後方で控えている畠山にとって、榊原の指摘した犯人は、あまりに想定外の人間だった。まさか一番関係ない立場にいたと思われていた彼女を犯人として告発するなどと思ってもいなかったからだ。

 一方、当の佐奈美は思わぬ告発に、半泣きになりながら小久保にすがりついている。

「な、何でぇ~。何で佐奈美がそんな言い掛かりを言われないといけないのぉ~。ひどいよぉ~」

「……あくまで、認めないと?」

 だが、そんな状況にもかかわらず、榊原は全く動じる様子もなく佐奈美を見据えていた。その視線を見て畠山は思わずゾッとした。その目は今までのくたびれた中年男性のそれではなく、明らかに佐奈美という犯人を狙う狩人そのものだったからだ。気づけば、佐奈美に対しては口調が敬語から詰問めいたものへと変化している。

 それに気づいているのかいないのかはわからないが、佐奈美は反論を重ねる。

「当然じゃないですかぁ。佐奈美、殺人なんて知らないしぃ。大体、島の近くで遊んでいた佐奈美が、どうやったら沖合の深海にいる人間を殺す事ができるのよぉ」

「そもそも殺害場所が深海じゃなかったとすればどうだ?」

 その発言に、誰もが息を飲んだ。

「何言ってるのか、全然意味わかんない」

「いいか、さっきも言ったように池永教授と長良パイロットは今回の深海調査に紛れて本条さんを殺害しようとしていた公算が強い。だとするなら問題となるのはその手段だ。調査の行程に紛れて、潜水艇に乗っている彼らが島にいる本条さんを疑われる事なく殺害するにはどうすればいいのか、その方法が問題になってくる」

「そんな方法、あるわけないと思うけどぉ」

 だが、佐奈美の反論を無視して、榊原は自分の推理を推し進めていく。

「今回の事件、まずは表向き我々が認識している池永教授たちの潜水行程を確認しておこう。午前九時に潜水を開始した彼らは一時間二十分後の午前十時二十分に目標地点となる深海八〇〇メートル地点に到着。ここで数時間の調査を行った後、再び一時間二十分かけて浮上し、午後二時頃に調査を終える予定だった。彼らの死亡推定時刻は午前十時から十一時の間。ここから我々は彼らが目標到達時刻近辺で殺害されたと考え、必然的にその現場が深海八〇〇メートルだと判断していたわけだが……もし、彼ら自身がこの行程を使って本条さん殺害のためのアリバイトリックを企てていたとすれば、『死亡推定時刻に彼らが深海八〇〇メートルにいた』という事件の前提条件そのものが大きく崩れる事になる」

「どういう事ですか? その行程をどういじれば、深海にいながらその殺人計画とやらを立てる事ができるんですか?」

 林が緊張した様子で尋ねるが、それに対する榊原の解答は単純だった。

「簡単です。潜水艇は沈むもの……すなわち、潜水艇が上下運動しかできない代物であるという先入観を取り除けばいいんです」

「何を言って……」

 そこまで言いかけて、林は何か思いついたように顔を青ざめさせた。

「まさか……」

「えぇ。そのまさかです」

 榊原はそう言って、推理を叩きつけた。

「もしあの時、池永教授たちが潜水艇で潜航するという縦の動きをしているふりをして、実は海中を前進する横の動きを潜水艇に命じていたとすればどうでしょうか。それなら、本来ならこの調査船の傍で下に沈んでいるはずの潜水艇で父島の近くまで接近し、密かに浮上して島に上陸した後、『深海にいる』という鉄壁のアリバイの中で本条さんを殺害するという離れ業が可能になるとは思いませんか?」

 あまりの話に、誰もが絶句した。

「そんな……まさか……」

「さっきも言ったように、これは『潜水艇は沈むものだ』という先入観を逆手に取ったトリックです。高千穂さん、先程聞いた話だと、確かあの潜水艇はわずかながらも前に前進する事ができたはずですね?」

 そう言われて、高千穂は頷く。

「あ、あぁ。深海に流れる海流に対抗するためにある程度は前進できるようにしてある。とはいっても、その速度は秒速四メートルほどで、継続的に前進する事は想定していないが……」

 秒速四メートルとは自転車並みの速度であり、もっとわかりやすく言えば一〇〇メートルを二十五秒で走るような鈍足である。そんな速度しか出せない潜水艇が前進するなど誰も想像しない。だが、榊原は自信ありげにこう続けた。

「秒速四メートルという速度は一見すると遅く思えますが、これを分速に直せば二四〇メートル。時速に直せば約一四四〇〇メートル……すなわち約十五キロメートル。これは調査船がいたという沖合から島までの距離とほぼ同じです。つまり、あの潜水艇でも愚直に前進を続ければ、一時間あれば島までの距離である十五キロメートルを移動する事はスペック的にも充分可能だという事なんです」

 誰もが言葉を失っていた。確かに冷静に考えてみれば当たり前の話ではある。だが『潜水艇は沈むもの』という先入観が、その可能性を完全に頭から除外してしまっていたのだ。まして、肝心の池永教授たち被害者がそんなイレギュラーな操縦をしていた事自体が想定の範囲外である。この状況ではスペックの事はわかっていても、潜水艇が前に移動していたという事実にたどり着くのは至難の業であろう。

「もちろん、海面すぐ近くで前進すればいくらなんでも気づかれますから、ある程度沈んだ状態で前進するのが条件になってくるでしょう。その上で、教授たちの計画を考えるならこういう事になります」

 そう言いながら、榊原は池永たちの行動を明らかにしていく。

「まず、教授たちは一定の深さまで潜水艇を沈めると、本来の行程に反してそこで潜水を停止し、密かに島の方向目がけて潜水艇を前進させた。島までの距離は十五キロですから、約一時間もすれば島のすぐ近くまで到達するのは可能です。そこで潜水艇を浮上させ、そのまま島に侵入。本条宅で本条さんを殺害した後すぐに潜水艇に戻り、再び一時間かけて元の沖合十五キロの場所まで戻り、頃合いを見て浮上すれば、本条さん殺害の最中に沖合十五キロの深海にいたという鉄壁のアリバイが完成するわけです」

