第三章 情報
それからしばらく、榊原は港に集まった人々に片っ端から声をかけては質問をぶつけるという事を繰り返していた。質問内容は、主に被害者たちをはじめとする調査船のスタッフたちがこの島でどのような行動をしていたのかに関する事で、榊原はそれを真剣に聞きながら質問を積み重ねていく。傍らで瑞穂が必死にメモを取っているのが印象的だった。
「何というか……名探偵だとか何とか言うから、何でもかんでも天才的な推理でズバッと解き明かしていくかと思っていたんだけど、実際は随分地道だね」
畠山が小さくそう言うと、瑞穂が榊原に聞こえないよう注意しながらこう答えた。
「えーっと、それは半分間違いで、半分正解だと思います。私の今までの経験ですけど、先生は何か事件を調べる時、最初はとにかく情報を集めて分析する事に全力を注ぐんです。それを途中で見せびらかす事も少なくて、ただ愚直に情報を集めながらひたすら考え続ける。だから最初は地味に見える事が多くて、この時点だと侮ったり油断したりする人も多いんです。まぁ、何て言うか外見はごく普通のさえない中年サラリーマンにしか見えませんしね」
「だろうね」
畠山は瑞穂に同意した。が、瑞穂は不意に真剣になってこう続ける。
「でもその代り、いざすべての情報が集まった後の論理構築から仕掛ける推理はひたすらに圧倒的です。それこそ警察関係者から『怪物的』と言われるくらいに。この点において、先生の右に出る人間はいないと思います。先生が本性を現すのは、すべてを調べ上げて犯人と対峙するその時です。多分、それを見たら畠山さんも先生の恐ろしさがわかると思いますよ」
そう言われても、何とも想像しにくい。確かにカメラの一件からも推理力があるのは確かなようだが、この男が犯人相手に対峙する構図が思い浮かばないのだ。
「そういうからには、君もそれを体験したのかい?」
「もちろんです。だからこそ、私は先生の弟子になったんです」
「そ、そうかい……」
そんな事を話しているうちに、榊原は漁師に頭を下げて二人の所に戻ってきた。
「どうでしたか? 気になる情報はありましたか?」
「えぇ、まぁ。一つだけ」
畠山の問いに榊原はそう答えた。
「三日ほど前の話だそうですけど、池永教授がこの港で誰かと話しているのを見たという証言がでました。相手はここ最近この島に滞在しているクルーザーの所有者だそうです」
「クルーザー、ですか」
どうにも事件には関係なさそうな話だが、榊原はそうは考えていないようだった。
「えぇ。少し気になりますので、これから話を聞こうと思いますが」
そう言いながら、榊原はざっと港を見渡し、その視線をある一ヶ所で止めた。
「どうやら、あの船のようですね」
そっちを見ると、確かに港の一角に小型のクルーザー船が停泊しているのが見えた。目を凝らすと、中に誰かいるのが見える。
「畠山さんは、あのクルーザーの事はご存知ですか?」
その問いに、畠山は頷いた。噂くらいは地元の住民からよく聞いていた。
「えぇ、まぁ。一週間ほど前からこの島にいるみたいですが、漁師さんたちの噂だと、この島に別荘を持っているどこかの金持ちのボンボンだとか」
「金持ちのボンボン、ですか」
「大学生くらいの若い男が女の子と一緒になって遊んでいるそうです。金持ちでもないとあんなクルーザーを乗り回すなんてできませんしね。でも、時々島の漁場にまで船を入れてくるんで少しトラブルになっていて、署にも何度か相談がきていました。もっとも、ここ最近はおとなしくしているみたいですが」
「……まぁ、いいでしょう。早速そのボンボンとやらの顔を拝みに行きますか」
そう言うと、榊原はそのままクルーザーの方に歩き始めた。停泊している桟橋に到着すると、榊原は躊躇することなくクルーザーの前に立つ。
「すみません。どなたかいませんか?」
「んー?」
丁寧に声をかけた榊原に対し、船の中から面倒臭そうな声がして、金髪の若い男がのっそりと顔を見せた。見た目は二十歳前後だろうか。夏用のTシャツに半ズボンをはき、確かに女性受けしそうな顔ではあるが、何というかどこか軽薄そうな感じに畠山は見えた。
