第六章 日常
その翌日、六月十五日月曜日、東京都品川区の裏町にある榊原探偵事務所。事務所の主である榊原は、デスクに腰かけて昨日の事件の記録を書いているところだった。備え付けのテレビからは、昨日の事件のニュースが今も流れ続けている。
『……今年一月に発生した千石線爆破事件と千代原駅における弁護士殺害事件に関し、北海道警は札幌中央テレビアナウンサー・鴻崎七海容疑者を逮捕しました。鴻崎容疑者は容疑を認めており……』
榊原がチラリと顔を上げて画面を見ると、それは夕日テレビのチャンネルだった。アナウンサーはそのまま無表情に原稿を読み上げ続ける。
『……なお、警察は五年前に東京新宿区で起こったビル火災についても鴻崎容疑者の関与が認められるとしており、近日中にこの件に関しても捜査が行われる可能性があるという事です。では、北海道警の前から竹島リポーターが中継です。竹島さん』
その言葉と同時に画面が切り替わって、あの時一緒にいた竹島蓮花アナウンサーが画面に映る。蓮花はどこか緊張したような表情を浮かべながらも、そのまま実況を始める。
『はい、私は今、鴻崎容疑者が取り調べを受けている北海道警本部の前にいます。詳細は不明ですが、鴻崎容疑者は警察の取り調べに素直に応じているようで……』
……あの後、榊原、道警、双方のテレビ局の間で行われた話し合いの結果、今回の一件は榊原らではなくあくまで道警が犯人を追い詰めたという形で落ち着く事となった。元々が非公式な会合だった上に、榊原や瑞穂自身メディアに露出したくないという意向を示しており、結果的に十角を騙していた事もあってこの件は道警に花を持たせるのが一番だという結論に達したのだった。もっとも、肝心の十角は最後まで榊原と口をきこうとせず、もっぱら柿崎がその交渉に当たったのだったが。
一方のメディア側も、鴻崎を逮捕された札幌中央テレビは最初からこの件を報道するわけにもいかず、対する蓮花ら夕日テレビ札幌支局も比較的あっさりと榊原たちの要請を承諾していた。肝心の会合に出ていた竹島蓮花自身が目の前で情けない姿を見せた鴻崎の姿を報道する気になれなかったようで、夕日テレビ側もあの会合がなかったものとして報道を行っているようである。
『……以上、現場からでした。では次のニュースですが……』
榊原はそこまで聞くと、テレビのチャンネルを変えた。偶然にもそれは日本中央テレビのチャンネルで、そこでは局の社長と思しき初老の男が頭を下げて謝罪会見をしているところだった。テロップを見ると『札幌中央テレビ局長会見』となっている。
『この度は、我が局のアナウンサーがこのような事態になってしまい、誠に申し訳なく思っています。事件の詳細等に関しては現在警察に確認中でございますが……』
そこで榊原はテレビの電源を切った。事務所に静けさが戻り、榊原はそのまま黙々と作業を続ける。それから三十分ほどして、榊原は今まで書いてきた事件資料をファイルに閉じ、そのファイルの表紙にタイトルを書いた。
『千代原駅弁護士殺害事件 二〇〇九年一月七日』
そして、そのまま大量のファイルが治められている棚に歩み寄ると、その一角にそのファイルを収めてふぅと息を吐く。
と、その時事務所のドアがノックされた。
「どうぞ」
榊原が声をかけると、ドアが開いておなじみの顔……深町瑞穂が入ってきた。
「やっほー、先生いますか?」
「君か。今日は早かったね」
「部活がなかったんです。それに、ちょっとお客さんもいましたし」
「客?」
榊原が訝しげに顔を上げると、瑞穂に続いて別の人間が姿を見せた。
「君は……真里菜君、か」
そこには、今回の依頼人である篠原真里菜が立っていた。
「事務所の前に立っていたんですけど、お礼が言いたいみたいです。せっかくなんで、聞いてあげてください」
「お礼、ね……。まぁ、構わないが」
その言葉に、真里菜は瑞穂に小さく頭を下げると、榊原の前に立った。
「あの……昨日はありがとうございました。父と……それに母の敵まで取ってもらって」
「いや、事件を解決したのはそこにいる瑞穂ちゃんだ。私は結果的に君の依頼を途中で放棄してしまっているしね。礼ならそっちに言った方がいい」
そう言う榊原に対し、しかし真里菜は首を振った。
「いえ、確かに深町先輩も凄かったですけど……それも含めてすべてを見越して先手を打つ探偵さんはもっと凄いと思いました。私、ずっとバスケをやり続けてきて、勝負って聞くとスポーツとか体力とか実力の勝負って思っていました。でも、今回の件でそれが間違っているって事を知ったんです。言葉と論理の勝負……そんな世界があるなんて、私、今まで知らなかった。弁護士だった父もそんな世界で生きていたんだって、この事件を通してやっと知る事ができたんです。私、もっとこの世界を知りたい。父や母が活躍していた世界を、ちゃんと知っておきたいんです。だから私……決めたんです!」
「決めたって、何をだね?」
榊原が不思議そうにそう尋ねた、その瞬間だった。
「ちょっと、瑞穂っ!」
誰かが大声を上げながら事務所に乱入してきた。それは息を切らせたさつきだった。
「さ、さつき、どうしたの?」
「それはこっちのセリフよ! どういう事よ、これは!」
そう言うとさつきは一枚の紙を突き出した。そこにはこう書かれていた。
『退部届 私、篠原真里菜は、一身上の都合により女子バスケ部を退部します』
それを見た瞬間、瑞穂はバッと真里菜の方を振り返っていた。と、真里菜はなぜかモジモジしながら瑞穂に別の紙を差し出す。そこに書かれている文字を見て、瑞穂は飛び上がるほど驚いた。
『入部届 私、篠原真里菜は、ミステリー研究会への入部を希望します』
「そんなわけです。私をミス研に入れてください!」
そう言って頭を下げる真里菜を、瑞穂は呆然として見る他ない。が、それに対して絶叫したのはさつきだった。
「瑞穂、あんた、うちの次期エースを引き抜くなんて、何考えてるのよ!」
「し、知らない! 私のせいじゃないって!」
「瑞穂先輩、これからよろしくお願いします!」
「ちょっと! さりげなく名前の方で呼ばないでって! っていうか、さつきが怖いからちょっと考え直して!」
「瑞穂ぉぉっ! あんたってやつはぁぁぁ!」
「あぁもう! 先生、何とかしてください!」
「……やれやれ」
榊原はため息をつきながらも、目の前で繰り広げられる愉快な光景を苦笑気味に眺めていたのだった……。
この世から犯罪がなくなる事はあり得ない。
これからもまた、様々な事情を持った犯罪者たちの手によって、巧妙に仕組まれた数々の犯罪が発生するのだろう。
だが、どんな事件が起ころうと、この男が屈する事はない。
どこまでも地味で、どこまでも凡人にしか見えない風貌でありながら、
品川の裏町にあるこの小さな事務所の中で、
この男は、静かに次の事件が依頼されるのを待ち続けているのである。
『探偵は、ただひたすら愚直に推理と論理に忠実であれ』
その信念を胸に刻む『真の探偵』榊原恵一。
彼の物語は、まだ始まったばかりである。
「さて、次はあなたの依頼をお聞きしましょうか……」