 誰もが呆然とした様子で、榊原の推理を聞いていた。が、ここで青島から反論が入った。

「だが、そりゃ推論だろう。本当にその計画が実行されたって証拠はあるのかい?」

「もちろん。この仮説が正しいなら、さっきのビデオカメラの矛盾に答えが出るのです」

「カメラの矛盾って……あぁ、そういう事か」

 そこで青島は納得したような声を上げた。紬が不安そうに尋ねる。

「な、何なんですか?」

「もしこの探偵さんの仮説が正しいなら、そりゃビデオカメラなんか撮るわけにはいかないわなって話だ。だってその時間帯、教授たちは深海どころか浮上してそこの元検事さんの殺害に向かっているはずだろう? そもそもビデオなんか撮影できるわけがないんだ。普通撮るはずのビデオを撮っていなかった教授たちの不可思議な行動に、この仮説で説明がついちまうんだよ」

 青島の解説に、榊原は頷くとさらにこう続けた。

「それに、もう一つの謎にも答えが出ます。すなわち、抜かれていたメモリーチップの謎です」

「それは、潜水艇備え付けのカメラからメモリーチップが抜かれていたという件ですか?」

 林の問いに、榊原は頷く。

「この仮説が正しいなら、メモリーチップを抜いたのはこの場にいる誰でもなく、被害者本人たる池永教授か長良パイロットのどちらかのはずです。何しろ、そんなものをセットしておいたら潜水艇が予定通りの行動をしていなかったこと自体がバレバレになってしまいますからね」

「あぁっ!」

 林が思わず驚きの声を上げていた。青島が隣で思案気に頷く。

「……つまりあのチップは、映っていた何かを隠すために抜かれたわけじゃなくて、最初から何も映さないように抜かれていたというわけか」

「えぇ。チップそのものは潜水前にすでに抜かれていて、おそらく海にでも捨てられたのでしょう。何も映っていないチップが見つかったら、潜水前に抜かれた事がばれてしまいますから。となれば、紬さんの部屋から見つかったチップは、本当に事件とは関係ないとみるのが妥当でしょうね」

 その言葉に、紬は思わずほっと息を吐く。

「さらに言えば、この時の紬さんに対する池永教授の行動にも、彼が殺人を犯そうとしていたのならば納得できるものがあります。彼は昨日になって急に紬さんに別れ話を切り出したという事ですが、これは自身が殺人を犯そうとしてる状況で、万が一の時に紬さんを巻き込まないようにするための配慮でしょう。もしくは、彼自身これを一つのけじめだと思っていたのかもしれない。そう考えれば、この不可思議な行動にも説明がつくんです」

「教授……」

 紬は顔を覆って嗚咽を漏らす。と、今度は高千穂が質問をぶつけた。

「となると、凶器のナイフを俺の工具箱から盗んだのも二人のどちらかか?」

「でしょうね。本来、あれは本条さんを殺害するために盗まれたものだと思います。おそらく長い船内生活の中、手近に凶器となるものがあれしかなかったからでしょう。事件後は海にでも捨ててしまえば、凶器は深海深くに沈んでしまって発見される事は皆無です」

 次々明らかになる衝撃の事実に、畠山の頭はもはや追いつけなくなりつつあった。同時に、あれだけの捜査からここまでの推理を構築できる榊原の論理構築能力に、畠山は今さらながら捜査の中で瑞穂が言っていた「榊原の恐ろしさ」を嫌と言うほど実感しつつあった。が、まだ犯人との一騎打ちは始まったばかりである。

 案の定、犯人と指摘された佐奈美は不満そうに榊原に反論した。

「あのぉ、さっきから何を言ってるかわかんないけど、それが正しかったとしてどうして佐奈美が犯人にならないといけないのぉ? その辺、全然説明できていないと思うんだけどぉ」

 と、そう言われて榊原は改めて佐奈美に向き直った。いよいよ、ここからが本番のようである。

「今の仮説が正しかったとして、一つ問題が残っている。すなわち、無事に島の近くに浮上した後、池永教授たちがどうやって島に潜りこむのかという点だ」

「意味わかんなぁい」

 佐奈美はふくれっ面をしながら言う。が、榊原は気にする事なく続けた。

「潜水艇が浮上できる場所は限られる。当然人目につく場所に浮上するわけにはいかないし、何より浅瀬に乗り入れる事ができない。ある程度深さのある場所で浮上して、そこから岸まで移動する手段が必要だ。となれば、その方法が問題になってくる」

 そう言いながら、榊原は佐奈美を見やった。

「そして、そんな中おあつらえ向きの場所……父島の東側の岸壁近くの海上で、クルージングをしていた船があるとなれば、疑うなと言う方がどうかしているだろう」

 その言葉を聞いて、小久保の顔が真っ青になった。

「ちょっと待てよ、まさか……」

「今の仮説が正しいなら、小久保さん、あなたがクルージングをしていたその場所は、まさに池永教授たちが操縦する潜水艇の浮上ポイントそのものです。あなたたちがそんな場所でクルージングをしていると知ったとき、私は即座に何かあるのではと疑いました。で、実際に船内を確認したら、案の定キャビンの隅にしぼんだゴムボートが置かれていました」

 榊原は佐奈美を睨みつけた。

「池永教授の計画は、おそらくクルーザーの傍で浮上した後、小久保さんのクルーザー備え付けのゴムボートで島に上陸するというものだったはずだ。したがってこの計画のためには、浮上地点であるあの場所に小久保さんのクルーザーがある事が絶対条件になってくる。だが、賭けてもいいがこんな事が偶然発生するはずがない。となれば、君たち二人、もしくはどちらか一方が池永教授たちの仲間であって、あのクルーザーを意図的にあの場所に誘導した可能性が浮上してくるという事だ」

 その言葉に、佐奈美はしばらく押し黙っていたが、やがて少し心外だという風に答えた。

「つまり、なぁに? 私がその池永だとか長良だとかいうおじさんの仲間だって言いたいのぉ?」

「推理を進めるとどうしてもそうなってしまう。この計画を推進するには、潜水艇から島までの移動手段を用意する第三の共犯者の存在が必要不可欠だからな。私は、君がその第三の共犯者だったと考えているのだが」