「何、あんた? 俺に何か用?」
年上に対して明らかに失礼な態度だが、榊原は怒る事もなく低姿勢に頭を下げた。
「お楽しみの所失礼します。実はちょっと聞きたい事がありまして」
「はぁ? 誰だよ、あんた」
「私立探偵の榊原と言います。ある件に関して警察に協力していまして。失礼ですが、名前を伺っても?」
「探偵ねぇ……。ま、いっか。俺は小久保慎吾。何かは知らないけど、今忙しいから用があるならさっさと済ませてよ」
小久保と名乗ったその若者は、船の上からどこか馬鹿にしたように榊原に言った。というか、実際に地味な外見の榊原を馬鹿にしているのだろう。普通ならここで怒ってもいいところだが、榊原はあくまで表向き温厚な表情を崩さない。
「まぁ、そうおっしゃらずに。ところで、いいクルーザーですね。あなたの物ですか?」
「そうだよ。親父が買ってくれたんだ。あ、俺の親父、小久保製薬っていう会社の社長なんだよねぇ。知ってる?」
「さぁ、どうでしょうか。私はその手の事は疎いものでして」
そう言いながらも、榊原の視線はジッと小久保を見据えている。この様子だとおそらくわざと相手を油断させて情報を引き出そうとしているのではないかと、いい加減に畠山にもわかるようになっていた。が、小久保はそんな視線に気づく事もなく、侮蔑的な視線を榊原に向ける。
「ふん、これだから素人は。まぁ、いいや。で、何を聞きたいの?」
「三日前、この付近で海洋調査を行っている池永という教授とあなたが港で話していたという証言を聞きました。それが事実かどうか確認に」
「三日前? ……あぁ、あの親父の事ね。何、あいつ俺のこと訴えたの?」
何か心当たりがあるようだった。
「と言いますと?」
「いや、わけがわかんねぇんだよ。ここに来てすぐに漁場がどうだとか漁師のおっさんたちに言われたから仕方なくそれ以外の所でこいつを走らせていたんだけどよ。そしたら三日前にあの親父がやってきて、『調査の邪魔になるからあまり沖合でそいつを動かさないでくれ!』とか言ってきやがってさ。頭きたけど、警察に訴えるっていうから、ここ数日は渋々東側の岸壁の近くでこいつを走らせる羽目になっちまった。俺はちゃんと約束を守ったんだぜ? なのに、訴えられるのは筋違いじゃねぇか」
小久保は言いたい事だけ言って不機嫌そうな顔をした。
「池永教授があなたに注意したというのは間違いありませんね」
「あぁ。せっかくの南国リゾートが台無しだぜ。で、いくら払えばいいの?」
「と言いますと?」
「だから、金だよ! 訴えられたんなら賠償金払うから、それでチャラにしてくんない? こっちは変なトラブルに巻き込まれたくないしな」
どうやら、何でも金で解決できると思っている人種のようである。いい加減に後ろで聞いている畠山の堪忍袋の緒が切れかかっていたが、そこまで行っても榊原は恐ろしいほどに冷静だった。
「別にお金はいりませんよ。それより、聞いた話だと女の子と一緒という事ですが」
「あ? 佐奈美の事か?」
「なぁにぃ、慎吾君? 佐奈美に用?」
と、その声が合図だったように後ろから別の女性が姿を見せた。年齢は小久保同様に二十歳前後だろうか。髪を茶髪に染め、外見は確かにかわいいがどこか媚びを売っている印象を受ける女性だった。一人称が「佐奈美」である点がますますそれに拍車をかけている。水着にタオルを羽織っており、南国リゾートを満喫している風ではある。
「せっかくだから紹介してやるよ。俺の彼女の佐奈美っていうんだ。いい女だろ」
「あぁん、慎吾君。紹介するならちゃんと『芹澤佐奈美』って紹介してよぉ」
佐奈美と呼ばれた女性は甘えるように言う。いい加減、畠山は見ていて気分が悪くなっていた。
「わりぃ、わりぃ。で、佐奈美がどうしたんだ?」
「いえ、単なる確認です。あぁ、それと。今日の朝十時から十一時まで何をしていたのか、教えてもらえますか?」
「は? 意味わかんねぇ。何でそんな事を?」
「意味はありません。全員に聞いている事です。どうですか?」
