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スライの部屋を出たサヨコは、医務室へと足を向けた。
通りすがりの関わりだと思っていたアイラに、あれやこれやと助けられた。礼の一つも言えないのか、というスライのことばが蘇る。
(くやしいけど、本当よね)
だが、スライと協力していくのは並大抵のことではない。彼の中にある根深く激しい日本人への怒りは、どうしても解けないように思える。
(けれど、それはスライがそれほど傷ついていて、まだ回復していないという証拠だ)
それは裏返せば、それまでのスライの、日本人への深い信頼を語ってあまりある。
暗く重い緑の目を思い出して、サヨコは立ち止まった。
人は誰も、心の奥底に、大小さまざまの傷を抱えて生きている。どんなに小さな傷でも身動きできなくなるときはあるし、どんなに昔の傷でも治りきらないものはある。治癒はその人間の強さだけでははかれない。傷に立ち向かうときにどんな支えがあったかにもよるのだ。
(10歳のスライ)
信頼していた人間に、目の前で、穏やかな家庭を引き裂かれ、家族が殺されて、その中で1人放って置かれた、幼い少年だったスライ。
あの暗い瞳の中には、幼いスライがいまだに放置されている。傷の1つも癒されぬまま、ただ目隠しして生き延びてきた少年が。
(それは、きっと、どこかで、わたしと同じ傷みにつながっている)
仮にも心理療法士を仕事とする者にしては、あまりにも考えのない言動だった。
(でも)
サヨコはさっきの怒りを思い出していた。
地球でも、日本人だということや『GN』だということで、いろいろな差別を受けてはきたが、どこかで抵抗しても無駄だと諦めていたような気がする。身を竦めることに慣れてしまって、体を縮めることしかできなくなっていて、怒ることさえ忘れていた。
なのに、あのとき、ふいに、何か、自分の体の中に、全く新しい火種が現れたような気がした。与えられたお座なりの関わりではもう嫌だ、そう叫ぶ自分が、突然生まれた。
諦めて消去法で残った生き方ではなくて、見つけ出して選び取った生き方をしてみたい。
胸の中に、今そういう思いがふつふつと沸いて来ている。
サヨコは歩きだした。
(わたしは日本人……わたしは『GN』…)
それは生まれてきた条件、それ以上の意味はないのだ。
ならば、そこから始めるしかない。そこから生きていくしかない。
(こういう考え方は、したことがなかった)
どこかで、日本人でなければ、『GN』でなければと、それを繰り返し考え続けて、そのたびに動かせない運命を思って嘆いていた、そんな気がする。
(動かせない運命が問題じゃないんだ。運命を動かせないと思うことが、身動きとれない絶望を産んで、心を苦しめていくんだ)
突然目の前に広大な地が開けた気がする。
(こんなに広かった)
彼女が取り得ることができる選択肢は。
(こんなにたくさんあった)
衝撃にサヨコはなかば呆然として、無意識に医務室のドアをノックしていた。
「はあい、どうぞ」
明るい華やかな声が応じて、我に返る。
「だぁれ? 入って。ファルプも居るわよ」
声が促すのに、そっとドアを開けると視界に濃い金髪が飛び込んできた。
デスクの前にファルプが立ち、アイラが座っている。ファルプの物らしいだぶだぶの白衣を、袖口を織り上げた状態で羽織っていたアイラが振り返り、サヨコを認めてにっこりと笑った。
「サヨコ! もう大丈夫なの?」
「ええ」
サヨコは相手の微笑の艶やかさに押されて頷き、目を上げてファルプを見た。
丸い顔にアイラに勝るとも劣らないにこやかな笑いを浮かべていたファルプは、悪戯っぽく片目をつぶって見せ、
「やれやれ、だ。こんなところでミステリーの脇役をすることになるとは思わなかったよ」
ことばとは裏腹に、むしろ楽しんでいるような口調だ。
「あら、でも、ミステリーの脇役こそ、重要な役目をしてるものでしょ? ああ、でも疲れたわ。ここって暇なようだけど、どんな患者が来るかわからないから疲れるわね」
アイラは肩をすくめて眉を上げた。ただでさえ大きな瞳が広がって、椅子から立ち上がり、体をくねらせるようにするりと白衣を脱ぐ仕草が、まさしく猫そのものに見えた。
「じゃあ、あたし、もう自分の部屋へ行っていいでしょ?」
「助かりましたよ、お嬢さん。緊急手術が必要なときにでもお願いするとしよう」
ファルプが白衣を受け取って、袖を通しながらやり返す。たじろいだふうもなく、アイラは首を竦めた。
「ごめんだわね。あたしは、ここへ、旅行に来たのよ? こんなところまで来て仕事を探す気はないわ」
「それはそうだ」
ファルプはおどけて答えた。
「『こんなところ』で仕事をしている身でも、ときどき休暇が欲しくなる」
「十分眠ったでしょ? あたしは少し眠らせてもらおうっと。サヨコはファルプに用だったの?」
ようやく話が自分に戻されて、サヨコは首を振った。
「いいえ……あの……わたし、ずいぶんあなたに迷惑をかけてしまったから……お詫びが言いたくて」
「あら、そんなこと、いいのに。宙港で会ったときから気になってただけだわ。憧れの日本人」
アイラは語尾に微かな皮肉を響かせたが、すぐに消した。
「それより…災難続きだわね。叔父さんには話したの?」
さりげない問いかけに、サヨコはファルプをちらりと見た。
まだ、サヨコを襲ったのが誰なのか、何が目的なのか、まったくわかっていない。むしろ、謎は深まるばかりだ。
タカダが連邦警察だと知れたら、もっとややこしいことになるだろう。スライやクルドにさえ叔父で通している。ファルプが万が一サヨコの敵でなかった場合があるにせよ、スライ達と通じる可能性は大きい。ファルプに本当のことを明かすのは得策とは思えなかった。
サヨコは静かに首を振った。
「いいえ、まだ…」
「あら」
アイラは眉をしかめた。
「知らせてくれなかったの?」
恨みがましく振り返るアイラに、ファルプがすまなそうに答えた。
「あれこれバタバタしたものでね。サヨコ、君が直接話すのが一番かと思うけど、なんなら、こちらからも経過を話そう。叔父さんは何という人なのかな」
親切そうな声音には悪意は感じられない。
「ソーン・K・タカダ……です」
「わかったよ。それじゃあ、アイラ、サヨコ、また後で」
「きっと伝えてね」
サヨコの代わりのようにアイラが念を押し、サヨコは彼女に促されて医務室を出た。