「ばっかじゃないの? 何で佐奈美がそんな名前も聞いた事がないおじさんたちの仲間にならないといけないのよぉ。それにあのクルージングの行き先は佐奈美が決めたわけじゃなくて、慎吾君が決めたのよぉ。まさか、慎吾君まで仲間だなんて言わないでしょうねぇ」

 そう言われて、小久保が血相を変える。

「ち、違う! 俺は何も知らないって!」

「でしょうね」

 榊原はあっさり答えた。

「ただ、クルーザーをあの場所に誘導する事は佐奈美さんたちにも充分可能なはずです。そもそもあなたがこの島にクルージングにやってきた理由は何ですか?」

「それは……小笠原に別荘があるって言ったら、佐奈美がそこでクルージングしたいって言い始めたから……」

 小久保は言いながら顔を青くしていく。が、榊原はすました表情で続ける。

「で、あなたは実際にやってきた。ですが、地元の漁師などから苦情を言われて、クルージングできる場所を制限されていたはずですね?」

「あぁ、そうだけどよ」

「やむなくあなたは漁場以外の場所でクルージングをしていたわけですが……そんな中、三日前にある人物があなたに苦情を言いに来た。クルーザーが調査に邪魔だとか言ってね」

「あっ」

 小久保が声を上げた。それを言いに来たのは、当の被害者たる池永教授だったはずだ。

「やむなくあなたは、あの場所でクルージングをする事になってしまった。どうですか? こうしてみると、あなたの行動は池永教授やここにいる芹澤佐奈美の言動にいいように操られているのが目に見えると思いますが」

 小久保は答えない。事実はわかっていても、口に出す事ができないのだ。

「こうして、彼らは見事にクルーザーを目的の海域にセッティングする事に成功した。そして、彼らは計画を実行に移した。潜水艇をクルーザーの近くで浮上させ、そして本条さんを殺しに行くはずだった……」

 と、ここで榊原は再度佐奈美を睨んだ。

「が、ここで手違いが起こった。彼らは島に上陸できていない。それはあのクルーザーの中にあったゴムボートに埃が積もっていた事からも明白だ。ならば、潜水艇が浮上してから彼らがゴムボートに乗り込むまでの間に二人は殺害された事になる。つまり、殺害現場は深海八〇〇メートルではなく、あのクルーザーだという事になってしまうんだ。要するに今回の事件、密室そのものが移動して密室ではなくなるという珍しいタイプのものだったという事になる」

 そして榊原は告げる。

「犯行現場が実はクルーザーだったとすれば、容疑者の幅は逆に狭まる事になる。何しろ、このクルーザーは海上に浮かぶ別の意味での密室だったわけで、容疑者となるとのはそのクルーザーに乗っていた人間……君たち二人に限定されるからだ。そして、これが単独犯による犯行だったとすれば、キャビンで飲み食いしていたと言う小久保さんはともかく、海で泳いでいたと言っている君が潜水艇の浮上に気付かないわけがない。それを知らないと言っている以上……芹澤佐奈美、君がその事実を隠しているのは明白極まりない事実となるんだ!」

 反論はなかった。この時、今まで媚びを売っていた佐奈美の表情に初めて険しいものが浮かぶのを畠山は見て取っていた。その横で、本条が呆然とした様子で尋ねる。

「じゃあ、今回の殺人事件は……」

「殺人共犯グループ内部の仲間割れ……と言ったところでしょう。何か反論はあるかね?」

 と、ここで、不意に佐奈美は顔を上げると、少し引きつらせた表情で今までの媚びた口調をかなぐり捨てるように告げた。

「言いたい事はいっぱいあるわよ、探偵さん……」

 その変わりように、隣の小久保が息を飲む。そんな小久保を無視するように、佐奈美は榊原に対して猛然と反論しにかかった。

「私がクルーザーであの二人を殺害した? 被害者二人が潜水艇でこの島の近くまでやってきていた? 馬鹿じゃないの? そもそも、その仮説からして間違ってるじゃないの!」

 一人称が「佐奈美」から「私」に代わり、口調もかなりきつくなっている。が、榊原はその逆襲を、冷静な表情で受け入れた。

「どういう意味ですか?」

「しらばくれないで! あのね、私がクルーザーであの二人を殺しちゃったら、その後あの潜水艇は誰も操縦できない事になる。でも、実際にあの潜水艇が浮上した場所はどこなのよ。ちゃんと沖合十五キロにあった調査船のすぐそばに浮上しているはずじゃないの!」

「あ」

 誰もがその反論に思わず声を上げていた。が、佐奈美の反論は終わらない。

「もし私がクルーザーで二人を殺したんだとすれば、来た時と違って潜水艇は元の場所に戻る事ができない。にもかかわらず潜水艇が何事もなく調査船のあった場所に浮上している以上、探偵さんの推理が出鱈目で、被害者たちが予定通りあの場所で調査していたっていう何よりの証拠じゃない!」

 畠山は息を飲んだ。物の見事に今までの推理をひっくり返された形である。確かに、実際問題として潜水艇は調査船のすぐ傍で浮上しているのだ。今までは潜水艇があの場所で沈んでいたと考えられていたから問題はなかったが、榊原の主張を考慮するとこの点は確かに問題となる。同時に、畠山はこの芹澤佐奈美という女性が、先程までの見かけに反してかなり頭の回転が速い人間だという事を確信していた。どう切り返すのかと思わず榊原を見る。

 だが、そんな佐奈美を前にしても、榊原の論理は崩れなかった。

「逆だ」

「はぁ? 逆って何よ」

「文字通りの意味だ。二人が殺された潜水艇が調査船近くで浮上する……実は、これ自体が大きな矛盾になっている事に気付かないのか?」

 思わぬ問いに、誰もが戸惑った。

「あの、意味がわからないんですが……調査船近くで潜航を開始した潜水艇が調査船近くで浮上するのは当たり前の話なんじゃ……」

 おずおずと尋ねる紬に対し、榊原は首を振った。

「それは正常に潜水艇が運行されている場合の話でしょう。ですが、実際はあの二人は潜水艇の中で死んでしまっているんです。そしてその状態で浮上している以上、あの潜水艇が深度一〇〇〇メートルまで沈んで緊急浮上装置が作動したのは明白です。ならば、問題になるものがあるはずです」