「あーっと、その時間なら、クルーザーで海に出ていた。朝の九時頃から島の東側の岸壁の近くにクルーザーを停めて、そこでバカンスを楽しんでいたんだ。本当はもっと沖に出たかったけど、あの親父がうるさかったから、ここ三日はずっと同じ場所で遊んでたぜ。なぁ、佐奈美」
「うん! 海で泳いだりしてすっごく楽しかったなぁ」
佐奈美は無邪気に小久保に抱きつきながら言う。よく見ると、クルーザーには海面に下りる梯子が備え付けられていて、どうやら停泊場所の船の周囲で自由に泳げるようになっているらしい。何とも贅沢な話だった。
「ま、俺はずっとキャビンで寝てたけどよ。でも、波が少し出てきたから、十一時前には港に引き上げたな。それからずっとここでのんびりしているわけだけど?」
「そうですか……」
「……あのさぁ、本当に何があったんだよ。あの親父が俺を訴えたんじゃないのか?」
ここで、小久保は少し不安そうに聞いてきた。が、榊原は顔色一つ変える事無く返す。
「ご想像にお任せします。あ、最後に一つ。クルーザーの中を見てもいいですか?」
「はぁ? 何でお前なんかに俺のクルーザーを……」
「何か見られてまずいものでも?」
その瞬間、温和な榊原の表情の中に一瞬何か鋭いものが走った。それを察したのか、急に小久保が押し黙る。
「ま、まぁいいけどよ」
「では、失礼して」
そう言うと、榊原はそのままクルーザーに乗り込んで、ついでに背後の瑞穂や畠山にも合図を送った。おっかなびっくり中に入ると、クルーザー自体は小型であるとはいえなかなかに豪華なものだった。操舵席の後ろにある階段の下に小さなキャビンがあり、机や椅子などが置かれている。机の上にはお菓子やジュース、それになぜかグラビアの雑誌が乱雑に置かれていた。どうやら彼女が泳いでいる傍で、肝心の彼氏は一人キャビンの中で飲み食いしながらグラビア雑誌を眺めていたらしい。
「若いのに随分優雅ですね」
自分も若いはずの瑞穂が小声で呟く。榊原はしばらく観察しているようだったが、やがてその視線がキャビンの隅の方へ向いた。そこにはレジャー用なのかゴムボートが折りたたまれていたのだが、なぜか随分埃がたまっていた。長い間使っていないらしい。
「ゴムボートは使わないんですか?」
「俺の趣味じゃねぇんだよ。あんまり泳ぐのは得意じゃねえし。っていうか、使い方わかんねぇしな」
小久保は首を振りながら言う。
「もういいかよ? これ以上調べても何もねぇし」
「えぇ、充分です」
そう言うと、榊原はあっさりとクルーザーを降りた。
「お時間を取らせましたね。では、失礼」
「おい、待てよ」
と、今度は逆に小久保が榊原を呼び止めた。
「結局何なんだよ。何があったんだよ。誰か説明してくれよ」
それを聞いて、榊原は少しの間背を向けたまま止まっていたが、やがてゆっくり振り返るとこう告げた。
「後ほど必ずお知らせしますよ。今はひとまず、この辺で」
その言葉に対し、小久保は何か迫力のようなものを感じて何も言えない様子だった。榊原はそのまま無言で一礼してそのまま去っていく。そんな榊原を追いかけようとする畠山と瑞穂だったが、不意に小久保が今度は瑞穂に声をかけた。
「ね、ねぇ、彼女。君、結構かわいいじゃん。どんな関係かは知らないけど、あんなおっさんなんか放っておいて、俺と一緒に遊ばない?」
「あー、ひどぉい。佐奈美がいるのにナンパぁ?」
小久保の発言に佐奈美が頬を膨らませながら抗議する。が、瑞穂は一度振り返ってジッと小久保の顔を見ると、やがてにっこり笑ってこう返したのだった。
「悪いですけど、お兄さんより先生の方が何倍もかっこいいので、遠慮しておきます。それじゃ」
その言葉に呆気にとられている小久保と佐奈美を尻目に、瑞穂は軽やかにその場を駆けて行った。その後を追いかける畠山の耳に、「俺よりあの地味なおっさんの方がかっこいいって、意味わかんねぇよ……」とぼやく小久保の声がかすかに届いてきたのだった。
畠山たちが追い付くと、榊原は、再び「大洋」の前に立って何事かを考えていた。
「今のやり取りで何かわかったんですか? 僕には、被害者があいつらを注意したって事以外何もわからなかったんですが」
