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三大密室狂想曲  作者: 奥田光治
第一事件 史上最深の密室『深海800mの殺人』(東京都小笠原諸島父島沖)
1/13

第一章 発生

 日本本土のはるか南方、小笠原諸島に位置する東京都小笠原村父島。今年三十歳になる畠山武則は、この島にある小笠原警察署に勤務する巡査部長だった。

 本土から一〇〇〇キロメートル以上離れているにもかかわらず東京都に属するこの島は当然ながら警視庁の管轄であり、この小笠原署も警視庁所属の警察署である。が、警察署とは言いつつも署員の数はわずか十人程度。建物こそ立派ではあるが、内情は本土にあるその辺の交番とそう大差ない。おまけに人口二〇〇〇人に満たず、本土から距離があって観光客もそう訪れないこの島で犯罪が起こる事自体が珍しい話であり、はっきり言って仕事らしい仕事もない退屈極まりない日常である。絶海の孤島だけあって都会にありがちな大半の施設がないのもその退屈さに拍車をかけている。何しろ書店一つなく、本や漫画を読んで気を紛らわす事さえできないのである。これはある意味退屈という名の拷問だった。

 畠山は別にこの島の出身というわけではなく、正真正銘東京二十三区の出身である。実家は病院だが最初から後を継ぐ気はなく、都内にある東亜短大を卒業した後、何の気なしに警視庁の採用試験を受けたらなぜか合格。そのまま警察学校に入って卒業後に実家近くにある渋谷署の地域課に配属されたところまでは良かったものの、その次に配属先になったのがこの小笠原署だった。

 当時「お前、左遷かよ!」と、同期の同僚たちからは大いに憐みの視線を向けられたものである。送別会では何かやらかしたのかと散々聞かれたが、真面目に勤務をやってきたつもりだし、特に勤務上で何かしでかした覚えもない、と答えるしかなかった。実際、上司も「単なる通常の人事異動だ」としか言わなかった。

 結局、何とも複雑な気持ちのままこの署に赴任し、警察官としてはのんびりとした日常を迎えたまま早四年が経過している。あれ以来本土からは何の音沙汰もなく、異動の気配は皆無に等しい。ただ、仕事らしい仕事もないので昇進試験の勉強だけはやたらとはかどり、半年前に同期たちに先駆けて無事巡査部長に昇進していた。もっとも、本土に戻ったのはその昇進試験の時が最後で、以来ずっとこの島に缶詰め状態である。何しろこの島には民間飛行場がなく、交通手段が一週間に一度しかやってこない船しか存在しないので東京と島を往復するだけで一週間はかかってしまう。今までたまりにたまった有休を全部使っても一回東京に行って終わってしまうため、行きたくても行けないというのが実情だったりするのだ。

 そんな状態なので、署内全体の雰囲気もどこかのんびりとしたものだった。署長はすでに出世コースから外れた定年退職間際の準キャリアの人間で、すでに家族をこちらに呼び寄せて退職後もこの島で住む準備を整えている。他の署員も似たり寄ったりで、人数が少ないので全署員が複数の仕事をこなしている状態である。もっとも、それでも暇なのだからどうしようもない話であるが、それを愚痴っても仕方がない。四年も経つと、それがこの島の日常なのだと諦めに似た何かを感じるようにもなっていた。

 この日……すなわち二〇〇九年の四月四日土曜日も、そんな何も変わらぬ平和な一日が過ぎようとしていた。ちなみにこの島は東京都のくせに年間平均気温が二十三度近くもあるため、一年関係なく夏服着用だった。畠山は入口を入ってすぐのカウンターの向こうにある自分のデスクに座って、ぼんやりとパソコンを見つめていた。他に署員や来客の姿はなく、また今の所畠山にもこれと言った仕事はない。従って本などがない以上、HP巡りでもするしかないのである。ちなみに今見ていたのは、どこぞの大学生が載せている旅行ブログのようなものだった。何というか自画自賛に満ちたブログではあったが、正直そんなものでも面白く見えてしまうのだから、もう末期症状である。