「何が何だか……」

 混乱する林に対し、榊原ははっきり告げた。

「林さんが言ったんじゃないですか。この海域の深度七〇〇メートル以下には、島から沖合の方へ向かって流れる海流が存在すると」

「それが一体……あ、あぁっ!」

 不意に林が驚愕の表情を浮かべた。皆が何事かと林の方を見る。

「どうしたんですか?」

「た、確かにそれは矛盾している。何でそれに今まで気づかなかったのか……」

 うろたえる林に代わって榊原が解説を加えた。

「本人が操縦していたり、自動操縦モードが作動したりしているうちはまだいいですが、誰も操縦していない潜水艇がそんなところにあったら、普通は海流に流されてしまうはずです。海流があるのは深度七〇〇メートル以下。つまり、もし潜水艇が調査船の傍から一切動いていなかったら、操縦者を失った潜水艇は海流に流されて、もっと沖合で浮上しないとおかしいんですよ」

「あぁっ!」

 他の人間も皆が皆驚きの表情を浮かべていた。

「じゃ、じゃあ何であの潜水艇は調査船の傍に浮上できたんだ?」

「それこそが、潜水艇が父島近くにあったという明確な証拠になるんですよ。そうだね?」

 見ると、榊原の指摘に対し、佐奈美は唇を噛んで榊原を睨みつけている。

「では、今から改めて事件当時の潜水艇の動きについて詳しく検証してみよう。それでこの事件の全貌が見えるはずだ」

 榊原はそう言うと、ゆっくりとした口調で事件を再現し始めた。

「潜水艇が潜航を開始したのは午後九時頃。本来ならここから一時間二十分かけて深海八〇〇メートル地点に到達するのがプランだったはずだが……この時、池永教授と長良パイロットはこの行程を無視して、父島方面へ前進し始める。仮に、それを始めた深度を一五〇メートルとしよう。なぜこの深度なのかは、後々わかるはずだから今は置いておく。この時点で潜航は中止され、以降は深度一五〇メートルを維持したまま、時速十五キロの速度で父島に接近。浮上地点到着後、そのまま一五〇メートル浮上して水面に出る事となる」

 いったん間をあけて、榊原は推理を続行する。

「問題の潜水艇は潜航速度、浮上速度ともに毎分十メートルだったはず。これらを踏まえれば、まず沈降開始から深度一五〇メートル地点に到達するに十五分。そこから十五キロ先の父島沿岸に到着するのが一時間。さらにその場で浮上するのに十五分で、合計時間は一時間半。出発が午前九時だから、この時点での時間は午前十時半。死亡推定時刻の真っただ中だ」

 そう言いながら、榊原は佐奈美の目をしっかり見つめながら言葉を繋ぐ。

「おそらく、犯行は潜水艇がクルーザーの傍に浮上し、二人がハッチを開けて外に出た瞬間に発生したはずだ。君は二人から凶器のナイフを奪って殺害し、遺体を潜水艇の中に放り込むと潜航を始めるレバーを入力。即座に脱出してハッチを閉めた。スイッチを入れてから潜水艇が完全に水没するまでは若干の時間があるはずだし、あのハッチは外からも開閉ができるタイプだからこれで問題はない。かくして、遺体を乗せた潜水艇は、クルーザーの下に広がる深海へ向かってゆっくりと沈み始めた。あの辺は岸壁だから、深さも沖合とそう変わらないはずだ」

「馬鹿馬鹿しい。それじゃあ、結局潜水艇はその場に沈んだままじゃないの」

 佐奈美が嘲るように言う。が、榊原はひるまなかった。

「このままだと確かにそうだ。だが、言った通りこの海域では深度七〇〇メートルより下には島から沖合へ流れる海流が発生している。この海流の速度は、この潜水艇がこの海流に対抗してその場に停止するために前進機能を備えている事を考えれば、おそらく前進速度と同じ時速十五キロと考えるのが妥当だろう。高千穂さん、どうですか?」

「あ、あぁ。確かにそうだ」

 高千穂は肯定する。

「犯行時間そのものはおそらく十分程度。そこから沈み始めて一時間十分後……つまり午前十一時五十分に潜水艇は海流の上限域である深海七〇〇メートル地点に到達する。その結果、潜水艇は沈降を続けると同時に時速十五キロの速度で沖合へ向けて流されていく事となるわけだ。要するに、この時点から潜水艇は海流に乗って斜め下へ向かって沈んでいくコースをたどる事になる」

 全員がその光景を思わず思い浮かべていた。

「この状態はその後潜水艇が三〇〇メートル沈降するまで……すなわち海流突入から三十分が経過するまで継続する事となる。だが、三十分後になると潜水艇は深度一〇〇〇メートルに到達し、ある装置が自動的に作動する」

「……緊急浮上装置、ですか」

 林が呻きながら言う。榊原は頷きながら仕上げに入った。

「この時点で、潜水艇の座標地点は父島から七.五キロ、深海一〇〇〇メートルの位置。時刻は午後零時二十分。そこから潜水艇は浮上に転じるが、海流域を抜けたわけではないから、潜水艇は沖合目がけて斜め上に浮上していく事になる。そして三十分後、さらに七.五キロ進んで島の沖合十五キロ……つまり調査船のいる近辺に到達した時点で潜水艇の深度は七〇〇メートルを抜け、この時点で海流域を脱出。多少慣性の法則で沖合に少し進むかもしれないがそれもすぐに止まり、以降はまっすぐに上へ向けて浮上していく事となる。この時点の時刻は午後零時五十分。後は、残り七〇〇メートルを一時間十分かけて浮上する事になり、最終的に調査船近くに浮上する時間は……」

