3
「ごめんなさい」
スライの声がよほどうんざりしたものに聞こえたのだろう、サヨコは消え入りそうに体を竦めたが、地上とは違って無意識に体は僅か後方に反る。それを抱えるスライはどうしてもサヨコにのしかかるような姿勢になってしまう。わずかに首を上げた姿勢のせいで、華奢な鎖骨に交わるようにTシャツに吸い込まれる細い首筋がスライの視界に入ってくる。ゆらゆら揺らめく髪が微かな甘い香りを運んでくる。『草』のどこか鋭い香りと交じって、まるで地球の植物園かどこかにいるような気がする。腕の中にある体は細くて脆そうで、あまり強く抱き締めると、草花の香りだけ残して砕けて消えていきそうだ。
(それでも、サヨコを今抱いてるのは俺だ…)
ふいにその思いが胸を押しつぶすほどの圧倒的な強さで広がった。
スライだけが今この娘を支えられる。暗い宇宙の中で、サヨコの安全を守っているのはスライだけなのだ。ここでなら、サヨコは傷つかないですむ。地球で繰り返された、自我を崩壊させるような検査を強いられることなどない。
(そうだ、そんなこと……もう、させやしない)
そして、スライはサヨコの笑顔を手に入れるのだ、百も千も…億万も。
とく、と感じたことのない甘い鼓動が胸で躍った。
だが、続いたサヨコのことばは、スライを厳しい現実に呼び戻すのに十分だった。
「あの…ほんとに……ごめんなさい。お邪魔するつもりはなかったんです……ただ、モリさんのことを聞きたくて……それに…気になることもあって…」
サヨコが細い声で紡いだことばに、スライは体を強ばらせた。
(では、お前はどうなんだ)
どこか魂の奥から響く厳しい声で尋ねられたような気がした。
スライはモリの死に何の責任ももっていないのか。
日系人のモリに対するスライの対応は、本当に、サヨコを追い詰めた『CN』のものとは違っていたのか。
(俺は…)
第一、一番最初にサヨコを拒んだのは、スライではなかったのか。
(知らなかったんだ……俺はサヨコのことを何も知らなかった)
それは単なる言い訳だろう。自分の差別意識を今さら隠すつもりなのか。
再び厳しい声が内側から響いて、スライは一瞬唇を噛んだ。眉をしかめ、サヨコの凝視に睨み返す。
「モリ……気になること…?」
「ええ…」
サヨコは居心地が悪そうな様子のまま、それでも考え込んだ表情になった。黒い目が深みを増し、その奥で、あの永遠の炎が揺れる。
スライは乾いてきた喉に唾を飲み込んだ。知らず知らずサヨコの目に意識のすべてが吸い寄せられていく。
「カージュは、宇宙旅行の経験が何度もあります。そのたびに『草』を使ってきたのですが、今回のような発作を起こしたことはなかったそうです。このステーションに来る直前にも、小さなフライトを経験しているのですが、そのときも大丈夫だった、と言っています。ただ…」
「ただ?」
機械的にスライはサヨコのことばを促した。話が続いている間は内なる制裁を聞かずにすむ。それに。
(瞳が)
話すにしたがってサヨコの瞳の奥が輝きを増してくる。それはまだスライの知らぬ表情、知らぬ輝きだ。その輝きにとことんまで意識を飲み込まれたい気分になっている。
スライの動揺にサヨコは全く気づいていないようだった。考え込んだ顔のまま、
「ただ、今回の旅行では、どうも『草』が『違う』ような気がした、と言っているんです。『草』で得られる感覚が薄いような気がした、と」
サヨコはことばを強調するように瞬きして、スライを下から見上げた。そうすると、サヨコの瞳の中の炎は一層鮮やかにスライの胸を射る。彼女を覗き込むような姿勢は首や背中に負担がかかっているきしみを訴えてきているのに、スライは彼女から目を離せなくなった。