「それで充分ですよ。一見関係なさそうな情報でも、積み重ねていけば論理構築の一助になるかもしれませんからね。実際、色々と参考になりましたし」
「そんなものですかね……」
と、ここで急に榊原の携帯電話が鳴った。榊原は焦ることなく電話を取り出すと、ゆっくりとした仕草でそれに出る。
「私だ」
『亜由美です。頼まれていた調査の件、結果が出ましたのでお知らせします』
相手は東京の事務所にいると言う宮下亜由美だった。そう言えばあれから一時間経ったのかと思い出すと同時に、本当に一時間で調べてきた事に畠山は内心舌を巻いていた。
「ご苦労さん。で、どうだった?」
『まず、収賄容疑で逮捕された元経産省職員の高槻泰成氏ですが、裁判の結果懲役三年を宣告されています。模範囚だったらしくって収監から二年半で仮出所していますが、やはり前科があるせいかその後の生活に苦労しているようですね。出所後しばらくは色々な職を転々としていたようですが……今から二年前の二〇〇七年、横浜市の桜木町駅のホームから飛び降りて自殺しています。享年三十歳です』
思わぬ話に、何の気なしにその話を聞いていた畠山は絶句した。が、榊原は冷静に続きを促す。
「つまり……彼は事件のせいで人生を狂わされ、最期には柳文菜同様に自殺に追い込まれたというわけか。高槻は母子家庭だったと聞いているが、母親はどうなったんだ?」
『彼の収監中、今から五年前の二〇〇四年に病死しています。享年五十八歳。息子が収賄で逮捕されたという事で周囲の目はかなり厳しかったようですね。そのような事実が、高槻氏が出所後にまともな職に就けなかった一因にもなっているのではないかというのが、当時の保護観察官の弁です』
「そうか……。ちなみにその母親の名前は?」
『高槻礼子。小森水産大学生物学部卒業後に都内の水産加工食品会社に就職しますが、その後妊娠。相手はわかっていません。出産後、女手一つで子供……泰成氏を育て、その子供が国家公務員として経産省に入省した矢先に問題の汚職事件が起きています』
「相手がわからんか……」
榊原がそう言って渋面を作ったその時だった。
「あの、亜由美さん! 今、小森水産大学の生物学部って言いました?」
そう発言したのは瑞穂だった。
『えぇ、言ったけど、何か心当たりがあるの?』
「正確には、生物学部の何学科ですか?」
妙な質問にも、しかし亜由美は難なく答える。
『えっと、生物学部海洋生物学科ね』
それを聞いた瑞穂は、少し真剣な表情でこんな事を話した。
「……先生、これは友達の由衣から聞いた話ですけど、今の桜森海洋大学は二十年ほど前に桜森大学の理学部生物学科海洋学研究センターと、その頃海洋研究で最先端を行っていた小森水産大学生物学部海洋生物学科が、桜森大学を経営母体として合併する事で誕生した大学だったはずです。そんな経緯があるので、今の桜森海洋大学の教授陣には小森水産大学出身の人間も多いって言っていました。つまり……」
それだけで、榊原は瑞穂が何を言いたいのかを瞬時に悟った様子だった。
「待ってくれ。高槻礼子は五年前に享年五十八歳で死去。今年まで生きていたとすれば六十三歳だ。そして……畠山さん、今回の事件の被害者の二人の年齢は何歳でしたか?」
「え、えーっと、池永教授が六十四歳、長良パイロットが三十一歳……えっ、まさか」
そこでようやく畠山も事の重大性に気付いたようだ。榊原はゆっくりと解説をする。
「池永教授は国立海洋博物館の研究員であると同時に、桜森海洋大学の教授でもあります。そして、林さんの証言では彼にとって桜森海洋大学は自身の出身校だったという事。しかし、瑞穂ちゃんの話では彼が学生だったであろう三十年以上前には桜森海洋大学はなく、この時代はまだ桜森大学理学部と小森水産大学生物学部に分裂している時代です。だとするなら……彼の出身大学が小森水産大学である可能性が浮上します。そして、池永教授と高槻礼子はわずかに一歳差。つまり、この二人は同時期に同じ大学に通っていた可能性があります」
「まさか、池永教授と高槻礼子に関係があったと言いたいんですか?」