「ご、午後二時……実際の浮上時刻そのものだ……」

 林が呆然とした様子で呻くように言った。他のメンバーも、誰もがどう反応していいのかわからないと言わんばかりにその場に立ち尽くしている。

「もうわかったとは思うが、私が最初の潜航深度を一五〇メートルしたのは、この深さなら計算上午後二時ちょうどに潜水艇を調査船の傍に浮上させる事ができるからだ。さて、これで父島近海に沈んだ操縦者のいない潜水艇を十五キロ沖合の調査船の傍に浮上させる証明はできたと思うが……これについて何か反論は?」

 佐奈美は両手を震わせて榊原をキッと睨みつけていたが、何も反論ができずにいる。それだけ榊原の論理には隙がなかった。だが、このまま何も言わないわけにはいかないのは彼女もわかっているようで、振り絞るように言葉をひねり出した。

「……あくまで可能性よね。それが実際にあったっていう証拠は何一つないわ」

「だが、深海八〇〇メートルで殺人があったと考えるより、こう考えた方がより現実的なのは確かだ。それに、海流域にいたにもかかわらず流されずに同じ場所から浮上した潜水艇。ビデオカメラにメモリーチップの謎。すべての謎がこの説で答えが出るのも事実だ」

「でも、証拠はない!」

 佐奈美の叫びに、その場にいる誰もがギョッとする。ただ一人、榊原だけはそれを正面から受け止めていた。

「それに、そもそも根本的な事が解明できていないわよ」

「と言うと?」

「何で私がその被害者二人に協力してそこの元検事さんを殺さないといけないのかっていう動機。それと、仮にそうだとしてどうしてそれを土壇場で裏切って二人を殺したのかっていう理由。言っとくけど、私はわけもなく殺人に手を貸すほどお人よしじゃないわよ」

 挑戦的に言われて、榊原は一瞬押し黙った。が、すぐにゆっくりと顔を上げる。

「確かに、現段階で私はそれに対する明確な答えを持っているわけじゃない。あくまで論理的な推察から君しか犯人がいないと判断しただけだからな」

「だったら……」

「ただし」

 何か言おうとした佐奈美を遮るように榊原はまっすぐ佐奈美を見ながら声を張り上げた。

「それに関して何もしていないわけじゃない。ちょうど、結果が出ているはずだ」

 そう言うと、唐突にポケットから携帯電話を取り出して、どこぞへと電話をかけた。相手はすぐに出る。

『はい、榊原探偵事務所です』

「私だ、亜由美ちゃん」

『あ、榊原さん。ちょうど結果報告をしようかと思っていたところです』

 相手は何やら調査を頼んでいた亜由美のようだった。

「それはよかった。じゃあ早速だが、この場で結果を報告してくれるかね?」

『はい。えっと、芹澤佐奈美さんに関する調査でしたよね』

 その言葉を聞いて、対峙する佐奈美の顔がサッと赤くなった。すでに手が打たれていた事を知って、咄嗟に反応できないでいるのだろう。が、電話の向こうの亜由美はそんな事を知るはずもなく、淡々と事実だけを報告していく。

『芹澤佐奈美、二十二歳。私立京王大学法学部四年。しかも主席入学で給付型の奨学金をもらっていますね。すでに大学院進学の話も出ていて、かなりの優等生です』

「えっ」

 隣の小久保が衝撃を受けたように隣の佐奈美を見やる。それを見逃す榊原ではなかった。

「知らなかったんですか?」

「いや……一ヶ月くらい前に大学の飲み会サークルの集まりで会ったばかりだから。でも、まさか京王大の法学部首席だなんて……。紹介された時はどっかの女子短大の所属だとか言ってたから……」

 しどろもどろになっている小久保に対し、正体の露見した佐奈美は歯を食いしばって何かに耐えている様子だった。が、亜由美の調査報告は容赦なく続く。

『両親は十五年前の一九九四年……彼女が七歳の頃に火災が原因で死亡。身寄りがなかったので歳が十歳離れた姉と共に孤児院に引き取られますが、姉は高校卒業と同時に孤児院を卒園して派遣社員として働き始めます。姉の収入が妹の分まで養えるほどではなかったので、姉の生活が安定するまでは彼女は引き続き孤児院に預けられる事になったのですが……十二年前の一九九七年、彼女が十歳の時にこの姉が交通事故で死亡しています。ドラッグをきめて飲酒運転していた若者による轢き逃げだったそうです』

 その話が出た瞬間、佐奈美の表情が大きく変わるのを畠山は見て取っていた。

『事故後、彼女は運よく養子先が見つかって、孤児院から芹澤家に引き取られています。そこから後は優秀の一言ですね。中学受験して名門中学に入ると、そのまま高校も有名進学校に進学。当時の旧友の話だとサイエンスサークルに所属していたようで、そんな彼女が京王大の法学部に入った時には誰にも驚いていたとか』

「サイエンスサークル、ね」

 つまり、海流などに対する理学的な知識も充分にあった事になる。犯行を裏付ける有力な証拠だった。

「他には何かあったかね?」

『もちろんです。実は、例の轢き逃げ事件で死んだ姉には当時大学生だった同い年の恋人がいたそうなんですが、事件後、彼女が芹澤家に引き取られた後も付き合いがあります。何でも家庭教師をしていたようで、彼女が中学受験に成功したのも、この姉の元恋人の力が大きいというのが当時の友人たちの共通見解です。その後も付き合いはあったようで、周りの人間によると「まるで本当の兄妹のようだった」とか』

「その姉の元恋人の名前は?」

 榊原はチラリと佐奈美の方を見ながら尋ねた。それに対する亜由美の問いは簡潔だった。

『多分榊原さんの予想通りだと思います。彼女の姉の恋人の名前は、「高槻泰成」です』

 その瞬間、誰もが息を飲んで佐奈美の方を見やった。佐奈美は何も言わずに体を震わせている。

「確かかね?」

『何度も確認しましたが間違いありません。ですが、ご存知の通り高槻は七年前の事件で汚職の容疑をかけられ、その後有罪を宣告されて収監されています。これは彼女が十五歳の時です。出所後、二人が会った形跡はなく、高槻は二年前に自殺。今に至っています』