「……うらやましい」

 畠山は思わずそう呟いて、大きくため息をついていた。


 ……その人物が署の入口に姿を見せたのは、ちょうど畠山がため息をついて反射的に大きく伸びをした瞬間だった。


 また誰か住民が暇つぶしの雑談でもしに来たのかと面倒臭そうにカウンターの方を見た畠山だったが、その来客の姿を見て少し訝しげな表情をした。

 それは四十代前後に見える痩身の男だった。が、この暑さにもかかわらずすっかり着古した感じのグレーのスーツにヨレヨレのネクタイを締めており、パッと見た感じは本土によくいそうな哀愁漂うくたびれた窓際サラリーマンのような風貌である。とはいえ、その格好は本土ならともかくこの父島では相当浮いている。少なくともこの島にスーツを着たサラリーマンはあまりに似合わない。

 畠山は改めて男の表情を見た。第一印象は、よく言えば凡庸、悪く言えば地味と言った感じである。正直特徴らしい特徴がなく、大学時代に都心で嫌と言うほど見た一般的な平凡なサラリーマンそのものというのが畠山の感想だった。手に持っている黒いアタッシュケースがなおさらその感触に拍車をかけている。こう言っては何だが、小説や映画にでも出てきたら、都会の雑踏のモブキャラ辺りに埋もれて印象に残る事もなさそうな男である。

 島の外の人間……畠山はすぐにピンときていた。この島の人間なら大体は感覚でわかる。が、この男のそれはどう見てもこの島のものではなかった。第一、こんな男がこの島にいたら逆に嫌でも記憶に残っているだろう。おそらく、仕事か何かでこの島にやってきたのだろうというのが畠山の予想だった。

 男はしばらくキョロキョロと署内を見回していたが、やがてこの場に畠山しかいないのを悟ったのか、少し面倒臭そうな表情でカウンターに近づいてきた。やむなく畠山が応対する。