「……私は、それ以上の可能性を考えています」
榊原の表情は険しかった。それに答えたのは瑞穂だった。
「高槻泰成さんの父親……それが池永教授じゃないかって事ですか?」
絶句する畠山の前で、榊原は重々しく言葉を紡いだ。
「あくまで可能性だがね。とはいえ、そうなれば池永教授は七年前の事件で自分の息子と愛した女性を失っている事になる」
が、そこで畠山は戸惑い気味に言った。
「で、ですが、だとしたら少しおかしいです。それが正しいなら、池永教授にとって太平洋サルベージは息子の敵のような企業です。そんな企業に自分から海洋調査の協力を依頼するなんて……」
「どうやら、問題はそこにあるようですね」
そう言うと、榊原は亜由美に確認を取った。
「太平洋サルベージの柳文菜についても調べてくれたか?」
『もちろんです。彼女は高校時代に両親を事故で無くし、その後奨学金で東京アジア短期大学を卒業した後、太平洋サルベージに就職。しかし、その直後に例の収賄事件に巻き込まれ、検察の事情聴取直前に渋谷区内の自宅近くにある公園の敷地内で自殺しています』
「自殺の状況は?」
『第一発見者は最寄りの交番の警官で、巡回中に茂みに転がっていた遺体を偶然発見したという事です。死因は服毒という事になっています。近くからジュースの空き缶が発見されていますので、ジュースに毒物を入れて飲んだと警察は判断していますね。毒物の入手経路は現在でも不明。死亡推定時刻は発見までの三十分以内。三十分前に近くのコンビニの防犯カメラに映っていたとか』
「じゃあ、その交番巡査があと少し早く発見していたら、彼女は助かっていたかもしれないって事ですか」
畠山がどこか悔しそうな表情で言う。榊原も険しい表情で告げた。
「結果論ですがね。話を戻すが、彼女に身内は存在しないという事でいいのかね?」
『概ねその認識で構いません。ただ……』
「ただ?」
『当時の友人の話だと、七年前の時点で彼女には同じ会社の中に恋人がいたようだと。話を聞く限り、同期の人間だったようですが……』
「彼女の同期入社の人間はわかるかね?」
『調べてあります。彼女と同期入社で、なおかつ恋人という条件から男性で絞り込むと、該当するのは二人だけです』
「それは?」
榊原はある程度予想しているようだったが、案の定、亜由美が告げた名前は畠山にとっても聞き覚えのある名前だった。
『長良家久と高千穂和也。この二人です。どっちが本命なのかまではわかりませんが……』
「なるほど、ね」
その瞬間、榊原の目が鋭く光ったのを、畠山は見て取っていた。
「亜由美ちゃん、すまないが、追加調査を頼めるかね? 内容は……」
と、ここで急に榊原は声を小さくして何事かを電話口に告げた。畠山にその声は聞き取れなかったが、幸い相手にはちゃんと伝わったようだ。
『……了解しました。では、もう一時間ください』
「頼む。その調査次第で結論が出せそうだ」
電話を切る。その榊原の表情が、どこか今までと違って厳しいものになっているのを畠山は感じ取っていた。
「彼女に何を頼んだんですか?」
「……それは結果が出てから話すとしましょう。今はまだ推測の段階ですから」
そう言われてしまえば、畠山としてもそれ以上突っ込む事は出来なかった。仕方がないので他の事を指摘する事にする。
「それで、どうなんですか? さっきから何を目的にしているのか、僕にはよくわからないんですが。確かに、池永教授と太平洋サルベージとの思わぬ繋がりらしきものは見つかりましたけど、肝心の深海での密室殺人の方法は未だに何もわかっていないんじゃ……」
と、そう言った畠山に対し、榊原は非常にあっさりとした風にこう答えた。
「あぁ、その件ならもう見当はついていますよ」
畠山は今日一日の中で一番長い絶句をした後、振り絞るように尋ね返した。
「あの……今、何と?」
「ですから、見当はもうついていると言ったんです。後は細かい微調整だけなんですが」
「ま、待ってください! 深海の密室のからくりがもう解けたっていうんですか!」