「なるほどね」

 ちょっとそのままで待っていてくれ、と言いながら、榊原は改めて佐奈美を見つめた。

「という事だそうだ。池永教授の息子であり、彼が本条さんを殺そうとした動機になった高槻泰成は君のお姉さんの恋人であり、同時に兄のような存在だった。そんな彼が、七年前の事件の結果死に追い込まれている。つまり、状況は限りなく池永教授に近いという事になる。これでも、まだ君は池永教授と何の関係もなかったと主張するのかね?」

 だが、それでも佐奈美は強情だった。

「……確かに、その話は事実です。高槻さんが私の兄のような存在だった事も認めます。でも、だからと言って私が池永教授たちの仲間だったという証拠はどこにもありません」

「あくまで関与を否定するかね。あの事件の関係者がこの島に三人も集まっている時点ですでに偶然の一言では片づけられない話だとは思うが」

「それでも、私には関係ありません。第一、万が一仲間だったとしても、彼らを裏切る理由なんか……」

 と、ここで榊原は厳しい表情で告げた。

「いや、今の話で一つ気になる事があった。おそらくそれが今回、君が彼らを裏切って殺害した最大の動機だ」

「何を、世迷い事を……」

 そんな佐奈美の声にかぶせるように、榊原は再度電話口の佐奈美に尋ね返す。

「亜由美ちゃん、その彼女の姉が死んだという轢き逃げ事件だが……犯人は捕まっているのかね?」

『はい。当時飲酒運転が社会的に問題だった事もあって検察まで出てくる騒ぎになって、警察と検察の執念の捜査で犯人は逮捕されています』

「単刀直入に聞く。その姉の名前というのは?」

 その問いに、亜由美はあくまで事務的に答えた。

『姉の名前は米町佐代里。事故のあった十二年前の時点で二十歳。佐奈美が芹澤家に養子入りする前の名字は「米町」で、すなわちこの当時の彼女の名前も「米町佐奈美」です』

 その言葉を聞いた瞬間、ある人物が声を上げた。

「米町佐代里……ま、まさか、あの事件の!」

 本条だった。彼は反射的に佐奈美の方を見つめていたが、その見る目が今までと大きく変わっていた。

「……どうやら、当たりのようですね。本条さん、この轢き逃げ事件をご存知ですか?」

「御存じも何も……俺が特捜部に行く直前に担当した最後の事件だ。『板橋派遣社員轢き逃げ事件』。今でもよく覚えている」

「私も名前だけは知っています。事件が起こったのは一九九七年。当時、私もまだ本庁捜査一課にいましたから。もっとも、私は捜査そのものには参加していませんが」

 榊原も苦い表情で言う。本条は低い声で当時の状況を説明した。

「事件は飲酒した上に違法ドラッグまできめて運転していた若い男によるものだった。証拠が少なくて逮捕は当初絶望的だとも言われていたが、地道な捜査で一ヶ月後に何とか逮捕する事ができた。その悪質性と、隠蔽のために何度も念入りに遺体を轢いていた事から殺意が認められて、轢き逃げとしては極めて異例な事に殺人罪での逮捕となったはずだ」

「当然、被害者遺族にも会っているはずですよね?」

「もちろんだ。当時一人残された小学生の妹さんの事があまりにも気の毒でな。毎日のように会いに行って捜査の状況を報告しながら、何とか元気づけようとしていた。犯人が逮捕された事を知らせたときには目に涙を浮かべて泣きじゃくっていたのを覚えているが……おい、まさか、君があの時の女の子なのか?」

 佐奈美は答えなかった。辛そうな表情をして本条から視線を逸らす。

「つまり、この話が本当だとするなら、君にとって本条さんは姉の敵を逮捕してくれた恩人という事になる。……これで、君の疑問にはすべて答えたと思うが」

「どういう意味よ」

 精一杯虚勢を張ろうとする佐奈美に対し、榊原は静かに答えた。

「君にとって、兄のような存在だった高槻泰成の敵を取るという点では池永教授と同じ思いがあった。だからこそ、君には池永教授や同じく柳文菜を失っていた長良パイロットの復讐に協力するだけの動機が存在した。だが、彼らが復讐の対象としたのは、よりによって幼い頃に姉の敵を執念の捜査で逮捕してくれた本条さんだった。君にとって、高槻さんの敵を討つ事はもちろん大切だったはずだが、それ以上に恩人である本条さんを殺す事はもっとできなかった。当然、君は止めようとしたんだろうが、復讐に燃えて冷静な判断力を失っていた彼らにはその説得は通用しなかったのではないかね?」

 佐奈美は無言のままだ。そして、榊原は重苦しい口調で告げる。

「だからこそ、彼らの復讐が止められないと分かった時点で、君は彼らを裏切って殺害するしかなかった。それが、今回の事件が起こった理由だったと私は推測しているんだがね」

 甲板に重い空気が支配する。だが、ここまで暴かれても佐奈美はまだ陥落しなかった。

「……それが何? 私はまだ認めたわけじゃない! 結局、私が犯人だっていう決定的な証拠はまだ出ていないのに変わりはない!」

 もはや、ここまでくると佐奈美としては己の意地だけで反論しているようなものだった。ここまで暴かれてもまだ罪を認めない佐奈美の執念に対し、傍らで見ている畠山はどこか背筋が凍るようなものを感じていた。

「……それが犯罪者なんです」

 と、そんな畠山に隣にいた瑞穂が声をかけた。

「犯罪者は自分の犯罪に人生を賭けています。だって罪を暴かれる事はその時点で人生が終わる事と同じなんですから。だから、彼らは最後の最後まで諦めない。どんな手段を使っても、全力で探偵の追及から逃げようとします」

 そして、女子高生らしからぬ真剣な表情で言う。

「そして、その犯罪者の罪を暴く探偵も文字通り調査に全力を賭け、徹底した論理で相手を叩き潰しにかかる。これは犯罪者の人生と探偵のすべてを賭けた、文字通りの論理の決闘なんです」