「あの……何か御用ですか?」

 畠山が尋ねると、男はのんびりとした口調でこう言った。

「あぁ、すみませんね。実は、少し道を尋ねたくて。いやぁ、警察署を探すのに苦労しました」

「はぁ……本土のお方ですか?」

 畠山が問うと、男は少し意外そうな顔をした。

「ほう、わかりますか?」

「えぇ、まぁ。ここも長いので、ある程度見分けがつくんです」

「なるほど。いや、失敬。実は、本条という家を探しているのですが……。世帯主は本条昭三郎です」

「本条さん、ですか。少しお待ちください」

 畠山は少し訝しげに思いながらもパソコンで住所を確認する。結果はすぐに出た。

「えっと、ですね。この署を出た後……」

 畠山が道を案内すると、男は納得したように頷いた。

「あぁ、なるほど。そう行けばいいんですか。あらかじめ地図はもらっていたんですが、どうも読みにくい地図でしてね。これで助かった」

「はぁ……」

 畠山としてはそう言う他ない。とはいえ、警官として一応目的は聞いておく必要はある。

「つかぬ事を聞きますが、どういう要件でその本条さんの家をお訪ねに?」

「いえ、実は本条さんとは昔の知り合いでしてね。その縁で少し頼みたい事があると言われたもので、こうしてやって来たんですが……」

 どうも要領を得ない。何はともあれ、身元を確認しておく必要がある。

「失礼ですが、お名前をお聞きしても?」

「あぁ、そうですね。確かに、名乗らないのは失礼です。名刺でよければお渡ししますが」

 男はそう言うと、着古したスーツのポケットから一枚名刺を取り出すと畠山に差し出した。そこには飾り気もない文字でこう書かれていた。

『榊原探偵事務所所長 榊原恵一』

 その胡散臭い肩書に、畠山は思わず男……榊原を見やる。

「探偵、ですか?」

「そうです。あぁ、ちゃんとライセンスは持っていますよ。最近、法律で探偵も免許制になったみたいですからね」

「いえ、そういう事じゃなくて……」

 畠山は改めてもう一度名刺を確認する。事務所の住所は東京の品川になっていた。やはり本土の人間である。だが、どう考えてもこの目の前にいるくたびれたサラリーマン風の男が探偵などという職業をやっているとはとても見えなかった。畠山が人並みに想像する探偵といえば、何というかもっと格好いいタイプか、あるいは常人には理解できないような奇人風の人間というのが相場だった。さすがにそれは小説の中の描写だったとしても、間違ってもこんな平凡極まりない中年サラリーマン風の外見の男が探偵だとは思いたくないというのが本音である。これでも大学時代はある程度推理小説を読んでいたのだ。

 その胡散臭そうな表情を相手も読み取ったのか、やや苦笑気味に首を振った。

「まぁ、確かにそう簡単に信じられないでしょうね。こんな島だとまずお目にかかれない職業でしょうし」

「そりゃ、この島に探偵なんかいませんしね」

「信じてもらえなくても別にいいですよ。言った通り、私はあくまで知り合いに会いに来ただけですから。で、そろそろ行っても?」

 その言葉に、畠山がどうしたものかと考えていた時だった。

 突然、入口のドアが大きく開いて別の誰かが勢いよく飛び込んできた。そして、反射的にそれを見た瞬間、畠山はさっきの榊原以上に唖然とした表情をしていた。


「先生、遅いです! まだ道がわからないんですか!」

 そう叫びながらそこに立っていたのは、セーラー服を着た高校生くらいの少女の姿だったのである。


 いきなり飛び込んできた少女の姿を、畠山は素早く観察した。年齢はやはり高校生くらいだろうか。服装は一般的なセーラー服で、髪形はショートカットに近く、どことなく活発そうな印象を受ける。が、この島の人間ではない。父島にも高校は確かにあるが、そこの制服とは明らかに違う。これは本土の人間である。

 しかし、本土の女子高生がなぜ本土から遠く離れた父島までやってきて、しかもこの目の前にいる自称私立探偵の事を「先生」呼ばわりしているのか、畠山にはさっぱりわからなかった。

 そうこうしているうちに、少女は榊原の近くまでズンズンやってきて、少し怒ったように話しかける。

「もうここに入ってから十分以上経っているんですよ! この日差しの下で女の子を待たせるなんてどういう神経ですか!」

「いや、瑞穂ちゃん。ちゃんと道は聞いたんだが、このお巡りさんが色々と聞いてきてね。まぁ、この島じゃ私たちは怪しい人間だから、当然と言えば当然だろうが」

 榊原は少女にそう弁明していた。話の流れ的に、どうやら彼女の名前は「瑞穂」というらしい。

「そういう君こそ最初から建物に入ればよかったじゃないか」

「すぐに出てくるって言ったのは先生ですよ。まったく、先生は仕事以外だと本当にマイペースなんですから」

「余計なお世話だ」

 そこで畠山はようやく口を挟む事に成功する。

「あの……君は一体?」

「え? あ、すみません。私、先生の助手で深町瑞穂と言います。よろしくお願いします」

 瑞穂という少女は警官相手に物怖じする事なくにっこり笑いながら学生証を手渡す。そこにはそう書かれていた。

『都立立山高校三年 深町瑞穂』

 その高校の名前に畠山は聞き覚えがあった。確か都内にある中堅の公立高校だったはずである。どうやら彼女はそこの生徒らしいが、それにしては今の自己紹介には意味不明なところがあった。