何が何だかわからないというのはこの事だった。大体、今までの捜査に榊原が積極的に密室を解明しようとする素振りなど一切なかった。ただ関係者の話を聞いて、人物関係の整理をしていただけである。にもかかわらず、それだけでどうやったらあの前代未聞の史上最深の密室の謎が解けるというのだろうか。
だが、榊原は努めて冷静なままではっきり答えた。
「あくまで推測ですがね。ですが、私自身はこれが正解だと確信しています」
「……理解できません」
畠山としてはそう言うしかなかった。が、これに対して瑞穂は少し笑いながら言った。
「あー、先生の頭の中を理解しようとしても無駄だと思います。先生はこういう人だって思うのが一番です」
「は、はぁ。いや、でも……」
と、畠山がさらに何か抗議しようとした時だった。船内から先輩警官が出てきて畠山に駆け寄ってきた。
「おい、畠山。さっき潜水艇のカメラのメモリーチップがなくなっているという話が出ていたな」
「あ、はい。この人が言うにそうみたいですが」
畠山はチラリと榊原の方を見ながら言う。が、それに対して先輩警官はこう続けた。
「実は、船内を調べていたらそれらしいものが出てきたんだよ。それも、荻原紬の部屋からだ」
「え……」
畠山は榊原の方を振り返った。その榊原は、興味深そうな表情で先輩警官の方を見つめている。
「本当ですか?」
「えぇ。本人は否定していますがね」
「……行ってみましょう」
榊原の判断は一瞬だった。再度船に乗り込むと、先輩警官の案内で荻原紬の船室へ向かう。部屋の前では、紬が泣きべそをかきながら必死に抗議していた。
「ち、違います! 私、何も知りません! こんな事って……」
そんな彼女を尻目に、榊原たちは彼女の船室に入る。かなり狭い部屋で、簡単なベッドとテーブルが備え付けられているだけである。警官が案内したのは、その部屋の隅……入口近くにあるゴミ箱だった。
「ここです」
そのごみ箱を覗き込むと、紙くずなどに混じって細かく砕かれた黒い何かの破片のようなものが捨てられていた。所々に金属の光沢も見え、さらに大きな破片などからもこれが何かのICチップだという事は明白だった。
「確かに……これはICチップのようですが」
そう言いながら、榊原はビニール袋を取り出して慎重に中身を移していく。一方、紬は必死だった。
「違います! 私、そんなの知りません!」
「でも、実際にあなたの部屋のゴミ箱からチップが見つかっているんですよ。それをどう説明するんですか?」
畠山の問いかけに、紬は言葉を詰まらせる。
「そ、それは……とにかく、それは潜水艇のチップじゃありません! 事件には何の関係もないんです!」
「いや、しかし……」
と、ここで破片を集め終えた榊原が彼女に背を向けながら口を挟んだ。
「今、『潜水艇のチップではない』と言いましたが、ではそれ以外のチップであるなら可能性はある、という事ですか?」
「え?」
思わぬ問いに、紬は当惑したような声を出した。榊原の視線が、テーブルの上に置かれているノートパソコンに向く。
「例えば、あのパソコンから抜かれたメモリーチップという可能性は?」
「えっと、その……」
なぜかここで紬は言い淀みを見せた。榊原としてはそれで充分なようだった。
「まぁ、ここまで砕かれてしまったら修復は困難でしょうね。とはいえ、それだけにこのままだと何のチップか特定ができなくて、あなたに容疑はかかったままですが」
紬は手を握りしめた。そのまましばらく沈黙が続く。畠山は固唾をのんでその様子を見守っていた。
が、先に落ちたのは紬の方だった。紬はがっくりと肩を落とすと、振り絞るような声で言う。
「それは……私のメモリーチップです。潜水艇のものじゃありません」
「内容は?」
榊原は簡潔に問いかけた。紬はまだしばらく逡巡しているようだったが、やがて諦めたようにこう言った。
「……あの人との写真です」
「あの人というのは?」
「……池永教授です」
最後は今にも泣きそうになりながらの発言だった。その言葉の意味する事に、その場の誰もが絶句する。が、榊原は何でもない風に淡々と質問を続行した。