「決闘……」

 それは、今までの畠山の探偵感を打ち崩すような言葉だった。

「先生はその事実を正しく認識しています。探偵の謎解きを、互いの人生を賭けた決闘の場だと理解している。だから先生はいついかなる時でもその決闘に勝てるように、探偵の本分たる論理力と推理力を徹底的に特化させてきました。『探偵は派手でも奇抜でも天才的でもある必要はない。ただひたすら愚直に推理と論理に忠実であれ』。それが先生の座右の銘です。たとえ地味だのなんだのと言われようと、犯罪者との一騎打ちにおいて長年推理力を昇華させ続けてきた先生との論理勝負に勝てる人間はいません」

 そして、瑞穂は断言する。

「だからこそ、先生は探偵の本質を徹底追及した正真正銘の名探偵……『真の探偵』なんです」

 そういう瑞穂に畠山は何も言えなかった。が、直後、瑞穂は真剣な顔を崩して苦笑する。

「……って、これ全部先生の受け売りなんですけどね。でも、この一騎打ちももうすぐ終わると思いますよ。ここが勝負どころです」

 そう言われて、畠山は榊原の方を見やる。そして、瑞穂の言うように、榊原はいよいよ最後のとどめを刺しにかかるところだった。

「……いいだろう。いい加減に時間もない事だし、ここですべてを終わらせようか」

 そう言うと、榊原は逃げる事無く佐奈美の前に対峙する。

「私の主張はこうだ。犯行は父島の傍にあったクルーザーで行われ、だからこそ犯人はそのクルーザーにいた君である。逆に言えば、君が犯行を行ったという明白な証拠があれば、今まで唱えてきた私の論理がすべて証明される事になる。この理屈は理解できるか?」

「だったら何よ! そんなの証明できるわけが……」

「できもしないのに私がこの場に立っているとでも思ったのかね?」

 思わぬ挑戦の仕方をされて、佐奈美の言葉が止まる。

「この事件の現場を見た瞬間から一つ気になっていた事があった。この犯行形態なら必ず存在するであろう物がなかったからだ」

「何よ、それは!」

「返り血だ」

 榊原の答えは単純だった。

「犯人は二人の人間を同一の凶器で殺害しているが、そうなると返り血を浴びる事は避けられない。にもかかわらず、この船の事件関係者の中に返り血がついた衣服を着ている人間はいなかった。ここは船の上だ。着替えようにも衣服を捨てるわけにはいかず、血の付いた衣服などというものは船内から発見されていない。これは警察の捜査でも明白な事だ」

「だったら何! 私だってそんなものはついていないでしょ!」

「確かにそうだ。だが、問題は君が水着を着ているという事だ」

 榊原は大まじめな表情でそう言うと、険しい表情のまま一気に追求しにかかった。

「クルーザーの中を調べたが、船内に血の付いた衣服のようなものは一切見当たらなかった。つまり、クルーザーが犯行現場だったとしても返り血のついた衣服を着替えたわけじゃない。では、どうやって返り血を処理したのか。可能性は一つ。返り血を海水で全部洗い流したという場合だ」

「あ……」

 畠山は思わず声を上げていた。榊原が何を言いたいのかがこの時点ではっきりわかったからである。

「それが可能なのは、この中で唯一水着を着ていて、全身が濡れていてもおかしくない君だけだ。私が小久保さんを容疑者から外したのはこれが理由でね。見たところ着替えもない小久保さんが犯人なら、返り血の問題を処理できないと考えたからだ。逆に言えば、水着の君なら返り血の処分は充分に可能と考える。つまり、君を調べればルミノール反応が出てくる可能性は充分にあり得るというわけだ」

 もっともな話である。だが、こう言われても、佐奈美はまだ落ちなかった。

「じゃあ、調べてみればいいじゃない。私の水着からルミノール反応が出るかどうか!」

 佐奈美の物言いに、畠山はもしかしたら彼女は別の水着にすでに着替えているのかもしれないと思った。普通の服ならともかく、水着程度なら簡単に予備を持ち込んで着替える事ができ、同時に海に捨てる形で処分が可能だからだ。ハラハラしながら榊原を見ていた畠山だったが、しかし当の榊原はなぜか小さく笑っただけだった。

「私は別に君の水着を調べるとは一言も言っていないが」

「……どういう意味よ」

「水着程度なら処分できるだろう。だが……君の肌に直接かかった返り血はどうだ?」

 その言葉に、佐奈美の顔の血の気が引いた。

「さすがに指紋の事があるから手袋くらいはしていただろうが、それ以外の場所に血がかかる事までは避けられない。例えば君の腕にルミノールを吹きかけたら、一体どういう反応が出ると思うかね?」

「そ、それは……そんな検査、私は認めない! そういう人の体に行う検査には令状が必要なはず! やるんなら、令状を持ってきてよ!」

 佐奈美は必死に言い逃れしようとする。と、瑞穂が畠山にこっそり尋ねた。

「そうなんですか?」

「あ、あぁ。確か刑訴法二一八条だったか。いわゆる『検証としての身体検査』と呼ばれるやつで、捜査機関の行う身体の検証には身体検査令状が必要だ。指紋とか足跡なんかだといらないんだけど、今回の場合はルミノール検査だから間違いなく令状がいる。さすがは法学部の主席と言ったところだが……」

 が、榊原にとってこれは想定内だったらしく、即座に次の手に打って出た。

「では、クルーザーはどうだ? 犯行現場がクルーザーなら、そこにも当然血は流れているはず。そこで血が流れた事を確認できれば、クルーザーでの犯行は立証できる」

 確かに、それも一理ある。が、この発言に対して、佐奈美はこう反論を仕掛けてきた。

「じゃあ、もしクルーザーから何も出なかったら、その時は探偵さんの仮説が間違っていたって事よね! あなた、その覚悟があってそんな言い掛かりを言っているの?」

「言い掛かりかどうかは調べてみればわかる話だ。私はそう信じている」

「言ったわね。じゃあ、クルーザーを調べてみましょう。それで何も出なかったら……あなたを探偵として終わらせてやるわ。名誉棄損で訴えるし、マスコミにもあんたがとんでもないインチキ探偵だって暴露してやる。どう?」