「その、この人の助手、というのは?」

「言った通りです。私、先生の助手なんです!」

「自称、だがね。本当は高校のミステリー研究会の部長だ」

 榊原がぼそりと付け加える。どうやら、両者の認識には大きな違いがあるようだ。

「いや……正直よくわからないんだけど……」

「まぁまぁ、細かい事は置いておいて、それより先生、ちゃんと道はわかったんですか?」

「あぁ、大丈夫だ。やっぱり最初に私が言った通りだった」

「本当ですか? 絶対私の言った道が正しいと思ったのに……」

 瑞穂が頬を膨らませる。そこで榊原は畠山に頭を下げた。

「とにかく、教えてもらってありがとうございます。もう行っても?」

「え、あ、はい。どうぞ」

 いつの間にか、この二人にはこれ以上関わらない方がいいと畠山は判断していた。それを受けて、二人は畠山に一緒に礼をする。

「それじゃあ、失礼します」

 そのまま二人は警察署を出ようとカウンターに背を向けて入口に歩き始めた。何はともあれこれで一段落したと判断した畠山は、こっそり息をついて首を振りながら自分の席に戻ろうとする。少し混乱したが、これですべては終わったはずだった。

 と、その時だった。

「た、大変だ!」

 突然、出て行こうとした二人を押しのけるように誰かが警察署の中に駆け込んできた。これがもし再び外部の人間だったら畠山としてはうんざりしていたところだったが、幸いというか何というか、飛び込んできたのは顔見知りの人間だった。

「あれ、玄さんじゃないですか。どうしたんですか?」

 それは、顔見知りの漁師だった。いつもは快活に笑っている男だったが、今、その表情はなぜか引きつっている。その瞬間、畠山は尋常でない何かが起こったのを察していた。

 そして、案の定その漁師は日常の終わりを告げるこんな言葉を発したのだった。

「す、すぐに来てくれ! 人が……人が殺されたんだ!」

 その爆弾発言に、署のロビーは一瞬にして静まり返った。

「殺されたって……何があったんですか? どこで人が死んでいるんですか?」

 畠山が尋ねると、漁師は顔を真っ青にしたままこう答えた。

「いや、それが……どう言ったらいいものか……とにかく一緒に来てくれ!」

 どうも歯切れが悪い。畠山としては困惑する他なかった。

「来てくれって、どこへ?」

「港だよ! 今、遺体はそこにあるから! 急いで!」

 正直、状況がさっぱりわからないが、何はともあれ行ってみるしかない。畠山は小さく頷くと、漁師の後に続いて警察署を飛び出した。南国特有の強い日差しが打ち付けるが、そんなものを気にしている場合ではなかい。漁村の中を駆け抜けながら、畠山は漁師に説明を求めた。

「いい加減に状況を説明してください! 何があったんですか!」

「それが……正直、俺にもよくわからないんだ。俺の方こそ何があったのか知りたいぐらいでよ」

「わからない?」

 漁師は頷くとこう言い始めた。

「あんた、最近この島の沖合でどっかの学者先生が何かの調査しているのは知っているか?」

「学者先生って……あぁ、あの東京国立海洋博物館の。えぇ、もちろん」

 畠山は大きく頷いた。

 実はここ一ヶ月、この父島を拠点に都内にある東京国立海洋博物館の調査団の一団が、島の沖合の海で何かの調査をしているのだった。責任者は同博物館の主任研究員で、私立桜森海洋大学で教鞭も取っている池永太一郎教授。彼を中心とするプロジェクトチームが、深海調査艇などを使った本格的な海洋調査を実施していたのだ。確か、内容はダイオウイカだったかマッコウクジラだったかの現地調査だったと思うが、門外漢の畠山には正直よくわからない。

 ただ、国の自然公園であり世界自然遺産の暫定リストにも入っている小笠原諸島でその手の調査をするには当然許可がいるので、彼らは調査の前に父島にある小笠原村役場及び小笠原署に学術目的の調査であるという届け出をしていた。畠山もその場に立ち会っており、そのため彼らがそんな調査を父島周辺の海でしていること自体は知っていた。

「そう、その何とか博物館の学者さんたちだよ。今朝もいつも通り港を出発していったんだが、ついさっき予定の時間よりも早く戻ってきてな。何事かと思っていたら中から何人かが慌てて飛び出して来て、調査船の中で誰かが死んだってまくし立ててきたんだ。ほんで、このままだと埒が明かないから、俺が警察に知らせに行く事になったんだが……」