「つまり、あなたと池永教授には師弟以上の関係があったと解釈してもいいんですね?」
「そうです! 何か悪いんですか!」
もはや開き直ったようなセリフだった。が、榊原は一向に動じない。ここまで冷静だと逆にそれさえもが武器といえるかもしれない。
「いつからですか?」
「……大学院に入ってすぐです。私は先生に全部をささげてきた。なのに……なのに!」
そう言いながら、紬は顔をひきつらせた。が、榊原はさらに容赦なく畳みかける。
「先程の証言では、昨日の夕食以降、池永教授には会っていないという事でしたが、本当の所はどうなんですか?」
「……本当は、昨日の夜、私に会いに来てくれたんです。でも……あの人、そこで急に『別れてくれ』って言い始めて……」
その場がざわめく。
「間違いありませんか?」
「私だって間違いだったらいいって思いましたよ! でも、あの人は何度も頭を下げてそのまま部屋を出て行って……私、気付いたらあの人との思い出の写真が入ったチップを砕いていて……」
「それがこのチップだと?」
「はい……。だから、私、潜水艇のチップなんて知らないんです! これは本当です! 私、風邪でずっと寝込んでいましたから!」
紬は必死だった。が、榊原は小さく首を振りながら言う。
「ひとまず、これは預かります。どういう判断をするかは、もう少し調べてからですね」
そう言うと、榊原は立ち上がって部屋を後にした。畠山たちも後に続く。
「今の話、本当でしょうか?」
「一応、辻褄は合います。本当かどうかは、これの中を見てみないとわかりませんが」
そう言いながら、榊原は砕かれたチップの入った袋を畠山に渡す。
「これはあなたが預かっておいてください。私が持つのは立場的にまずい」
「は、はぁ」
畠山はおっかなびっくりそれを受け取る。が、それを渡している榊原の表情に確信のようなものが浮かんでいるのに気付いて、畠山は思わずハッとなった。
「今での確証が持てました。やはり私の推理は間違っていないようです。あとは……」
と、そこで榊原の電話が鳴った。見ると、亜由美からである。
「私だ」
『亜由美です。さっき頼まれた池永教授に関する調査結果をお知らせします』
「いつも通り早いね。で?」
『当時の小森水産大学出身で、現在は北陸大学理学部教授をしている人に話を聞けました。その結果、池永教授と高槻礼子が小森水産大学の同期生である事は間違いないようです。しかもその教授曰く、彼らは同じ研究室の所属でかなり親密な付き合いがあったとか』
「そうか……彼女の出産に関しては?」
『公式な戸籍では父親は不明という事になっているというのはさっき言った通りです。たださっきの教授いわく、あれだけの付き合いがあったはずの二人がその頃から急に疎遠になっていたので、何かあったんじゃないかとは思っていたそうです』
「なるほど、ね」
『とりあえず取り急ぎ調べた限りではそんな感じです。あと、もう一つ頼まれた事についての調査は少し時間がかかりそうです』
「わかった。なるだけ急いでくれ」
『了解です。では』
電話が切れる。
「先生、もう一つ頼んだ事って何ですか?」
「まぁ、ちょっとね。それより、畠山さん。一つお願いがあるんですがね」
「何ですか?」
「デッキに事件の関係者を集めてもらえませんか? 具体的には容疑者の五人と……それに本条さんと、さっきのクルーザーに乗っていた大学生二人組です」
「は?」
畠山は思わず来聞き返していた。容疑者五人はともかく、最後の三人を呼ぶ意味がわからなかったからだ。だが、榊原は真剣な表情でこう言った。
「彼らの証言が必要なんです。だから、彼らには来てもらわなければなりません。この場で事件を解決し、犯人を暴き出すために」
「事件を解決って……それじゃあ」
「えぇ」
榊原は頷きながら宣告する。
「時間も時間ですし、そろそろこの事件に蹴りをつけます。このとんでもない密室を生み出した犯人……そいつの正体を、この場で明らかにする事にしましょう」
そういう榊原の表情は、静かでありながらどこか確信めいたものが浮かんでいたのであった……。