 明らかな挑発だった。畠山は固唾をのんで見守る。が、これに対し榊原は何でもない風に小さく頷いた。

「いいだろう。元よりその覚悟なしに探偵なんかやっていない」

「そう。じゃあ、さっそく……」

「ただし!」

 と、不意に榊原は勝ち誇った様子の佐奈美の言葉を遮ると、鋭い視線で相手を射抜いた。

「調べるのはクルーザーじゃない。この潜水艇だ」

「……は?」

 いきなり梯子を外されて、佐奈美は呆気にとられた表情を浮かべている。が、今度は榊原が主導権を握る番だった。

「今の反応を見て確信が持てた。犯行が私の推察通りだった場合、その現場として考えられるのはクルーザーの上か、もしくは浮上した潜水艇の上だ。どっちが犯行現場か決め手に欠けていたが……今の君の反応を見て確信が持てたよ。それだけ自信満々に言うからにはクルーザーには血痕はない。つまり、犯行現場は浮上した潜水艇の上だ。おそらく、二人がハッチを開けて潜水艇の上に登った瞬間を見計らって殺害したんだろう。論理的にそれしか考えられない」

「まさか……今のやり取りその物が罠?」

 佐奈美が少し声を震わせながら言う。榊原の仕掛けに気付かぬまままんまとかかった事に驚きを隠せないでいるようだ。それを知ってか知らずか、榊原は素知らぬ様子で続ける。

「本当はクルーザーに血痕がある方が立証するのは楽だったんだが……いずれにせよ、この潜水艇の『外側』からルミノール反応が出れば、彼らがどこかで浮上した潜水艇の真上で殺害された事は立証できる。そうすれば、彼らが行程に反して潜水艇を浮上させていた事は立証できるわけだ。そしてそれが立証できれば、この犯行を行う事ができるのは、君以外に存在しない!」

 佐奈美はギュッと両拳を握り締めた。が、ここまで追い込まれても彼女は諦めなかった。相当な深手だったはずだが、それでも気丈に榊原に挑み続ける。

「仮に……仮にもし潜水艇の外側から血痕が見つかっても、それが即私の犯行につながる証拠にはならない!」

「どういう意味だ?」

「それはあくまでその潜水艇がどこかで浮上して、そこで誰かに殺害された証拠でしかない! クルーザーで血痕が見つかった場合と違って、クルーザーの周辺で犯行が行われた証拠にはならないって事! つまり、その潜水艇での流血沙汰がクルーザーの傍で行われた事が立証できない限り、私を罪には問えないって事よ!」

 佐奈美の最後の悪あがきを、榊原は静かに聞いていた。そして、彼女の叫びが終わった瞬間、彼は静かな口調のまま、しかしはっきりと告げたのである。

「それを立証する決定的な証拠がある、と言ったらどうだ?」

「……何ですって?」

 佐奈美が必死の形相で睨みつける中、いよいよ榊原は最後のとどめに入った。

「潜水艇の上が犯行現場だとすると、一つ問題が生じる。それはクルーザーの上と違って、球形かつ海水で濡れている潜水艇の外部は不安定だという事だ。となると、滑り落ちないためにもビーチサンダルなどを履くわけにもいかない。おそらく……犯人はこの時裸足だったはずだ。そうでなければ安定した状態で殺害を実行できないからな。となれば、潜水艇の外側に、犯人の足の指紋が付着する可能性が残る」

 が、佐奈美はこれに対して小さくホッとしたように息を吐いた。

「……あのね、自分の言っている事がわかってる? 指紋っていうのはいわば油脂成分よ。たとえ外部に指紋がついていたとしても、深海を移動する過程で全部周りの水で消えてしまっているはずじゃない。それに、万が一指紋があったとしても、それはいつついたのかわからない。事件前に着いた可能性だってあるわけだし、決定的な証拠には……」

「確かに、本来はそうだ。だが……その指紋が血にまみれていたら話は別だ」

「え?」

 思わぬ事を言われて佐奈美が絶句する中、榊原はとどめとなる切り札を叩き込んだ。

「現場は不安定な潜水艇の外。となれば、犯人が流れ出した血を踏んだ可能性は高い。その足で潜水艇外部のガラス面を歩いたとすれば、そこには『足の指紋の形をした血痕』が残るはず。そして、指紋ならいざ知らず、血痕ならどれだけ水で洗われようとルミノール検出が可能だ!」

「っ!」

 その瞬間、初めて佐奈美の顔が本格的に歪んだ。それが何を意味するのか、聡明な彼女にはこの時点でわかってしまったのである。だが、榊原は止まらない。

「もしこの潜水艇にルミノール検査をして、足の指紋の形をした血痕が見つかったら。そして、その指紋がもし君の足の指紋と一致したら……もう言い逃れはできないぞ。それはすなわち、君が血にまみれた潜水艇の外部を、足に血をつけながら歩いたという決定的な証拠になるからだ。おそらく指紋は水で流されるという先入観があったから見逃してしまったんだろうが……これは君の言う『決定的な証拠』になるはずだ」

 もう佐奈美は反論しない。いや、反論できない。さっきまでの威勢が嘘のように、全身をガタガタ震わせながらその場で俯いてしまっている。

「さて、これでこの勝負に決着がついたと思うが、ここで君の判断を聞こう。今この場で自分から罪の告白をするもよし。捜査一課がやってくるのを待って、潜水艇の調査で君の足跡の形のルミノール反応が出るのを指をくわえて見守るもよし。二つに一つ、さぁ……どうするかね!」

 その瞬間、佐奈美の口から呻き声が漏れた。

「あ……あ……あぁ……」

 直後、呻き声は絶叫へと変わった。

「いやぁぁ―――――――っ!」

 そう言いながら、佐奈美はその場に崩れ落ちて頭を抱える。榊原はその姿を見ながら、辛そうに黙って首を振った。

 そんな榊原の背後で、着々と沈みつつあった夕日がついに水平線の向こうに消え、その場から太陽の光が消えた。そして、それがこの奇怪な密室殺人事件の終幕を告げる合図となったのであった……。

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