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(サヨコは、本当はあんなふうに……笑うんだ)
愛おしげに、優しげに。今にもカージュを抱き締めそうに。唇が柔らかそうだ、と思った。すべらかそうな頬に触れてみたい、と思った。波打つ髪を引き寄せたい、と思った。
(俺は……何を……)
スライは混乱した。自分が考えたことが信じられなくて無理やりサヨコから目を離した。聞きたくないことばを無視しようと、側で同じように魅入られているらしいクルドを越えて、満足気なファルプに声をかけた。
「ファルプ……どうなったんだ?」
自分の声がひどく掠れているのを感じた。唇が乾き、こめかみが拍動に波打っている。胸が轟いている。息が苦しい。
視線をファルプに固定しているのが苦痛だった。この瞬間にも、サヨコはあの微笑みを浮かべているに違いない、なのに、スライはそれを見逃してしまう。体が無意識にサヨコに向き直りそうになる。サヨコの側に近寄って、その笑顔を覗き込みたくなる。その瞳に自分だけを映したくなる。
(俺は……どうしたんだ?……いったい、何を考えている?)
自分の思考にスライは戸惑い、制御できない危うさに不安を覚えた。首を振る。視界まで揺らいできたような気がしたからだが、その自分の動きのぎこちなさにかえって衝撃を受ける。
「『草』が合わなかったのか、それとも何かのショックを受けたのか」
ファルプはスライの動揺に気づいていないようだ。
「とにかく、軽い錯乱を起こしたんだ。身体的に問題を起こすほどじゃなかったが、自力回復できなくてね、サヨコに頼んだ」
ファルプは赤い髪を少しかき回し、肩をすくめた。
「たいしたもんだ、どんどん落ち着いていく。明日には回復できるかも知れないよ」
少しためらってから、ことばを継ぐ。
「スライ。もちろん、サヨコは問題を抱えているし、これから新たに引き起こす可能性もある。だが、これほど見事な腕を見せられると、もう少し力を借りたくなるな。あの患者も、完全に落ち着くのに、2、3日かかるかも知れないし、再発作を起こさないとも言えない。サヨコはいい助手になってくれると思うがね? どうだろう、サヨコには、わたしができるだけの配慮をしよう、だから…」
「……もう少しステーションに置いてくれ、か?」
スライは一瞬ことばが返せなかった。
(サヨコがもう少しここにいる)
体が熱くなり、鼓動がなお速度を増した。それを無視するように、ことさら冷たく言い放ってみる。
「だが、モリのケースは彼女には無理だ」
「無理かどうかやらせてみよう……実際に、他に手はないだろ?」
スライはサヨコに目を戻した。
カージュが囁く。サヨコが頷き微笑む。今度の微笑は温かで優しい。さっきのように光を放つものではない。けれど、胸を寛がせ体の緊張を解くような柔らかさだ。まるで……微笑に抱かれるような安堵感がスライの体をも温める。
(あんな微笑も……ある……のか)
スライは胸の中でぼんやり呟いた。
(もっといろんな顔を持ってる……? もっと……?)
それらの顔を全て見てみたい。サヨコの持つ顔の全てを。そして何より、あの黒く濡れた瞳でスライをまっすぐに見つめて微笑むところを。スライにだけ、微笑むところを。
次の瞬間、スライは凍りついた。
(黒い、瞳、だって?)
頭上から冷水を浴びせられたような気がした。
(俺は何をしてる?)
あれは、日本人だ。
あれは『GN』だ。
スライはきつく唇を引き締めた。
(忘れたのか? あの夜のことを? もう忘れてしまったのか?)
いや、忘れられるはずがない。
だが、サヨコの微笑みにつ掴まれた、胸の奥から響く声が優しく強くスライをなだめた。
(ここは客が集まるステーションで、客の安全を守るのは責任者の役目だろう?)
カージュは眠りについたらしい。サヨコが疲れた顔になって立ち上がった。
本当にきつく苦しい仕事だったのだろう。いきなりサヨコの体が小さく萎んでしまい、影さえ薄く、今にもそのまま空気に溶け入り消えてしまいそうになっていた。よろめくように椅子から離れる、それがひどく痛々しくて、スライは目を逸らせた。サヨコに背中を向けて出て行きながら、ファルプに、
「言ったことの責任は取ってもらうぞ」
「じゃあ?」
ファルプがサヨコがこちらに来るのを知りながら、これみよがしに確認する。
サヨコはそれまでスライが居たのに気づかなかったらしい。こちらを見たとたん、固い表情になって立ち竦んだ。さっきまで温かな微笑に満ちてカージュに注がれていた瞳が、はっきりと怯えてスライを見つめる。
(笑わない…サヨコは俺には……笑わない、んだ)
「サヨコ・J・ミツカワは、本日づけでステーションに勤務する。期間は未定だ」
腹立たしさと悔しさと困惑……ふいに胸に沸き上がった泣き出したくなるような感情をどう扱えばいいのかわからなくなって、スライは吐き捨てた。すぐに背中を向けて部屋を出ようとする。
出て行く瞬間、ふと、周囲の空気が軽く甘くなった気がして、思わずスライは肩越しに後ろを振り返った。
いつのまに親しくなったのだろう、ファルプばかりか、クルドまでサヨコを囲んで笑っていた。白くなっていたサヨコの顔はわずかに紅潮して、さっきスライに向けた強ばった顔とは違う、華やいだような明るい笑顔で2人を見つめてことばを交わしている。
(オレニハ?)
閃光のように胸を貫いたことばに、スライはぎょっとして、唇を噛んで急いで背中を向けた。このままここにいると、サヨコの肩を掴んで、俺のためにも笑ってくれと叫びそうな気がして、怒りと不安に襲われた。
(オレダッテ、ホシインダ)
何が?
スライは目を閉じてドアを閉め、急ぎ足に廊下を歩いた。
自分の中のものが、何もかも崩れていくような怖さを感じた。




