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スライが、ステーションでの『宇宙不適応症候群』発生を知ったのは、管理室で苛々とカナンとの連絡がつくのを待っているときだった。
総合人事部が忙しいのはわかっているが、今は『アース・コロニー』も夜、勤務は終わっているはずだ。だいたい、スライのカナンへの連絡は待たされることが多い。それでも、ようやく回線がつながった瞬間、クルドが部屋に飛び込んできて、『宇宙不適応症候群』の患者が発生した、と告げた。
「何?」
スライの頭にサヨコが倒れている姿がまず浮かんだ。そのとたん、なぜか激しい不安が襲った。黒い長い髪に絡みつかれるようにサヨコが床に倒れている。瞳は閉じられ、手足は凍りついていく。誰からも顧みられないまま人生を生きてきた娘が、スライのステーションで最後の望みを断たれて死ぬのだ。
「つっ」
いきなり胸が突かれたような痛みを感じて、スライは困惑した。とっさに胸に手を当てる。だが、それは一瞬のことだった。意識を向けるとどこにも傷みの箇所がない。
(疲れてるな)
つなぎかけたオペレーターに乱暴に通話中止を告げ、クルドについて慌ただしく部屋から出て行く。
スライが来るまでじっとしていられなかったのか、廊下で彼をいらいらと待っていた部下に尋ねた。
「サヨコか?」
「いや、客の1人、カージュという女だ。サヨコは治療にあたっている」
「サヨコが?」
声が変に上ずって、自分でも驚いた。ごまかすように足を速めるが、不審と不安が広がるばかりだ。
(あの幼い娘に患者が見られるのか? クルドはどうしてサヨコなんかに頼ったんだ?)
考えれば考えるほど苛立たしさが増してきて、スライは速度を上げながら尋ねた。
「ファルプは何をしてるんだ」
「ファルプはもう自分の出る幕ではない、とさ。スライ、サヨコは心理療法士として確かに有能だよ」
(そんなはずはない)
スライは胸の中で否定した。
(さっきまで、あんなに不安定で、あんなに弱々しくて、あんなに脆そうだったじゃないか)
だが、その思いは、医務室に入ったとたんに打ち消されてしまった。
「ああ、スライ」
「あれは……サヨコ、か?」
出迎えたファルプに、スライは半ば上の空で尋ねた。
医務室の奥、ついさっきまでサヨコ自身が横になっていたベッドに、1人の女性が横たわっている。青白くなっていた顔が徐々に血色を取り戻しているようだが、まだなお、心を襲った錯乱から完全に回復したわけではないらしく、ひっきりなしに何事かを呟いている。ひどく聞き取りにくい、うわ言のように脈絡のないことばの羅列だ。
その横で、サヨコが椅子に座って、じっと耳を傾けていた。
ぼんやりと灯された枕元のあかりはオレンジがかった柔らかな光だ。その光に照らされて、サヨコの黒い髪がより一層黒々と見える。同じ色の、けれどもより深い黒の瞳が、今、静かな落ち着きをたたえてカージュを見つめている。唇はほとんど動かない。身動きもしない。まるで、カージュのことばの1つ1つに、この世界の謎のすべてが解き明かされていくのだとでも言いたげな様子で、サヨコはじっと話を聞いている。
ときおり、カージュは強く何かの同意をサヨコに求めた。常識からすれば、とてもわけのわからない理屈や洞察を認めよ、と迫っている。
サヨコは決して安易には同意しなかった。だが、カージュのことばを否定するわけではない。
「そう、そうなの。今そういう気持ちなのね…そう思えて仕方ないのね」
低い優しい声で囁いている。
その声は遠い日の母親のことばに似ていた。赤ん坊が自分の回りにあるものに対して様々に叫ぶ、その声を受け止め抱き寄せほおずりして返してくれる、豊かな愛情の声、無条件にすべてを肯定してくれる声だ。
そして、カージュはそのサヨコのことばにのみ反応しているように見えた。
「あなただけよ、あなただけがわたしのことをとてもよくわかってくれている」
呟きを繰り返し、呟くごとに微笑み直し、カージュは次第に気持ちを落ち着けていくようだ。
(何だろう、これは)
スライは魅入られたように立ち竦んでいた。
(時が、止まっているみたいだ)
いや、サヨコが時を止めているみたいに見える。
忙しく回り続ける時間の波に溺れそうになっているカージュを、拾い上げ掬い上げ、カージュが望む速度で流れる時の中へゆっくりと放っているようだ。
そして、その隣で、サヨコもカージュの速度で生きている。
焦りもせず、苛立ちもせず、まるでカージュがどこへ流れ着くのかすべて知りながら、それでもカージュの速さで泳ぐと決めているように。
そのサヨコには、スライの前で見せた怯えは一切見られなかった。限りなく自然に、カージュの位置に自分を置いて、ひどく不安定な場所だろうに怯む気配一つない。
じっと見つめていると、サヨコが次第に輝いてくるような気がした。まぶしくはない、けれども、決して弱まりもしなければ消えることもない時の海に建つ灯台、人間の苦痛と迷いの中でもかき消されない、永遠の真理の炎のように。
何を聴いたのだろう、サヨコがふいに嬉しそうに瞳を細めた。頷き、またにっこりと微笑む。
瞬間、スライはその微笑に、自分の心の奥底に沈んでいた、凍った檻が砕かれたような衝撃を覚えた。
それは、幼いころ教会で見た聖母マリアの笑みとも見えた。だが、それより遥かに近く、遥かに強く、スライの胸の深い部分を鷲掴みにするようなものだった。