「調査船で人が死んだ?」

 畠山はようやく事態を把握し、そして、事の次第によってはこれがとんでもない事件になるかもしれないという事を実感していた。何しろ、この父島では過去に殺人事件など滅多に起こった事がない。そのため警察署にも刑事課や鑑識など殺人を捜査する部署は一切存在しないし、そもそも署員全員にそんな経験自体がないのである。

 頼むから殺人であるというのは間違いであってくれと祈っているうちに、畠山たちは父島の港に到着した。そこには薄汚れた漁船などに混じって、ひときわ立派な船が入港していた。国立海洋博物館所有の海洋調査船「大洋」である。

 その「大洋」の前で、何人かの人間が集まっていた。畠山が駆けつけると、その中の何人かが青白い表情で駆け寄ってきた。

「あぁ、お巡りさん! こっちです、とにかく来てください!」

 そう言って畠山に駆け寄ってきたのは、この調査チームのサブリーダーをしていた初老の学者だった。確か名前は林だったはずだ。

「林さん、とにかく状況を説明してください! 人が殺されたと聞きましたが、一体何があったんですか?」

「それは……とにかく見てください! そっちの方が説明するよりも早い!」

 そのまま畠山は林に連れられて船内に入った。船内にはチームのスタッフたちが不安げな様子でこちらを見つめている。

 連れて来られたのは後方のデッキだった。そこにはひときわ目立つ大きな乗り物……調査用の深海調査艇の姿があった。調査艇と言っても有名な「しんかい6500」のようなものではなく二~三人乗りくらいの小型のもので、見た感じは円形の大きなガラス玉と言った風である。上部が大きなガラス球のドームでおおわれており、その中に座席があるのが外からでも見える。これなら中から三六〇度の展望で深海を見る事ができるだろうし、実際そういう意図のもとで設計されたに違いない。こんな状況でなければ一度乗ってみたいと畠山も思ったかもしれない。

 だが、畠山からしてみればそれどころではなかった。そのガラス球の中……潜水艇の座席のを見て、畠山の表情は一気に険しくなった。そして、彼らが「見た方が早い」と言っていた理由を、ここでようやく理解したのである。

 甲板に上げられた深海調査艇……その中にはその座席にもたれかかるようにし、胸から血を流してピクリとも動かず虚ろな視線を向けた二人の男性の姿があった。一人は銀髪の男性、もう一人はかなり若い男である。そして、銀髪の男性の方に畠山は見覚えがあった。

「い、池永教授!」

 直後、畠山は思わずその人物の名前を絶叫していた。調査艇の中で物言わぬ姿となっている人物。それは、先日警察署に許可を求めにやってきたこの調査チームのリーダー、すなわち池永太一郎教授の変わり果てた姿だったのである……。

「船医が死亡を確認しました。二人とも、もう手遅れだそうです……」

 林が無念そうに言う。だが、畠山にとってはもっと大切な事があった。一体、これはどういう状況なのだろうか。それに、なぜ池永教授は潜水艇の中で死んでいるのだろうか。胸からの出血から見てまともな死に様でない事は間違いなさそうだが、その回答次第ではこの事件が恐ろしい展開を迎える事を、畠山はこの時点で悟っていた。

「これは……どういう事なんですか? なぜ彼の遺体があんな場所にあるんですか? 誰か教えてください!」

 畠山の叫ぶような問いに対し、林は畠山の想定した最悪の答えを答えた。

「……正直、私にもよくわからないんです。今から約五時間前、教授は潜水艇のパイロットと一緒にこの潜水艇に乗って海底調査に向かっていました。場所は父島沖合の深海八〇〇メートル前後。そこで深海生物の観察をするはずだったんですが……引き上げてみたらこの有様で……」

「まさか……」

 林は顔面蒼白で頷いた。

「そうなんです。教授はパイロットと一緒に八〇〇メートルの深海にある潜水艇の中で突然死んでしまったんです! しかも胸から血を流して! こ、こんな事絶対にあり得ないはずなのに!」

