1
ホールに閉じ込められた日から5日後。
サヨコは地球に戻るべく、ステーションのドッキングプレートにいた。
側にはスライとクルドが立っている。
緩やかな動きでステーションに到着したのは、連邦警察が出した特別機だった。
あれから、幾つかの状況が変わった。
サヨコはカージュの『草』と、アイラの苦労の末に駆けつけた連邦警察の『草』とアイラの管理で、何とか一命を取り留めた。
『第二の草』は連邦警察に押収され、調査が進められている。
現在のところでは、このステーションが、ファルプの管理下において、『第二の草』の人体実験場所として使われていたらしいこと、モリをはじめとする数人の被験者がいたらしいこと、その研究資金が『青い聖戦』から出され、売買のもうけは逆に活動資金にされていたことなどが解明されつつあった。
ファルプは小型機でステーションを脱走したが、行方が知れない。地球近郊で打ち落とされたとの情報もあった。
『青い聖戦』の活動はやや下火になっている。
サヨコは事件の関係者としてだけではなく、才能と可能性を認められ、連邦警察直属の心理療法士として各種の事件に活躍するように辞令が下りた。
とりあえずは、今回の事件を報告するために、地球へ戻ることになっている。
「サヨコ! おまたせ!」
特別機からアイラが降りてきた。
心配そうにサヨコを見つめ、
「もう大丈夫?」
「ええ」
うなずいて、サヨコはスライ達を振り返った。
初めてここへ来たとき、サヨコは自分が生きていることさえ不安に思う、頼りない少女だった。
けれども、事件に関わったことで、サヨコの心の中で何かが動いて育ち出した。その何かは、サヨコを予想もしていなかった新しい世界へ押し流して行こうとする。
見え始めた視界は今まで見たことのない風景で彩られている。
鮮やかで美しい。
その鮮烈な世界を怖がっていない自分が、サヨコは不思議だった。
クルドを、そしてスライを見る。
スライはどこか戸惑うように瞳を揺らせている。
感謝を込めて、サヨコは言った。
「ありがとう……本当に、いろいろと」
「こちらこそ。また、いつでも来てくれ。ただし今度は、連邦から一杯『草』をもってきてくれよ」
クルドが悪戯っぽくからかった。
思わず笑ったサヨコに、さっきから無言で見つめていたスライが、低い声でぽつりと言った。
「そのうちに地球へ行く」
「え?」
「休暇を取って…ひさしぶりに故郷を見たくなった」
とぎれとぎれに話すスライの目が、前より数段柔らかく温かな光をたたえている。
それを、サヨコは吸い込まれるような気持ちで見返した。
(あのとき)
呼吸が止まり、体が加熱して焼き切れたエンジンみたいに虚ろになったとき、繰り返し命を吹き込んでくれたスライのことを覚えている。
何度もサヨコを呼んでくれた。
1人で逝くなと引き止めてくれた。
その呼び掛けが闇の宇宙に漂い流れていきそうなサヨコの心の『フィクサー』となった。
戻ってきたサヨコを、しっかりと抱き締めたスライはなぜか泣いていた。
(人魚姫みたい)
ぼんやりとそう思ったのを思い出す。
抱えられているサヨコの方が女性なのだけど、空気の満ちた幻の海で溺れ死にかけたサヨコを、涙の銀の珠を散らせながら抱きかかえていたスライの瞳は、信じられないほど見事な碧で。
光を放つような、見入られてしまうようなその輝きに、一にもニにもなくしがみついていた。
(泣かないで、と言いたかった、そのまま、溶けて泡になってしまいそうで)
もう何もかも大丈夫だと伝えたかった。
(あなたはこの海で、わたしは地球と言う陸で)
お互いに傷を背負ったままだけど、たぶん前よりは楽に生きられる、そう確信していた。
そのとき、とくとくと小さくときめきだした胸の鼓動を、サヨコは密かに抱えている。
伝えることはできないかもしれない。これは違うものかもしれない。
けれど、この緑色した宝石はきっとサヨコの宝物になるはずだ。
(エリカには教えられない……こんなきれいなもの)
来るまでには思いつかなかった冗談に我ながら驚き、サヨコはついくすりと笑った。
「休暇を取るから」
スライがおずおずと呟いた。
「そのときに、地球で会ってくれるか?」
掠れた声で尋ねる。瞬きをする目元が僅かに紅に染まっていて、一層瞳の緑が際立つ。
その瞳にサヨコは惚れ惚れと見入った。
「ええ、もちろん」
「楽しみに、している」
スライはにっこりと笑った。子どものような幼い笑い方だった。
「えー、あー、ごほん!」
クルドが白々しく咳払いする。
「なるほど、サヨコにはとっておきの『草』があるのか。じゃあ、もし、今度『草』が切れたら、『それ』でも舐めておくかね」
「え……」
サヨコはどきりとした。あの抱き締められたとき、そっとスライの涙に唇を寄せたのを見られでもしていたのか、と思ったせいだ。
「クルド」
ひさびさにひんやりした声がスライの口から漏れたが、彼を振り返ったそこに居る全員が、居心地悪そうに目を逸らせてもぞもぞしてしまった。
スライは信じられないほど真っ赤になっていたのだ。
「あーあーあーあーあ」
アイラがまっ先に煮詰まった。両手を振り上げ、大袈裟に肩を竦める。
「行こう、もう行ってしまおう、こんなとこに居られないわ、とんでもないわ、どうにかしてよ、この男を!」
最後の台詞はクルドに向けてのものだ。
「え、何、何だ?」
「後で教えてやるよ」
クルドがスライの問いかけを流す。
「サヨコ、珍しいものを見たな、めったに見られないぞ、こんなものは」
「何、何なんだ」
不安そうに尋ねるスライにクルドは肩を竦め、アイラは凍りついた顔でサヨコに向き直った。
「さ、行きましょ、こんな幼稚園児ほっといて。まずは連邦警察のお偉方がお待ちかねよ」
「わかったわ、アイラ」
「何だ、何だよ」
うろたえるスライをアイラがうんざりした顔で突き放す。
「さよなら、スライ船長」
「さよなら、お2人さん。『新・紅』がおしゃかになる前にはもう一度来てくれよ」
「なんだ、いったい何だ」
「はいはい、まあ、クルドに後から聞きなさい、ほら、サヨコ!」
「はい。では……スライ船長」
「スライ、でいい」
「スライ」
見上げたサヨコにスライは目を細めた。瞳がきらきらと光を帯びている。
「いろいろお世話になりました」
「また会うから」
咳き込むようにスライが応じる。
「きっと行くから、待っていてくれ」
必死な瞳。自分でも意識なんてしていないだろうに。
サヨコは思わず微笑んだ。
「はい、待ってます」
ついいたずら心から付け加える。
「……それまで、泡になんてならないで下さいね?」
「……は?」
きょとんとしたスライに背中を向けて、サヨコはくすくす笑いながら特別機に乗り込んだ。
「何?」
アイラがサヨコに肩を並べながら尋ねてくる。
「人魚姫」
「は?」
「人魚姫みたいでしょう、スライって。宇宙にいる緑の目の人魚姫」
アイラがあっけにとられた顔になった。ぽかんと口を開け、やがてくすりと笑う。
「『小学生』よりはいいか…………けど、サヨコ」
「はい?」
「言うようになったわねえ」
「鍛えられましたから」
サヨコもまた笑い返した。




