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「さて……どうしようかなあ……サヨコ、叔父さんのところへ行くつもりなら、ついていってもいいけど?」
アイラは廊下に出ると、にこにこしながら話しかけてきた。
「ありがとう。でも……もう少し、後にするわ。今は何か…頭がすっきりしていなくて…」
サヨコは考え込みながら答えた。
ひょっとすると、タカダは既にサヨコが陥った状況を知っているかもしれない。訪ねていくにしても、できればサヨコ1人の方が、タカダとしてはいろいろ尋ねやすいかもしれない。
「ふうん…」
アイラはサヨコを覗き込んで、意味ありげに、くす、と笑った。相手を見ると、サヨコの顔に目を据えたまま、
「じゃあ、あたしの部屋に来ない? 今すぐ1人になるのも何かと不安でしょ。少し話しましょうよ」
(ひょっとして、アイラも事件と関わりがあるの?)
含みのある口調が気になったものの、騒ぎがあったすぐ後に、また新しい騒ぎを起こすほど無謀なことはしないだろう。それに、確かに、今すぐ1人で部屋に戻る気にはなれない。
「あのね」
ためらうサヨコを気遣ったのか、アイラは話し出した。
「あたし、日本の古い曲のCDを持って来てるの。好きなものばっかりだけど、それがどういう歌なのか知りたくて。人からもらったもので、解説も何もないのよ。あなたなら、少しはわかるんじゃない?」
アイラは期待に満ちた顔になっている。
(それが目的…)
サヨコはほっとして笑い返した。
「あんまり……知らないけど…じゃあ、寄せてもらうわ」
「ありがとう、とっておきのお茶、ごちそうするわね」
アイラは嬉しそうに笑った。
エレベーターで一般居住区の層に下りる。そこから廊下を移動して、サヨコはアイラの部屋に招き入れられた。
「う…わあ…」
「うふふ……可愛いでしょ。オリヅルっていうんだって」
サヨコは一歩部屋に入って、目を見張って周囲を見回した。
あちらこちらに、テープで小さな紙の鳥のようなものがとめられている。赤や朱、金に銀、紫にあさぎ……色鮮やかな紙の鳥。よく見ると、1つ1つ、紙を折ったり曲げたりして作られているようで、多少の形の狂いがかえって愛らしさを増している。
「部屋があんまり殺風景だから。オリガミ持ってきていたの。眠れなかったら折ろうと思ってて。それで折ったの…オリヅルって言うのよ」
得意そうにアイラが説明した。
「アイラが? 作れるの、こんな不思議な形のもの」
思わず呟くと、彼女は悲しそうな切なそうな目になって、サヨコを見た。
「不思議な形、か」
淡く微笑んで見せる。
「昔は、日本人のほとんどが折れたのよ……あ、お湯もらってくるわ、待ってて」
アイラが部屋を出るのを見送ってから、サヨコは改めて部屋中に舞う『オリヅル』を見回した。目も口も何も書かれていないけど、ほんの少しの紙のゆがみや陰影で、いろんな表情があるように見える。
デスクの上に、ボードに留められた正方形の色紙があった。どうやら作りかけらしい緑の『オリヅル』も載っている。そろそろと近寄って、2つを指先で撫でた。通常の紙よりも薄くつるりとした手触り。どこか遠い時の中で、祖先がこれらを作っていたのだろうか。
「オリガミ……オリヅル…」
日本語のように聞こえる響きだが、サヨコの記憶の中にはない。
(何のために作ったのかしら)
紙で作った鳥。
部屋の装飾に使ったのだろうか、それとも子どものおもちゃだろうか。
でも、子どものおもちゃとしてなら、ほとんどの日本人が作れたというのは不思議な気がする。
(それよりももっと何か、違うものに使われたような気がする)
サヨコは首を傾げて、少し目を閉じた。
(そう、何か、祈りを紡ぐようなもの)
何の祈りだったのだろう。
(ひょっとして、よりよく生きるため、とか。魔よけ、とか)
サヨコはドアを振り返った。
アイラはまだ帰らない。
そっとデスクの椅子につき、緑の紙を取り上げた。
ボードの下に作り方の図解があった。じっと見ている間に、自分も1つ作ってみたくなった。
(色紙はまだ何枚もあるし、緑もある。……1枚だけなら使ってもいいわよ、ね)
普段ならしなかったろう。けれど命を狙われて、またこの場所に頼りにする者1人も見出せない気持ちに、魔よけの品というイメージは強く響いた。
正方形の紙を半分に、三角に折る。隅をきちんと合わせましょう、と書かれているのに気づいて折り直す。と、色紙の滑らかな表面に無様によじれた筋がついて、サヨコはうろたえた。
(失敗しちゃ、だめなのね)
慌てて広げて延ばしたが、紙には既に2本の筋が残ってしまった。
「始めてしまったら、後戻りはできないんだ……」
それは、サヨコの始めた『もう1つのこと』と重なって、指を緊張させた。
始めたら、後戻りはできない。
サヨコは調査を始めるにあたって、スライを見事に敵に回してしまった。だからと言って、失敗は許されない。失敗すれば、あの地球でも生きる場所を失ってしまう。
唇を噛み、少しずつ少しずつ図解に従い折っていく。やがて、紙はサヨコの手の中で次々と形を変え、思いもしない部分が羽根になり嘴になった。どうするのかわからなくて、何度も手を止めた。だんだん夢中になっていく。まるで手の中に、緑の紙で表現されたもう1つの宇宙を組み上げているような不思議な感覚に落ち込んでいく。
(平面が折り直されて起こされて、空間になって見えない形が浮かび上がる…)
アイラはなかなか帰って来ない。
どれほど、そうして紙と格闘していただろう。
やがて、サヨコはすっかり熱くなった顔を上げた。額にうっすらと汗をかいている。両手の中に、模様のように幾つも折り損なった筋のついた、小さな鳥が現れていた。
部屋の中に飾られているアイラのものほどきれいではない、けれども、間違いを繰り返した跡さえ何か特別な文様のようにさえ見える、その『オリヅル』は、とても美しく見えた。
「できた…」
吐息とともに誇らしげな思いともに呟いて微笑んだ。
「ほんと」
ふいに、背後から応じるような声が響いて、サヨコは急いで振り返った。
いつのまに戻っていたのだろう。アイラがポットを持って立ち、じっとサヨコを見守っている。
(ああ、しまった)
アイラの茶色の瞳が淡く陰っているのを見たとたん、汗が一気に冷えた。
「血、なのかしら、それとも、日本人の特性?」
「あ、わ、わたし」
緑の『オリヅル』を手に慌てて立ち上がり弁解しようとしたサヨコを、アイラは物憂く遮った。
「いいの、責めてるわけじゃないの」
小さな吐息を1つ。
「でも、あたしが初めてそれを作ったときは、何時間もかかったわ」
放り出すような口調に微かな怒りがこもっているようだ。




