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サヨコは深い眠りの中にいる。
中央ホールの無重力空間に飛び込んでしまったときは、正直なところ、我を失いそうになった。十分に呼吸が出来るとわかっているのに息苦しくなり、少し前から始まっていた体の変調に不安になっていた心を、がくんといきなり一番深い闇に落とし込まれたような気がした。
(でも……スライがいてくれたから……)
心身ともに闇に落ち込む寸前に、支え抱え守ってくれた。
きっと、スライは『日本人』にも『GN』にも触れることさえ嫌だっただろう。サヨコが、自分を繰り返し試し追い詰めた科学者達の心理療法を、こだわりなくやれるかと尋ねられたら怯んでしまうのと同じように。
けれど、スライはサヨコが無重力空間に不馴れなのをからかいはしたが、見放しはしなかった。抱きかかえてくれた腕は温かく確かだった。緊張も少なく拒む気配もなかった。
それは、ひょっとすると、『CN』であることの矜持によるのかもしれない。或いは宇宙飛行士としてプロフェッショナルであるということなのかもしれない。けれども。
(きっと、本当は優しい人、なんだ)
だからこそ、自分達が同情し納得し理解しようとして受け入れた『日本人』達に裏切られた衝撃が、深い傷となって残っていて、今もスライを苦しめている。
(つらい、でしょうね)
身動きとれない鎖に絡まれるスライの切なさを、サヨコは自分も感じたような気がした。
眠り込んでしまう前に見た、スライの表情を、繰り返し繰り返し思い出す。サヨコを食い入るように見つめていた、珍しく明るく輝いて見えた、緑色の目を思い出している。
どこか遠い日に見たような、それとも幻の中で見たのだろうか。
(いい色だわ)
サヨコはそっと呟いた。
(今までずっと気づかなかった)
スライのあの目の色は、昔むかし日本にあったという宗教的な建物を囲んでいた森の色に似ているような気がした。サヨコは写真でしか知らないけど、沈没していく故郷を惜しんで撮られた写真はどれも平面だったが、見るものの心を強く捉えて深呼吸させるような、豊かさに満ちた森の写真があった。
『チンジュの森』というのだそうだ。
サヨコはその豊かな深い緑のイメージの中でゆっくりと深呼吸した。呼吸に伴って、手足にじんわりと血が広がり、染み渡るように隅々まで流れ出すのがわかった。
頭の霧が晴れて、どんどん澄み渡っていく。サヨコの体の中で、目には見えない、形としても説明のつかない、無意識の連鎖がしだいに直感へと引き上げられていく。
日系人モリ……モリ、は日本語で森をさす……森…深い緑……緑の中……爽やかな薫り……木々の薫り……そう、あれは『草』の薫り……『草』の香りをさせていたソーン・K・タカダ……タカダと出会ったのはカナンの部屋……緑の目のカナン……『草』の色は青……本当は緑でいい……なぜなら、それは毒物だから……緑の毒物……人に必要な毒物……でも、宇宙にいる『GN』にとっては……それこそが命……緑色の命の泉……。
まるで、何かの呪文を唱えているように、心の中に広がった緑色の渦に巻き込まれた瞬間、サヨコは目を覚ました。
(そう、キーワードは『緑』と『草』……でも、どうして?)
目覚める寸前に感じた直感を、心の中で確認する。
夢は幻や妄想ではない。それは、ときに的確な答えを運んでくる。ただ、それには、多少の時間と読み取りの技術が必要だ。
今の夢は、まだサヨコには読み切れなかった。
「サヨコ? 気がついたのか?」
部屋の隅にいたらしいクルドが近づいてくるのを、サヨコはぼんやりと見つめた。
「ここは…」
夢が鮮やかすぎて、現実がうまく把握しきれない。
「おれの部屋だ……昨日のことを覚えているか?」
「昨日のこと…?」
サヨコはゆっくり体を起こした。長い間使っていなかったように、手足が強ばって軽く痺れているような気がした。
のろのろと周囲を見回して、時計を見つける。時刻を見る限りでは、中央ホールへ出掛けてから2、3時間たっただけのように思える。だが、窓の外の地球は太陽の光を浴びて輝いていて、サヨコは自分の勘違いに気づいた。
「昼…?」
「ああ、そうだ。半日眠っていた。体の方はどうだ?」
クルドが心配そうに尋ねてくれる。
サヨコは微笑んだ。
「大丈夫……どこも苦しくないわ……逆にすっきりして……」
そこで、サヨコはようやくはっきりと状況が飲み込めた。
「スライ!」
見る見る顔から血の気が引くのがわかった。中央ホールに入ってスライと話し始めてからの記憶がない。うろたえて、ベッドから片足降ろしながら呟いた。
「どうしよう……わたし、スライを放って…」
「ああ、サヨコ、大丈夫、大丈夫だ」
クルドがすぐさま近寄ってサヨコの肩を押えた。なだめるように、
「その、スライに運ばれてきたんだよ。あんたは……一服盛られたんだ」
「一服…盛られた?」
おうむ返しにつぶやいて、サヨコはクルドを見上げた。
そこで、クルドが、中央ホールでスライと会ったサヨコが、モリやカージュのことを話しているうちに急に眠り込んだこと、ホールの換気が止められていて、もしサヨコ1人だったら危険な状態だったこと、ステーション内でサヨコに薬を飲ませた人物がいるとすれば、へたに騒がない方がいいと考えてクルドの部屋に運ばれたこと、を順序よく丁寧に話してくれた。
「まず『草』を飲んでおいた方がいいな。悪いが荷物を探させてもらった。朝の時間は過ぎてるんだろう?」
クルドは、サヨコの頭に説明が染み込んだかどうか考えるようにしばらく見つめてから、アクリルケースを差し出した。