 その瞬間、畠山は自分がとんでもない事件……おそらく警察史上に名を残すであろう奇怪な事件に遭遇してしまった事を悟っていた。現場の様子を見て、畠山は思わず呟いていた。

「深海の……密室……」

 それはこの父島に、深海八〇〇メートルという前代未聞の密室が出現した瞬間だったのである……。


 殺人にせよ何にせよ、この状況は明らかに不審死である。畠山は状況を確認すると、即座に署に無線で連絡を取った。

「父島港に入港中の海洋調査船『大洋』にて不審死事案発生! 至急、応援求む!」

 その後、いったん下船していた人間も含めて、事件関係者を一度船内の一室に集める。この状況では関係者を誰一人逃がすわけにはいかない。さらに正式な死亡確認をするために島で唯一の診療所にも連絡を入れる。とにかく初めての事ばかりではあったが、畠山は必死に事件現場の保存に努めた。

 やがて、連絡を受けた先輩警官たちが駆け付けてきた。彼らも畠山の話を聞いてやや混乱していたが、何とかすぐに現場保存に協力する。と、そこで再度無線連絡が入った。相手は署長である。普段はのんびりしている署長も、さすがに緊張した声色である。

『君から状況を詳しく聞いておきたい。現場保存は他の人間に任せて、一度署に戻ってきてほしいんだがね』

「わかりました」

 畠山はすぐに船から外に出ると、走って警察署に戻った。扉を開けて中に入ると、すでにロビーには署長が下りてきていて深刻そうな顔をしていた。

「ご苦労さん。早速だけど、話を聞かせてくれないかね?」

 畠山は署長にかいつまんで事情を説明する。案の定、説明するごとに、署長の顔色が悪くなっていた。

「まさか……この島でこんな事件が起こるなんて……」

 署長は呆然自失だった。無理もない。殺人どころか犯罪自体が滅多に起こらない島で、よりによって今までに聞いた事もないような密室殺人が発生してしまったのかもしれないのである。信じろと言う方に無理があるが、畠山としてはこう進言するしかなかった。

「殺人だとすれば、本庁へ連絡しなければいけません。こちらに捜査のノウハウも鑑識もない以上、我々だけでは対処は不可能です。捜査一課に出動を求めるしか……」

「確かにそうだ。だが……」

 署長の表情が曇る。問題は、ここが本土から一〇〇〇キロメートル以上離れているという物理的な事情である。本庁の捜査一課に知らせても、彼らが到着するまでに運が良くても一日ないし二日、連絡船の都合がつかなければ最悪一週間、特例で自衛隊の軍用ヘリなどを使ったとしても五時間以上は確実にかかってしまうのだ。それまでの間、事件の対応を小笠原署が一手に引き受けなければならないのである。

「……とにかく連絡だ。正直、あまり気は進まないが……」

 署長はそう言うと、ロビー奥にあるデスクの電話を手に取った。そのまま何事かを話し始める。その様子を見ながら、畠山がこれからどうなるのか考え込んでいた時だった。

「あの、何があったんですか?」

 後ろから声をかけられて、ギョッとして後ろを振り返ると、そこには先程のスーツ姿の中年男……確か榊原とか言った自称私立探偵が困惑気味の表情で立っていたのだった。その後ろには瑞穂と名乗った女子高生の姿もあるが、こちらはなぜか興味津々の表情である。