「ファルプに相談して、カージュの血液中の『草』の濃度を確かめました。基準よりわずかに下回っていたそうです。カージュの『草』も一応調べましたが、こちらは問題がなかった……。ファルプはカージュが『草』の代謝に対して異常な反応をしているのではないか、と言ったんですが」
サヨコは少し首を傾げた。黒髪がふわりと揺れて、話し続ける唇にかかる。ふっくらと淡い色の、その唇に。話しにくそうに見えるから、指先で髪の毛を掬い、唇から取りのけてやりたい。そんな気持ちがスライの胸を掠める。だが、
「それなら、今までのフライトで問題が起こっていたはずです……わたしのように」
サヨコの最後のことばがひどく切ない響きを帯びていて、スライは我に返った。
聞いた内容を頭の中で反芻する。それが、みるみるとんでもない結論を導き出してくるのに、そう時間はかからなかった。
「君は……『草』が2種類ある、と言っているのか?」
サヨコはゆっくりと頷いた。なぜか、どこか眠たそうに2、3度、瞬きをしてスライを見る。
「だが、ファルプはカージュの『草』代謝を確認しなければ、と言ったし、まだしていないんだろう? 君の意見は暴論じゃないか」
「でも……もし、モリさんが…」
ふ、と急にサヨコは語尾を途切れさせた。後のことばを続けようとして開いた唇が、小さく丸く開いたまま力を失う。
「サヨコ・J・ミツカワ?」
スライは不安になって呼びかけた。相手の瞳がぼうっと弛んでこちらを見上げるのに緊張する。
(発作か?)
「もし……モリさんが……『GN』で………カージュのような……『草』を…飲まされたと……したら……一時的な……錯乱が…」
眠りに落ちそうな人間が必死にことばを紡ぐようにサヨコは答えた。自分でも妙だと思ったのだろう、緩やかに首を振って呟く。
「変だわ……どうして……こんなに…眠い…のかし…」
サヨコの身体がゆるやかに揺れる。
「サヨコ・J・ミツカワ?。サヨコ? サヨコ!」
「スライ……」
スライの名前を呼ぶと同時に、サヨコはふうっと目を閉じた。ぎょっとしてなお深く覗き込んだスライの腕に、身を委ねて首を仰け反らせ、目を閉じてやがて気持ち良さそうに寝息をたて出した。唇が小さく頼りなく咲いた花のように、ふわりと弛んで開く。
まるで、スライの唇を誘う、ように。
一瞬我を失ってサヨコを強く抱き締めかけ、スライはかろうじて踏み止まった。ほてるように熱くなっている自分の体に気がついて、苛立ち、眉をしかめてぼやく。
「何だ? 疲れてたのか? にしても、急に…」
ほっとしたせいと我を失った自分が恥ずかしくて乱暴な動作でサヨコを揺り動かそうとした、次の瞬間、スライはぎくりとして周囲を見回した。
空気が動いていない。
しかも、換気が止まっている。
無重力空間では、空気が動かない場所で眠ると、自分の吐いた二酸化炭素に顔面を覆われて窒息する。
モリが死んでいたのもここだった。換気は止められ、モリは多量の睡眠薬を飲んでいて深く眠り込んでいた。ちょうど、今のサヨコのように。
「サヨコ! 起きろ!」
スライは叫んでサヨコを揺さぶった。だが、サヨコはますます深く眠り込んでいくばかりだ。
(モリのときも、こう、だったのだろうか)
突然閃いた考えに、スライはサヨコを抱え込んだまま、凍りついた。それが意味するところに気づき、フィクサーを外し、急いで壁を蹴り、エレベーターの方へ向かう。
(もし、サヨコが狙われたのだとしたら、モリの死は自殺ではない)
ぐったりと柔らかくスライの腕の中で意識を失っている体を、見えない手に奪われていきそうな気がして、今度こそスライはサヨコを強く抱き締めた。