「あなたたち……まだここにいたんですか?」

「えぇ、まぁ。あれだけ『人が死んだ』とかなんだとか叫ばれたら、気になってどこにも行けませんよ」

 榊原はそう苦笑気味に言う。そう言えば、漁師が駆け付けたときこの男もこのロビーにいたのである。

「それで、一体何があったんですか? さっきから見ている限り、何か一筋縄ではいかない事が起こったようですが……」

 畠山は一瞬どうしたものかと躊躇したが、どのみちここで話さなくてもすぐにばれると判断して必要最低限の事だけ話す事にした。

「実は、港で人が亡くなりまして……それがどうも殺されたようなのです」

「殺人、という事ですか?」

「現段階では何とも言えません。とにかく、そういう事情なので今大変なんですよ。話があるなら後でもいいですかね?」

 そう言って畠山はこの妙な男との会話を打ち切ろうとしたが、榊原は少し考えた後でこんな事を言った。

「それは構いませんが、でも、殺人だとすると大変でしょうね。こんな島ですから、捜査一課が来るまでにかなり日数がかかるんじゃないですか?」

「ええっと……」

 確かにそうだった。が、畠山としてはこの男の口からそんな言葉がさらっと出てきた事の方が驚きだった。

「その通りですが……随分警察の事情に詳しいんですね?」

「まぁ、仕事柄です。とはいえ、私としてもこのまま事件が長引いてほしくはないんですけどね。一応、次の船で本土に帰らないといけないんですが、この分だと次の船で捜査一課がやってきたとして、その連絡船で本土に帰る事を多分彼らは許さないでしょうしね」

 そう言って榊原は考え込んでしまう。畠山としても気の毒ではあったが、今は彼の事など気にしている場合ではないと、適当に切り上げてその場を離れようとした。

 と、その時だった。不意に後ろの少女が手を叩きながらこんな事を言い出したのである。

「そうだ、先生! この際ですから捜査を手伝ってあげたらどうですか? これも何かの縁ですし」

 思わぬ言葉に畠山は唖然としたが、それは当の榊原も同じようだった。

「手伝うって……」

「だから、このまま事件が解決しなかったら私たちしばらくここで足止めされちゃうんですよね。だったら、先生が協力して事件を少しでも早く解決できるようにした方がいいかなって思って。第一、目の前で殺人事件が起こっているのに見過ごせる先生じゃないですよね」

「いや、しかし……それはさすがに出しゃばりすぎじゃないかね?」

 榊原が困惑気味に言う。そして、それは畠山も同感だった。

「そ、そうですよ! いくら探偵でも、素人が警察の捜査に協力するなんて言うのは、小説の中だけの話です! そんなの、上の許可が下りるわけがありません!」

 畠山は必死に説得を試みた。これは小説ではなく現実の事件なのだ。そんな事が許されるわけがないのは当然であった。

 だが、この畠山の言葉に、なぜか榊原は少し考えるような素振りを見せると、唐突にこう問いかけた。

「……その言い方だと、上の許可さえあれば私に捜査を手伝わせる事はやぶさかではない、という事ですか?」

「え?」

 思わぬ聞かれ方をされて、畠山は戸惑う。確かに、どう考えても人手不足でなおかつ捜査一課が来るまで時間もかかるこの状況では、少しでも手伝える人間がいてほしいというのが畠山の個人的な思いだった。

「どうなんですか?」

「それは……まぁ、本音を言えばそうですけど、でも無理です。許可なんか出るわけがありません」

「……では、仮に許可が出たとした場合、あなたは今瑞穂ちゃんが言った申し出を受けますか? 受けるというなら、私も探偵としてこの依頼を引き受けますが」

 その言葉に、いい加減に畠山もやけくそ気味になっていた。気づいたら彼はこう叫んでしまっていた。

「えぇ、許可が出るんだったら、喜んで手伝ってほしいですね! もっとも、そんなの無理ですけど!」

「……なるほどね」

 そこで、榊原はなぜか大きくため息をついた。

「やむを得ないか。まぁ、確かに瑞穂ちゃんの言うように目の前で殺人事件が起こっているのに見過ごすのは私の主義に反するからな。いいだろう、この一件、受けようじゃないか」

 驚いたのは畠山である。あまりに急な展開に話について行けない。

「勝手に何を言って……だから、許可が……」

 畠山が反論しようとしていると、榊原はおもむろに黙って電話している署長の方へと近づいた。一方、署長は署長で何やらもめているようである。

「到着まで一日はかかる? そんな! 我々に一体どうしろと……」

 と、そこで榊原が署長の肩を叩いた。署長は訝しげに受話器を抑えて榊原の方を振り返る。

「何だね、君は?」

「失礼。相手は本庁の捜査一課長ですか?」

「そうだが……」

「少し代わってもらえませんかね? 話したい事があるので」

 が、さすがにこれで代わるような署長ではなかった。

「何を馬鹿な事を言っているんだね! 今忙しいんだ! 部外者は引っ込んで……」

「あぁ、なら代わらなくてもいいです。その代わり先方に『榊原という男が話をしたがっている』と言ってくだされば結構ですよ。それで何もなければ私はおとなしく退散します」

 そう言うと、榊原は一歩引いた。署長は何が何だかわからず戸惑っていたが、ずっと待たせておくわけにもいかずもう一度受話器を耳にやった。

「あ、失礼しました。いえ、実は今ここに榊原とかいうわけのわからない男がいるんですが、その男が一課長と話したいと……え?」

 ここで急に署長の態度が変わった。

「いや、しかし……はぁ、わかりました」

 そのまま困惑気味に榊原に受話器を渡す。

「君と話がしたい、との事だ」

「どうも」

 榊原は遠慮なく受話器を受け取ると、そのまま何事か話し始めた。何分かその状況が続くと、榊原はおもむろに署長に受話器を返す。

「話があるそうです」

 署長は受話器を受け取って何事か話していたが、そのうち署長の顔色がみるみる変わっていくのが畠山にもわかった。何がどうなっているのかわからないうちに、署長は受話器を置いて榊原の方を見た。

「一課長は何と?」

「……特例として、捜査一課が到着するまであなたの捜査への参加を許可する、との事です。アドバイザーとして、我々に協力してほしいと」

 その言葉に一番びっくりしたのは畠山だった。が、榊原は淡々とした様子で事務的に事を進めた。

「ありがとうございます。それでは早速現場に向かいましょう。状況を把握しておきたい」

「いいでしょう。こうなったら、状況的にあなたに頼る他はないようですからな」

「では、我々は先に向かっておきます。そこでお待ちしていますよ」

 そのまま榊原と瑞穂は、何事もない風に署を出て行った。何が何だかわからないのは畠山である。思わず署長の下へ駆け寄っていた。

「署長、彼らは……一体何者なんですか? ただの私立探偵じゃないんですか?」

 その言葉に、署長は首を振った。

「どうやら違うようだ。どころかとんでもない奴かもしれない」

「と言うと?」

 続く言葉に、畠山は衝撃を受けた。

「一課長いわく、あの男……榊原恵一は、元警視庁捜査一課の刑事だそうだ。元の階級は警部補らしい」

「元刑事、ですか?」

「あぁ。それも捜査一課にその名を残す伝説の刑事で、十年ほど前に辞職して以降も私立探偵として数々の大事件を解決しているらしい。とてもそうは見えないがな」

 その言葉に、畠山は反射的に今榊原が出て行った扉の方を見やった。

「伝説の刑事? あのさえない男が?」

「詳しくはわからないが……捜査一課長が太鼓判を押していたよ。『あいつに任せておけば大丈夫だ』とな。それと、こうも言っていた」

 署長はこう言い添えた。

「『一見すると地味でさえない凡庸な中年男だが、あれの中身は……一種の怪物だ』と」

 その言葉に、畠山は何か得体の知れないものを感じ取った。自分は何かとんでもない人間をこの事件に介入させてしまった……そんな考えがふと畠山の胸を横切った。

「とにかく、元とはいえ捜査一課の刑事がいるなら状況はかなり改善される。少なくとも捜査一課が来るまでの間、捜査のノウハウを知る人間はいた方がこちらとしてもありがたいのは事実だ。上の許可も出たし……ここは一つお手並み拝見というのもありだろう」

 署長のそんな言葉に、畠山は素直に頷く事しかできなかったのである。

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